2-8 託される想い
父さんは、深く息をついた。
まるで、これまで胸の奥に押しとどめていた何かを、ようやく手放すような仕草だった。ゆっくりと立ち上がり、静かに、俺の方へ向き直る。その瞳に宿っていたのは――怒りでも、焦燥でもなかった。ただ、静謐な決意。そして、その奥底には確かな信頼が揺らめいていた。
「圭介」
低く、けれどはっきりとした声音で俺の名を呼ぶ。その響きが、部屋の空気をわずかに震わせる。
「お前が……“ここでやるべきこと”を、見つけたと思うのなら――俺は、もう何も言わない」
言葉の端に、迷いはなかった。
かつて、俺が迷っていたとき、背中を押してくれたあの父さんのまなざし。その温もりと厳しさが共にある視線が、今また俺を包む。
「しっかりと、自分の道を歩け」
その一言に、胸の奥がじんと熱くなった。
俺の中にある迷いが、少しずつ、剥がれていくような気がした。
「だがな……」
そこで父さんは、言葉を切った。
表情が、わずかに翳る。だが、それは弱さではなかった。ただ、父として、ひとりの男として――守るべきものを、明確に自覚している者の顔だった。
「……俺には、美佐子を守る責任がある。お前の母さんは……もう、あの事件のような危険には巻き込ませられない。どんな形であれ、今度こそ、守ってやらなきゃならん」
そう言って、父さんはそっと隣にいる母さんに目をやる。
母さんは、それに応えるように静かに頷き、そして一歩、父さんの隣へ歩み寄った。ごく自然に、まるで長年の習慣であるかのように、彼の腕に自分の手を重ねる。
「私たちは、しばらく身を隠すつもりよ」
母さんの声は穏やかで、どこか凛としていた。
「けれど……圭介。あなたのことは、応援してるわ。心配はするけど、信じてる。だから……何かあったら、必ず連絡して。いい?」
その目は、まっすぐに俺を見つめていた。包み込むようなやさしさと、祈るような強さとが、静かにそこに宿っていた。
「――恭子ちゃんを、守ってあげてね」
その目は真剣だった。
俺が深く頷くと、母さんはふと視線を横にずらし、俺の隣に立つ恭子を見た。
恭子は一瞬、戸惑ったように目を丸くしたが――母さんの伸ばした手が、そっと彼女の手を包むように取った。
「――恭子ちゃん」
その声には、母としての思いが込められていた。
「お願い。圭介を……支えてあげて。あの子は、強く見えて、でも……とても不器用なの。だから、時には一人で背負い込んでしまう。そういう子なの」
その言葉に、恭子は小さく目を伏せ、そしてゆっくりと顔を上げた。
彼女の頬にかかる髪が揺れる。
「……はい」
凛としたその返答は、決意に満ちていた。
「できるだけ、そばにいます。無理にでも。……支えになれるよう、がんばります」
その言葉を聞いた母さんは、ふっと表情を和らげた。そして、小さく目を細めて、口元に微笑みを浮かべる。
「ありがとう。……本当に、ありがとうね」
その声に、深い安心が滲んでいた。
父さんが一歩前に出ると、今度は玲次さんの前に立った。
玲次さんは無言で立っていたが、その背筋はまっすぐ伸びていた。父さんは、深々と頭を下げた。
「……あなた方には、どれだけ感謝してもしきれません。どうか……この子を、頼みます」
玲次さんは、静かに頷いた。
「彼は、もう俺たちの仲間です。だから――安心してください」
父さんの目が、一瞬だけ揺れた。だがそれは、安堵の色だった。
そして――。
両親は扉の方へと歩き出した。
その背中に、言葉はなかった。けれど、沈黙はすべてを語っていた。父さんが扉の前で振り返り、小さく手を上げる。母さんも、笑みを浮かべて頭を下げる。その動作のなかに、惜しみない愛情と、確かな別れの意志が込められていた。
だが――母さんの目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちたのを、俺は見逃さなかった。
それは、別れの悲しみではない。
送り出す覚悟と、信じる強さの証だった。
* * *
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
圭介の両親の姿が見えなくなっても、しばらく私は立ち尽くしていた。
何かを見送るような気持ち。けれどそれは、誰かの背中を惜しむというより――その在り方に、心を引かれていたのかもしれない。
信じて、託して、笑って送り出す。
あの瞬間、あの家族は、ひとつの形を保ったまま、ちゃんと繋がっていた。
……いいな。
あんなふうに、ちゃんと信頼し合ってる家族。
圭介のお父さんもお母さんも、たとえ危険な状況にあっても、お互いを守ろうとしていたし、圭介のことを真っ直ぐに信じていた。それが当たり前のように見えることが、少しだけ羨ましいと思ってしまった。
――私の家も、あんなだったらよかったのに。
そう思ったとき、胸の奥に小さな波紋が広がる。
母のことが、ふと頭をよぎった。
思い出すと、いつも最初に浮かぶのは、整った笑顔だ。
いつもどこか作られたような、完璧すぎる表情。
その奥が、見えたことはない。
まるで……心に、仮面をかぶってるみたいだった。
優しくて、怒ることもなくて、いつも整然としていて。
けれど、どれだけ近くにいても、ほんの少し距離がある。
その仮面の下に、何があるのか――私は、ずっと知らないままだ。
あの人と向き合う勇気がないのか、それとも、もう向き合う必要なんてないと思ってるのか。自分でも分からない。ただ、今はわざわざ会いに行くつもりはない。それだけ。
……でも、せめて。
私もいつか、誰かと“本当の関係”を築けたらいいな。
圭介の隣に立つこの場所で、そんなことを考えてしまう。




