3-5 特訓・圭介×春香編
割れたコンクリートがむき出しになった広場の中央に、午後の光が落ちる。
鈍い金属臭を孕んだ風が、錆びた鉄骨と瓦礫の隙間を這い、小石を巻き上げながら足元を転がっていく。無人の廃墟。
そこに吹き込む砂塵が、時の止まった空間を淡く攪拌していた。
広場の中心。
圭介と春香は、数メートルの距離を挟んで向かい合っていた。
他の四人はそれぞれ別の場所で準備をしている。だがこの一角だけは、まるで音が吸い込まれたかのような静寂に包まれていた。
鼓膜の奥で、自分の心音がやけに大きく反響する。それが怖かった。
「じゃ、始めるよ。合図とか要らないでしょ?」
春香はそう言って、軽く肩を回した。
赤いスニーカーがひとつ、静かにアスファルトを擦る。
その瞬間、空気が変わった。
風の匂いが消えた気がした。音が、光が、世界そのものが、春香の動きに集中していく。
――来る。
考えるより先に、身体が勝手に動いていた。
横に跳ねるようにして身を捩る。直後、何かが耳元を掠めた。風すら裂かない、無音の拳。反応が一瞬遅れていたら、頬骨が砕けていたかもしれない。
「悪く思わないでね。あんたのためだから」
春香の声は穏やかだった。けれど、容赦はなかった。
二撃目は背後から。肩甲骨の辺りに鈍い風圧。
次の瞬間には、足元が揺れた。足払い。
踏み込まれた気配に脚がもつれ、圭介は必死にバランスを保つ。
視界が揺れる。乾いた息が喉に引っかかる。
だが、倒れるわけにはいかない。這いつくばってでも、逃げなければならない。そうしなければ、戦場では生き残れない。
春香の動きは速かった。それはもう、理不尽なほどに。
だが、その理不尽さの奥に――優しさがあった。
彼女は、手だけで攻めてきている。極力足技を封じている。
そして間合いをきっちり取っている。明らかに、手加減していた。
だからこそ、怖かった。
「能力を発現させるのはさ、努力でなんとかなるもんじゃないの」
春香はひとつ息をつきながら、こちらに目を向けた。
「だけど、生き延びる技術は鍛えられる。避ける、逃げる、隠れる――そういうのは才能じゃない。やるかやらないか、ただそれだけ」
まっすぐな声だった。冷たくも熱くもない。ただ、真実だけがそこにあった。
圭介には、まだ能力がない。
だからこそ、生きるための術を身につけなければならない。それがわかっているから、逃げられなかった。
逃げたくなかった。
「くそ……!」
小さく息を吐いたと同時に、春香が再び踏み込んだ。
わずかに遅れた。反応が一歩遅れた。
見えたのは、春香の膝だった。
ふわりと持ち上がる。それは迷いのない軌道で、圭介の鳩尾へと一直線に――
だが、その膝は、紙一重の距離で止まった。
寸止め。完璧なコントロール。
打たれていないのに、肺が跳ね上がった。
呼吸が乱れ、視界が一瞬、白く染まる。空気の壁に叩きつけられたような衝撃。理解よりも先に、本能が身体を制御した。
腰が抜けるように、その場に尻餅をついた。
「……ご、ごめん」
春香の声が降ってきた。眉をひそめながら、手を差し出してくれる。
その顔には、意外なほどの戸惑いがあった。
「出そうとは思ってなかったんだけど、身体が勝手に動いちゃって……癖って怖いよね」
「……ううん。わかったよ。今の、止めてたんだよな。本気じゃないってのが……逆に、怖かった」
「だよねー」
春香は苦笑しながら、圭介の手を引いた。
体温が伝わる。力強くも優しい掌だった。
「でも、尻餅つくくらいで済んだのは、ちゃんと見てたからだよ。そうでもないと一発目で倒れてたと思うし」
息を整えながら、圭介は立ち上がる。
肺が焼けるようだったが、それでも心だけはまっすぐだった。
「……もうちょっと、続けよう。まだ終わりじゃないんだろ?」
圭介の言葉に、春香は小さく頷いて数歩後退する。
跳ねるようなステップ。リズムを取りながら、にこりと笑った。
「うん。じゃあ、次は――もっと避けてね?」
太陽は傾き、鉄骨の影が長く伸びていく。
錆びた屋根の隙間から、オレンジ色の光が斜めに差し込む。
乾いた空気と埃の匂い。その中で、圭介たちはまた動き始めた。
逃げるためじゃない。
戦うためでもない。
ただ――守るために。
訓練は、まだ終わらない。




