幕間 灰色の世界、白い導き
風は冷たくもなく、ぬるくもなく、ただそこにあった。
湿気を含んだその風は、まるで時間を運ぶように、ゆるやかに、静かに空間を流れていく。
ここは、都市の外れ。建設途中で放棄された、誰にも顧みられない空間。
鉄骨は錆にまみれ、地面のコンクリートはひび割れて苔が生え、足場は今にも崩れそうに斜めに傾いていた。
かつては誰かの計画に基づき、何かを造ろうとした場所だったはずだ。だが、今ではただの空虚。
昼間なのに影が濃く、空はどこまでも灰色で、地と空の境界すらも曖昧だ。世界が溶けて、ぼやけて、まるで夢の中のようだった。
そんな空間の片隅。古びた資材の山の裏に、ひとりの少女がいた。
背を丸め、細い肩をすぼめて、膝を胸に抱え込むようにしてうずくまっている。
黒いパーカーのフードを深くかぶっているせいで、顔は見えない。
けれどその体勢からは、誰にも見つからないように、と願うような気配が滲んでいた。
今日も、ここで時間が過ぎていく。
誰にも気づかれず、誰にも話しかけられず、誰にも求められず。
一日が始まり、そして終わる。それだけのことが、彼女にはひどく重く、苦しかった。
――いつからだろう。自分が、まるで世界から「いないもの」として扱われていると気づいたのは。
思い返せば、小学校の頃からそうだった。
いじめられた記憶はない。机に落書きをされたことも、暴言を吐かれたこともない。
だが、それ以上に深く、静かな拒絶があった。
話しかけられない。目を合わせても、すぐに逸らされる。
隣の席に座っていても、視線は向けられず、名前も呼ばれない。
最初は偶然だと思っていた。クラスが合わなかっただけ、たまたまだと。
けれど、中学、高校と進んでも、状況は変わらなかった。
誰も彼女の存在に気づかない。見えているはずなのに、見ていない。
まるで、何か透明な壁に覆われているようだった。
だから彼女は、誰にも必要とされないこの廃墟を選んだ。
ここなら、気にされないことが当たり前だった。
誰も来ない。誰も見ない。誰も言葉をかけてこない。
それは、孤独ではなく――安堵だった。
存在を無視されるより、最初から誰もいない場所にいる方がずっと楽だった。
今日も、そうして日が傾いていく。
濃くなる影の中で、少女は耳を澄ませる。世界の音を、呼吸の音を、自分の心臓の音を。
この風の中でなら、きっと自分は音もなく消えていける。
そう思った、そのとき――
“足音”が聞こえた。
かつん、かつん、と乾いた音が、コンクリートを叩く。
ゆっくりと、規則的に、だが確かな意志を感じさせる歩み。
少女の肩が、びくりと震えた。
――こんな場所に、人が来るはずなんてない。
足音は近づいてくる。
廃材の影から見える隙間に、やがて人影が映った。
そして、足音が止まり、静寂が戻る。
「こんなところで、ひとりで何してるの?」
静かで、澄んだ声だった。
どこか遠くの世界から届いたような、現実味のない響き。
少女はおそるおそる顔を上げた。
廃材の隙間、灰色の光の向こうに――“彼女”はいた。
全身を白いワンピースに包んだ女性。
その姿は、まるで風景の一部ではないかと錯覚するほど自然だった。
長い髪が風に揺れ、端正な顔立ちに浮かぶ微笑は、どこか神話の登場人物のようにも思えた。
年の頃は、母と同じくらいだろうか。
だが、その雰囲気は母とはまったく異なる。
あたたかさではなく、静けさ。親しみではなく、確信。
それなのに、なぜか――懐かしいとすら感じた。
「……私に、言ってるんですか?」
自分の声が、かすかに震えていた。
誰かに話しかけられたのは、いつ以来だろう。
教室でも、駅でも、コンビニでも。通りすがりですら、誰も自分に目を向けなかったのに。
彼女は一歩、少女に近づき、そして微笑んだ。
「そうよ。泣いている子を、放ってはおけないでしょう?」
少女は驚いたように瞬きをした。
自分が泣いているなんて、思っていなかった。
けれど、彼女のその言葉に、初めて気づく。
――ずっと前から、心は泣いていたのだ。
「どうして……話しかけたんですか……? 私なんか……誰にも見えないのに……」
その問いに、彼女はほんのわずか、顔を傾けた。
「あなたは、特別だからよ」
その声は、まるで真実だけを語るような静けさに満ちていた。
「あなたのその苦しみは、“持っているもの”のせい。でも、それはあなたの罪ではない」
“持っているもの”。
少女の背筋に、ひやりとした感覚が走った。
誰にも言ったことのない、言葉にすらできなかった心のざらつき。
それを、この人は知っている――そう確信させるだけの何かが、その眼差しにはあった。
彼女はそっと、手を差し出す。
白く、細く、美しい手。
差し込む光に照らされて、それはまるで雲の隙間から伸びる一条の天の糸のようだった。
「あなたは一人じゃない。私たちと一緒に、新しい人生を始めましょう」
その手を取るのは、怖かった。
怖いけれど――このままでは、何も変わらない。
この灰色の世界に、永遠に閉じ込められたまま、生きているのか死んでいるのかもわからないまま、ただ日々が過ぎていくだけ。
少女は、おそるおそる、その手に指先を重ねる。
彼女の白い指が、そっと、自分の手を包んだ。
その瞬間、風の流れが変わったように感じた。
音のない世界に、微かな旋律が混じる。
世界はまだ灰色のまま。
けれど、ほんの少しだけ、光が差した気がした。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
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