3-2 くるり、ってしてあげる
午前十時前。
黒のSUVが、街の外れへ向けて無言の加速を続けていた。
フロントガラスの向こうには、どこか埃っぽい青空が広がっている。市街地を抜け、民家もまばらな道へ差し掛かったころ、車内は奇妙な静けさに包まれていた。
運転席には玲次。目元を微かに緩めながらも、真っ直ぐ前だけを見据えている。
助手席には春香。脚を組み、窓の外に視線を向けている。
後部座席には俺ーー風間圭介と恭子が並んでいた。
「……なんか、静かすぎないか。車が走ってる感じがしない」
思わず漏れた言葉に、春香がルームミラー越しに微笑んだ。
「いいでしょ。アリスの“お遊び資金”で買ったの」
「お遊び資金?」
首を傾げると、春香は愉快そうに肩をすくめる。
「暇つぶしにデイトレードやってるのよ。予知能力持ちの彼女にとっては、ほとんど答え合わせみたいなもの。当たるとこしか買わないから、勝率は完璧」
「それ、チートってレベルじゃないだろ……」
もはや感嘆の域だった。
未来を読み、瞬時に判断し、確実に利益を得る。そんなことが現実にできる人間がいる。しかも、まだ十代の少女がそれを“遊び”でやってのけているというのだ。
「本人はゲーム感覚なんでしょうね。税金もちゃんと納めてるし、倫理的にはギリギリ……いや、ギリ超えてるかもしれないけど」
春香はそう付け加えて、窓の外へ視線を戻した。
俺は小さく息をついた。
どこかで、“持たざる者”としての焦燥を覚えるかと思っていたが、そうではなかった。ただ純粋に、まだ知らぬ世界の断片を見ることに喜びを感じていた。
* * *
目的地は、街の端にある小さな公園だった。
コンクリート塀に囲まれた敷地には、人の気配がほとんどない。遊具は錆び、草は伸び放題。老朽化したベンチが、季節外れの風に軋んでいた。
車を停めると、玲次が窓を開けて静かに周囲を見渡した。
「各自、調査開始。外壁を中心に、怪しい箇所があれば報告」
その声に促されるように、俺たちは自然と動き出した。
玲次は車を降り、南側の塀へ向かう。春香は西へ、俺と恭子は北側を担当することにした。
「思ったより……荒れてるな」
俺は呟いた。壁に手を当ててみるが、コンクリートは冷たく、硬いだけだった。
「なんだか、妙に静かね」
恭子が眉をひそめる。確かに、風の音すら耳に届かない。
俺たちは塀沿いをゆっくり歩きながら、何か“違和感”を探した。
だが――何も、見つからなかった。
ひび割れも、変色も、不自然な凹凸も。
隅々まで目を凝らしても、返ってくるのは沈黙だけだった。
「空振り、か……」
平凡な風景の中に、非凡な“何か”が隠れているはずだった。
それを、まだ――俺たちは知らなかった。
* * *
南側の塀の前。
玲次は、静かに歩を進めていた。
靴音は土の上に吸い込まれ、風も止まっている。
彼にとって、この沈黙は心地よかった。誰にも邪魔されない空間で、目に映る全てが観察対象だった。
壁の表面。温度。光の反射。空気の動き。
すべてを頭の中で解析しながら、必要な断片を拾い上げていく。
だが――
「ねえ、お兄ちゃん、何してるの?」
不意に、背後から声がかかった。
その瞬間、玲次の思考が遮られる。
振り返る。
そこには、一人の少年が立っていた。
年齢は十歳前後。髪は風に流れ、服は少しよれている。
拍子抜けするほど普通の子供だった。
(……なんだ、ただの通りすがりか)
一応視線を走らせたが、危険の兆しは見えない。
玲次は、すぐに警戒を緩めた。任務中ではあるが、相手は子供。深入りする必要はない。
「遊んでるの?」
「仕事だ。ここは危ないから近づくな」
形式的な忠告だけを残し、玲次は視線を切った。
無関係な子供に時間を割く余裕はない。油断ではなく、合理的判断――そのはずだった。
歩き出す。無視を貫く。
だが、少年の声が背中を追いかけてきた。
「つまんないな。お兄ちゃん、ノリ悪い」
まるで、気に入らないオモチャに拗ねた子供のように。
玲次は眉をわずかに寄せたが、それ以上の反応はしなかった。
子供の気まぐれに取り合う意味はない。そう、思っていた。
――それが、誤算だった。
「じゃあね。くるり、ってしてあげる」
その一言で、世界がひっくり返った。




