2-4 気配だけが残る家
自宅の前にたどり着いた瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。
見慣れたはずの景色なのに、今はまるで異物のように見える。
午後の陽が斜めに射す住宅街は、時間が止まったかのように静まり返っていた。
風に揺れる街路樹の葉擦れだけが、やけに耳に残る。
俺は門扉の前で立ち尽くし、背中に張りついた汗が冷たく感じるほど、息を整えることすら忘れていた。
指先は小刻みに震え、胸の奥では電話越しに聞こえた母の悲鳴と、乾いた銃声が何度もこだまを繰り返していた。
伸ばしかけた手が、寸前で止められた。
「待って」
静かな声だった。けれど、有無を言わせぬ強さがあった。
隣にいた春香さんが、俺の手首を掴んでいた。
その指先は冷たくて、けれど確かな力があった。
驚いて彼女を振り返ると、そこにあったのは、冗談や慰めを一切排した、戦場の目だった。
「鳴らすのは危ない。……鍵、持ってない?」
短く息を呑んで、ズボンのポケットをまさぐる。
硬い金属の感触。
無意識に握りしめていた家の鍵を取り出すと、春香さんは小さく頷いた。
ガチャン、という小さな音。
門扉の錠が外れ、軋むように開いていく。
「足音、できるだけ立てないで。誰かが、まだ中にいるかもしれない」
彼女の声は低く抑えられ、けれど確実に緊張を孕んでいた。
その冷静さがかえって、事態の異常さを際立たせる。
俺の喉はひりつくように渇き、呼吸がどこかに引っかかってうまく吸えない。
鍵を差し込む手が震える。
それでも、押し殺すようにゆっくりと、ドアを開いた。
玄関の中は、妙に暗かった。
照明は消えたままで、窓から射し込む斜光が、薄ぼんやりと床をなぞっている。
家具の輪郭が、まるで黒い影のように沈んで見えた。
靴を脱ぐ暇もない。
春香さんが先に歩き出し、俺もその背中を追うように、音を殺して廊下を進む。
いつもは生活音が満ちていたこの家が、今はまるで廃墟のように、静かすぎた。
「リビングだ。たぶん、そこに……!」
低く呟くように言い、俺はドアノブに手をかけた。
鼓動が、耳の奥で跳ね上がる。
呼吸を止める。
一気に、ドアを開けた。
「――!」
光が差し込んだ部屋の中央。
ソファの背後、影になった空間に、二人分のうずくまる姿があった。
父さんと――母さんだ。
顔面は蒼白で、肩が小刻みに震えていた。
二人は俺を見て、安堵とも恐怖ともつかぬ表情を浮かべた。
「母さん! 父さん!」
その姿を見た瞬間、理性が吹き飛びそうになった。
叫びながら駆け出しかけた俺の腕を、強い力が制した。
「ストップ。まだ、安全ってわけじゃない」
春香さんの声だった。
その声に、反射的に足が止まる。
彼女は一歩前に出て、リビングの中を視線で素早くスキャンした。
天井、カーテンの影、家具の裏――
どこにも人影はない。
けれど、その場に残された何かの“気配”だけが、空気に重く染みついていた。
目に見えない不在の存在。
まるで、見られているような、皮膚の裏に触れられるような、薄気味悪い感覚。
「……誰か、いたのか?」
俺が問うと、父さんがゆっくりと頷いた。
「姿は……見えなかった。けど、確かに“いた”。この部屋の隅から……突然、発砲されたんだ。美佐子を咄嗟にかばって――その直後、気配は消えた」
「……一瞬だけ、見えたの。窓の反射で……黒い影みたいなものが、ほんの一瞬……」
母さんの声はかすれていた。
言葉を絞り出すように話しながら、その身体はまだ震えている。
俺は奥歯を噛み締めた。
今ここに“いた”という敵の姿を思い描こうとするが、像が結ばれない。
黒い影、発砲、気配の消失――
「……まさか……」
呟いた言葉を、春香さんが遮った。
「おそらく、気配を消せる能力者だわ。姿を見せずに攻撃する……相当厄介。今もどこかに潜んでる可能性がある。長居は危険」
その声はあくまで冷静だったが、静かに鋭さを孕んでいた。
父さんと母さんがようやく、春香さんの存在に目を向ける。
「君は……?」
「栗原春香。圭介と一緒に行動しています。詳しい話はあとで。今は、一刻も早く安全な場所へ移動を」
父さんが一瞬だけ目を細めたが、すぐに頷いた。
母さんも、戸惑いながらも春香さんの落ち着いた態度に、わずかに肩を緩めた。
俺は母の手を握り、春香さんが先頭に立つ形で、四人は静かに廊下を戻る。
春香さんの背中は、寸分の隙も見せなかった。
まるで、この家全体を視界に収めているように、首筋すら緊張で張っていた。
玄関にたどり着く。
俺がそっとドアノブに手をかけた。
――ギィ、と扉が開いた。
光が射し込む。
日常の色合いが、徐々に視界に戻ってくる。
道路に咲いた草の匂い。風の音。遠くの犬の鳴き声と、車のエンジン音。