1-3 静けさに沈む朝
——そして、翌朝。
カーテン越しに射し込む陽光が、ゆっくりと部屋の輪郭を照らし出していた。
白いレース越しの光はまだ柔らかく、壁に淡い陰影を作っている。
どこか遠くから、鳥のさえずりが小さく聞こえてきた。
続けて、枕元の目覚まし時計が、控えめな電子音を鳴らし始める。
風間圭介は、その音に導かれるように目を開けた。
まぶたの裏に残っていた夜の余韻はすぐに消え、身体は自然と起き上がっていた。
深呼吸を一つ。窓を開けると、まだ朝の匂いを含んだ風が部屋の中に吹き込んでくる。
制服に袖を通し、鏡の前で寝癖をざっと直す。
階下へと降りると、ダイニングのテーブルには、焼きたてのトーストと、湯気の立つカップが並んでいた。
「おはよう、圭介」
母の声。キッチンから振り返った彼女は、いつものエプロン姿で、フライパンを手にしていた。
「うん、おはよう」
短く返しながら、トーストをかじる。
その味も温度も、何ひとつ変わらない。
昨日と同じ、何の変哲もない朝。
——昨日のメールのことなど、もはや思い出しもしなかった。
食事を終え、靴を履いて玄関を出る。
早朝の光は、街全体を白く包み込み、影を曖昧にしている。
肌に触れる風も穏やかで、六月の朝としては驚くほど過ごしやすかった。
目指すのは、いつもの交差点。
そこに立ち、通学路を行き交う生徒たちを何とはなしに見つめながら、圭介は、ふと時計を確認した。
「……来てない?」
時刻は、待ち合わせにしている時間をすでに三分過ぎていた。
周囲を見回しても、あの家の角から、彼女の軽やかな足音は聞こえてこない。
制服のスカートを揺らしながら駆けてくる——そんな日常の一幕は、今日に限って、現れなかった。
信号が青に変わる。
登校途中の生徒たちが、何人も足早に交差点を渡っていく。
それでも、彼女の姿はどこにもなかった。
——おかしい。
恭子が遅刻をするのは、めったにないことだった。
少なくとも、こうして無断で姿を見せないようなことは一度もなかったはずだ。
昨日のメールが、ふと脳裏によぎる。
思い出そうとしなくても、文字の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がる。
ざらり、と胸の内側をなにかが擦る。
得体の知れない違和感。目に見えないけれど、確かにそこにあるもの。
次の瞬間、圭介は交差点を離れ、足を向けていた。
——恭子の家へ向かう。
白い塀と、手入れの行き届いた低木に囲まれた、一軒の家。
玄関までの小道には、ほとんど人の気配がない。
それでも、記憶にある風景のままだ。変わらぬ佇まい。変わらぬ静けさ。
インターホンのボタンを押す。
短くチャイムが鳴り、それから数十秒後、玄関の扉が音もなく開いた。
「あら、圭介くん」
そこに立っていたのは、恭子の母だった。
落ち着いた口調で名前を呼び、視線をこちらへと向けてくる。
姿勢は正しく、言葉も変わらず丁寧で、どこにも乱れは見られない。
「すみません、恭子さん……ご在宅でしょうか?」
「ええ。いるわ。今、呼ぶから……その前に、少しだけいいかしら」
そう言って、彼女は一歩だけ外に出て、周囲を軽く見回すようにして声をひそめた。
「昨夜から、あの子、ちょっと様子がおかしくて。何も言わずに携帯を見つめたまま、ずっと黙っていたの。理由を聞いても首を横に振るばかりで……あなた、何か知っている?」
「……いいえ。でも、今日一緒に行くので、少し話してみます」
「それなら安心ね。お願いするわ」
圭介は小さく頷いた。
話すうちに何かわかるかもしれない、という気持ちと同時に、うまく言葉にできない焦りのようなものが心の奥でくすぶっていた。
やがて、家の奥から階段を下りる足音が聞こえてきた。
続いて、制服姿の恭子が、玄関にそっと姿を現す。
「……ごめん、お待たせ」
その声は、平静を装っているようでいて、どこか響きが遠い。
表情も読み取りにくく、どこか濁ったガラス越しに見ているような印象があった。
まるで心の底に、言葉にできないものを沈めたまま、口だけが動いている——そんな風に見えた。
圭介は何も言わず、彼女の隣に立った。
そして、二人は並んで歩き出す。
通い慣れた通学路。
家々の間を抜ける道も、道端の草木も、何ひとつ変わっていないはずなのに、今日はどこか、風の音さえ聞こえないほど静かだった。
その静けさが、なぜかやけに心に残った。