2-5 笑う影法師
「……なんだよ、脅かすなよ……」
日常の音が少しずつ耳に戻ってくるたびに、現実の輪郭がはっきりしていく。
生きていた。家族も。春香さんも。全てが、元に戻りつつある――そう思った、その刹那だった。
「圭介、伏せろ!!」
父さんの怒鳴り声が空気を裂くように飛んできた。脊髄が反応するより早く、体が本能で動いた。反射的に屈みながら振り向いた瞬間、視界の端に黒い影が走った。銃口が、こちらに向いていた。
――撃たれる。
破裂音が空気を裂いた。耳の奥が痛むほどの爆音。それなのに――衝撃は来なかった。どこにも、痛みはない。
「……?」
呆然と立ち尽くしたまま、自分の身体を見下ろす。服は破れていない。血も流れていない。胸の鼓動だけが異様に速く、鼓膜の内側で鳴り響いていた。
「……この距離で外すわけないんだがなあ」
皮肉混じりの声が、背後からふっと漂ってきた。それは風のように薄く、だが確かに耳に届く響きだった。先ほどまで誰もいなかったはずの場所。声だけが、残響のように空間に漂っていた。
「そこかっ!」
春香さんが即座に動いた。体を反転させて跳躍、空中で軸足を切り替え、鋭い飛び蹴りを繰り出す。蹴りの軌道は的確だった。けれど、着弾点には何もいなかった。音も感触もなかった。
「……クソ、どこに行った!?」
舌打ちして後退しながら、春香さんが視線を走らせる。肩越しに俺を守るように位置取り、空間を睨んだまま膝を少し曲げて低く構えた。その警戒の所作が、目の前の現実の重さをはっきりと示していた。
「……君、なかなか俊敏だな」
今度は背後。春香さんの真後ろ。低く、冷たい声が空気を舐めるように響いた。
春香さんが身を翻すより早く、再び破裂音。銃声が空間を裂く。
撃たれた――!
直感が叫んだのに、またしても痛みはなかった。
俺の視線が自然と胸元に落ちる。穴はない。流血もしていない。何も起きていない。それでも確かに、あの男は撃った。真っ直ぐ、こちらに向けて引き金を引いた。
「なるほどね。君の父親……ただの一般人じゃないな」
その声に導かれるように、黒服の男が姿を現した。
黒いキャップに、パーカーとスラックス。黒を基調としながらも、まるで近所のコンビニにでも出かけるような、妙に力の抜けた服装だった。
その男は、銃口をくるくると弄びながら、へらりと笑っていた。
見た目は若い。二十代後半か三十代前半といったところ。だが、そこに宿る雰囲気は異質だった。
飄々とした態度の裏に、確かな“場数”の匂いを漂わせている。
まるで、死と隣り合わせの空間を、冗談交じりに遊び歩いてきたような男だった。
「父さん……?」
ようやく視線を向けると、父さんが俺の前に立ちはだかるようにして構えていた。目が鋭い。獣のように相手の動きを読む目だ。全てを見通しているような、研ぎ澄まされた眼差し。
「……二度と使うつもりはなかったのだが、家族の危機なら話は別だ」
低く絞り出したその声に、確信する。
父さんも――能力者だった。
「チッ……まあいいさ。能力者がいるってわかっただけでも収穫だ」
黒服の男は、口角だけをわずかに吊り上げる。そこにあったのは敗北の悔しさではなく、情報を手に入れたことへの歪な満足感。
その瞬間、春香さんが駆け出した。
「逃がすかっ!」
弾丸のようなスピードだった。地面を蹴って一直線に突進し、男の背後を取る。軽やかに跳躍し、そのまま肩に体重を乗せて押し倒す。二人の体が地面に叩きつけられ、鈍い衝突音がコンクリートに響いた。
銃が手から弾かれ、カラン、と転がっていく。
「組織について知ってることを吐け!」
春香さんが馬乗りになり、男の喉元に膝を押しつけて睨みつける。眼差しは鋭く、氷の刃のようだった。怒りと正義の火花が散るように瞳に揺れている。
だが、黒服の男はまるで痛みを感じていないかのように微笑んだ。
「……いやあ、これはこれで悪くないねえ。女の人に押さえつけられるの、嫌いじゃないんだよ」
「ふざけるな」
春香の手が黒田の顎を押し込む。
「私が本気で踏み潰したら、内臓ぐちゃぐちゃになるけど?」
低く冷たい言葉が落ちる。その声音に、ほんのわずかに“殺意”が滲んだ気がした。
男の目が細まり、鼻先で笑った。
「黒田。俺の名だ。……それだけは教えてやるよ」
静かに、意味深に言い残すと――
「っ、な――」
男の身体が、黒い影のように地面に溶けていく。煙のようでも、液体のようでもない。どこか“異質な空間”に飲み込まれるように、現実からこそげ落ちるようにして消えていった。
「――!? 待っ――!」
春香さんが叫び、腕を伸ばすが、掴めるものは何もない。そこには、ただ平らなアスファルトが残されていた。
静寂。
風が吹き、春香さんの髪を揺らした。さっきまでの殺気立った空間が、嘘のように消えていた。再び、遠くの犬の鳴き声が聞こえてくる。エンジン音、誰かの足音。日常がゆっくりと、だが確かに戻り始めていた。
それでも、鼓動だけは違っていた。胸の奥で、異様な速さのまま止まらない。さっきの一瞬が、心の奥に深く焼き付いたまま、冷たい汗となって肌を伝っていた。
「春香さん……ありがとう」
俺はようやく声を出せた。掠れた声だったけれど、言わずにはいられなかった。
春香さんは立ち上がり、顔を伏せたまま頷いた。彼女の呼吸もまた、乱れていた。
父さんが近づき、俺の肩に手を置いた。その手が、わずかに震えていた。
「お前に隠していたこと……すまなかった。でも、今はそれどころじゃない。母さんを、早く安全な場所へ」
俺は深く頷いた。