4-6 連撃の方程式
床は凍っていた。薄氷の帯が、玲次の足元から滑るように走っている。冷気は今も緩やかに広がり、廃倉庫の床面を静かに覆っていく。
玲次は、ゆっくりと身構えながら、目の前の男を見据えた。
相手の能力は不明。ただ一つだけははっきりしていた。あの“飛びかかる”動き――空間に抗うように滑空するあの身のこなし――が、人間の域を逸しているということ。そして、見えない武器。さっきの一撃、もしこちらが滑走で避けていなければ、確実に致命傷になっていた。
「……得体の知れねぇやつだ」
呟いた直後、男の姿が跳ねた。軽やかな踏み切り。空中を蹴ったとしか思えない軌道で、音もなく距離を詰めてくる。
(来る——!)
玲次は右手を胸元へ引き寄せる。掌に集めた冷気が、鋭利な氷の針を形作る。そのまま男の動きを狙って投擲――だが、避けられた。跳ねるように身を翻し、まるで風に舞うかのように。
(今の反応……やっぱり反射神経だけじゃねぇ。身体の摩擦を操作してるのか?)
仮説と観察を並行処理する玲次の視線が、次に男の手元を捉える。空中に浮かんでいるかのような、見えない刃――風圧が空間を裂く気配が、一瞬早く肌を撫でた。
「っ……!」
玲次は即座に氷の盾を形成し、前方へと掲げる。刃がぶつかり、音なき衝突とともに亀裂が走る。だが、貫かれた穴は即座に埋まり、再び滑らかな氷面に戻る。流し込まれた冷気が、盾の形状を強制的に再構成し、取り込んだ刃を氷の中に凍てつかせていた。
「――離さねえよ」
だが、名も知らぬ少年は、拘束された刃をあっさりと放棄し、再び掌に“何か”を凝縮させていた。
空中での滑空、異常な運動性、そして見えざる武器。観察から読み取れるのは、空気そのものを掌で凝縮し、武器へと変えているということ。
しかし、どこまでが攻撃範囲なのかは依然として見えづらく、能力の全貌はつかみきれない。
「厄介な相手だな……」
見えない武器に付き合い続けるには、分が悪い。氷の針で牽制し、敵の動きを誘導。盾で攻撃を誘い、封殺――だが、それだけでは決定打にならない。
玲次が次の展開を計ろうとした、そのときだった。
小さな、震えるような気配が戦場に差し込んだ。
振り返ると、倉庫の隅。崩れた荷の陰から、恭子が立ち上がっていた。
その表情には、怒りでも焦りでもなく――ただ、深い悲しみだけが宿っていた。
玲次は息を止める。
それは、言葉よりも確かな“感情の発動”だった。
恭子の能力――共鳴。
強い感情を介して、他者にそれを伝播させる力。
彼女が放ったのは、悲哀だった。
凍てつくような静寂と、胸を締めつけるような切なさ。言葉を超えて伝わってくるその感情が、まるで空気そのものに染み渡っていく。
そして、それは確かに――敵の足を止めた。
少年の足元が揺れ、肩のラインが僅かに沈む。視線が宙を彷徨い、戦闘の一点から外れていく。
玲次の観察眼は、それを見逃さない。
「……今だ、圭介」
その声に応えるように、空気が裂けた。
風間圭介が跳躍する。一直線の蹴りが、真向から突き進む。
だが、敵もただの素人ではなかった。直前で軸足をひねり、身体を滑らせるようにして回避する。
直撃はしなかった。だが――
「……体勢が、崩れたか」
玲次は瞬時にそれを見抜く。圭介の蹴りは、敵のバランスを大きく崩した。悲しみの揺らぎと、咄嗟の回避――その二重の乱れが、敵の均衡を奪っていた。
――そして、その刹那に飛び出したのは、春香だった。
その動きは、恐れを断ち切ったように鋭く、まっすぐだった。
彼女は、アリスの「今が勝機」という言葉を信じて動いただけだった。ならば、いまだ。未来を知る彼女が言うのならば間違いない。
地面を蹴り、全身を捻る。
回し蹴り。
鋭く、正確に、敵の側頭部へ。
刹那。
敵が振り返り、手に持つ刃で応戦しようとする。
だが、そこにあるはずの“刃”が――なかった。
敵の指が空を掴む。だが、何もない。視線が激しく泳ぎ、明らかな動揺が滲み出る。
そのとき、彼の視線がひとつの点に吸い寄せられた。
――拓夢。
倉庫の壁際。誰にも気づかれぬよう息を潜めていた少年が、今は小さなスケッチブックを胸元に掲げていた。
その紙面には――精緻に描き込まれた、一振りの刀。拓夢が“あの瞬間”、スケッチブックの中に封じ込めたということか。
すべては、圭介の蹴りで隙が生まれた、その“瞬間”に。
敵の目が見開かれる。だがもう、間に合わない。
再び刃を作るには、一拍の遅れが必要だ。
「――っ!」
音が、した。
刃が擦れるような高音ではない。
拳でも、氷でもない。――肉と骨がぶつかる、生々しい衝撃音。
敵の体が跳ね飛ばされ、転がる。
床を滑り、塵を巻き上げる。
倉庫に、一瞬の静寂が戻った。
玲次は呼吸を整えながら、拳を握りしめた。
――繋がった。
恭子の共鳴、圭介の攻撃、拓夢の封印、春香の一撃。
そのすべてが“ひとつ”に繋がって、初めて成し得た勝利だった。




