1-2 今宵限りの静寂
玄関の鍵を回す、わずかな金属音が、静まり返った空間にやけに大きく反響した。
「……ただいま」
掛け声は無意識に漏れたものだった。返ってくる声がないのも、当然のことだ。両親は今日も仕事で不在。聞き慣れた無音が、いつものようにそこにある。
靴を脱ぎながら、肩からずるりとカバンを下ろす。靴箱の上には今朝置いたままのチラシがあり、リビングの扉は中途半端に開いている。空気が微かに埃っぽく、誰の気配もしない。いつもの、何もない、変わらない家の空間。
ふと顔を上げると、廊下の奥にある窓が夕陽を受けて淡く朱色に染まっていた。カーテンの隙間から差し込んだ光が、床にまるで透明な布のように広がっている。その光景が妙に胸に残った。あまりにも穏やかで、逆に胸がざわついた。
こうしていると、すべてが「昨日と同じ」ように見える。変化のない日々。退屈で、でもどこか安心できる風景。圭介は思わず小さく息をついた。
階段をゆっくりと上がりながら、心のどこかにうっすらと残る違和感を無視するように、手すりに指を添えた。軋む音。手のひらに感じる冷たい金属の感触。そのひとつひとつまでも、今日がいつもの一日である証明のようだった。
自室の扉を開ける。ほの暗い部屋の中、窓際のカーテンがわずかに揺れている。制服のシャツを脱ぎながら、無造作にスマートフォンを手に取り、充電器に差し込んだ。
その瞬間、画面に点灯した通知が目に留まる。
一通のメール。
送り主——表示なし。
件名——なし。
「……ん?」
眉をしかめ、指でタップする。
表示された本文に、息が止まりかけた。
⸻
風間 圭介 様
あなたの中に眠る「力」は、
国の未来を担う重要な資源です。
あなたには選ぶ必要があります。
国に従い、その力を差し出すか。
あるいは、抗い、力と共に制圧されるか。
いずれを選ぼうとも、あなたに拒否権はありません。
前者を選ぶなら、明日、迎えが参ります。
後者を選ぶなら、いかなる手段を用いても、あなたをお迎えします。
選択の猶予は、今宵限りです。
⸻
「……は?」
圭介の喉がかすかに鳴った。目を瞬かせながら再び文章を読み返す。文面はまるで公文書のように整っているが、その内容は悪質な冗談にしか見えない。
「なんだよ、これ……新手の詐欺か?」
思わず独り言が漏れた。メールアドレスの欄には一切の記載がなく、件名も空白。にもかかわらず、こちらの名前はフルネームで記されている。
ぞくり、と背中をなぞる冷たい感触。
部屋の空気が、さっきまでより一段、重く感じられた。夕暮れの残光が窓の外に滲み、部屋の明暗が奇妙なグラデーションを描いている。見慣れた天井も壁も、ほんのわずかだが、いつもの位置からズレてしまったような、そんな不協和。
「……迷惑メール、だよな。たぶん」
自身に言い聞かせるように呟く。そうだ、どこかの悪質なサイトに個人情報が漏れただけに違いない。深く考える必要はない。いや、考えない方がいい。そう自分に強く言い聞かせながら、スマホの画面を閉じて、勢いよくベッドの上に放り投げた。
その音が、部屋の中でやけに大きく響いた。
台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。冷えたペットボトルの緑茶を引き抜き、キャップを開ける音とともに、乾いた喉を潤す。喉を流れる冷たい液体が、一瞬だけ現実を引き戻してくれる気がした。
だが、戻ったはずの現実は、どこかおかしかった。
テレビをつける。リモコンを握り、慣れた手つきでチャンネルを次々に変える。バラエティ、ワイドショー、ニュース番組。いつもの顔ぶれ。けれどその声すら、遠くから響くように耳に届き、画面の人物たちも薄い膜越しに演技しているように感じられる。
圭介は、立ったままテレビを見ていた。だが、内容は何ひとつ頭に入ってこない。
夜が、静かに落ちていく。
何も変わらないはずの部屋。机の上の教科書。棚に並ぶ漫画。ベッドの隅で落ちそうになっているクッション。
どれもいつも通りのはずなのに、まるで“誰かの部屋”のように、他人の暮らしを覗いているような違和感があった。
まるで、薄いガラス一枚を挟んで、世界と隔てられてしまったような。
そんな、不思議な夜だった。