3-7 特訓・拓夢×玲次編
午後の陽が傾き、廃墟の骨組みに長い影を落としていた。
乾いた風が舞い上げた砂塵の向こうから、明るい声が響く。
「見た!? 今の、すごくない?」
絵垣拓夢が駆け出すように壁へ向かい、ぴたりと掌を当てる。
その瞬間、まるで古びた舞台装置のように――壁の一部が“くるり”と裏返った。音もなく回転する“どんでん返し”の扉が開き、少年の身体を滑らかに吸い込んでいく。
次の瞬間、十数メートル離れた場所で同じように壁が反転する。
拓夢はそこからひょこりと顔を出し、いたずらっぽく笑ってみせた。
「じゃーん! こっちだよー!」
氷川玲次は無言でその一連の動きを目で追っていた。
少年の歓声の裏にある、理屈を超えた空間操作。その現象を一つ残らず記憶に刻み込む。
「こんな自由にくるりってできたの、初めて! 入るときも出るときも、扉がくるって回るの。めちゃくちゃ気持ちいい!」
拓夢は笑いながら、足元の瓦礫を拾い上げ、壁へと叩きつける。
“ごとん”という鈍い音とともに、その破片に触れていた壁が再び“くるり”と裏返り、瓦礫ごと“裏側”へと引き込んだ。
それは奇跡というより、精密に制御された悪戯のようだった。
重力も抵抗も存在せず、ただ“触れたその瞬間だけ”――壁が別の次元へと口を開く。それがこの力のルールだ。
玲次の隣で立ち尽くす一人の女性。
拓夢の母は、訓練を依頼した張本人でありながら、その視線の奥には不安と迷い、そして一筋の希望が入り混じっていた。
「……本当に、大丈夫なんでしょうか。あの子の力、あまりにも――」
「落ち着け。最初にやるべきことは一つだ」
玲次の声は低く、明瞭だった。
目を拓夢から逸らさず、言葉だけを母に向ける。
「“何ができるのか”を正確に見極める。それが先だ。そのうえで、どう扱うかを考えるべきだ」
拓夢がまた壁に触れ、するりと中へ消える。
まるで水の中を泳ぐように壁の“裏側”を進み、再び別の場所から――くるりと開いた扉を抜けて姿を現す。
その一連の動作は、もはや初めて触った力とは思えないほどに軽快で、洗練されていた。
「俺たちの訓練で、どこまで伸ばせるかはわからない。だが――」
玲次は母の方へと視線を移す。
「間違いなく言えるのは、やっておいて損はないってことだ。
あの子の力は、使い方次第で毒にも薬にもなる。導く者が必要なんだ」
母は唇を噛み、視線を落とした。
あの無邪気な笑顔の裏にひそむ危うさが、胸の奥に冷たい波紋を広げていく。
玲次は表情を変えぬまま、淡々と続けた。
「この力、地面じゃ使えない。対象は等身大に収まる壁面限定。しかも“触れているもの”しか送れない。目の前を通り過ぎるだけのものもダメだ。……思ったより、制限は多い」
「……それがあの子の限界ってことですか?」
「いや。今ある条件が“能力の限界”なのか、“本人が決めつけてる枠”なのかは、試してみないとわからない。
もし一つでもルールを破れるなら、応用の幅はぐっと広がる」
そう言って、玲次は今度は拓夢に声をかける
「拓夢」
「ん?」
「さっきの石。あれ、ちゃんと手で持って入れたんだよな?」
拓夢は素直に頷いた。
「うん。触ってないとダメなんだよ。試したことあるけど、投げるだけじゃ扉が開かない。だからいつも、手で持つか、くっつけてからじゃないと使えないの」
「……やっぱりな」
玲次は、壁の前に立つ拓夢をひと目見てから言った。
「なら次は、“触れずに送る方法”を試してみろ」
「えっ、それってできるの?」
「それはこれから見極める。でも、もし可能になったら――たとえば飛んできた攻撃を、まるごと裏側に捨てられる。防御として成立する」
拓夢の目がまん丸になる。
「やっば……それ、めっちゃカッコいいじゃん……!」
「試してみろ。考えろ。力ってのは、遊びと同じだ。正解なんてない。だから面白い」
玲次の声にこもった熱は、普段の冷静な姿とは裏腹だった。
拓夢は目を輝かせながらうなずき、再び壁へと向き直る。
くるり、くるり――二次元と三次元を繋ぐ“どんでん返し”の扉。その境界線に、小さな手が静かに伸ばされていく。
それを、玲次と母親は、言葉もなく見つめていた。




