1-9 花は凍りて風に消ゆ
「——何者?」
低く凛と響く声が、ひんやりとした夜の路地裏を切り裂いた。橘の言葉が放たれた瞬間、空気が張り詰める。静寂のなかで、圭介の背筋にひやりとした感触が走った。
橘の足元に広がる蔦が、ざわ、と音を立てる。地を這っていたそれは意思を持ったかのように蠢き、くねりながら形を変え、視線の先へと狙いを移した。
現れたのは、二人の人物。まだ街灯の届かぬ暗がりに立つその姿は、夜の影に融け込むように静かだった。
一人の青年が、ひと足前に進み出る。革のブーツが路面を踏みしめるたび、足元に白い霜が広がっていく。空気が変質したのがわかった。冷気が肌を刺し、吐息が白く滲んだ。青年のまとう空気が、確かにこの場の温度を奪っていた。
「その子たちは……俺たちの保護対象だ」
言葉は落ち着いていた。威圧でも挑発でもない。ただ、揺るぎのない意志だけが宿っている。
「引き渡してもらおうか」
その声音に、圭介ははっとする。怒りでも焦りでもない、静かな決意。だがそれが、逆に場を支配する力を持っていた。橘の笑みに、ぴしりと亀裂が入った。
「悪いけど、途中放棄なんて……性に合わないのよ」
口元が笑っているのに、目だけが笑っていない。瞳の奥には、凍てついた狂気が燃えていた。
その瞬間だった。
地を這っていた蔦が跳ね上がる。まるで獲物の動きに反応する蛇のように、鋭く、そして素早く。コンクリートを割る勢いで一直線に飛び出したその鞭は、容赦なく二人の来訪者を狙う。
「来るぞ!」
青年が声を上げた。次の瞬間、もう一人の影が風のように前へ飛び出していた。
女性だった。その身のこなしは軽く、そして鋭い。瓦礫を踏まず、滑るように飛び越える。まるで障害物の存在など最初からなかったかのように、彼女は一直線に蔦の進路を遮るように躍り出た。
囮だ。
それがわかった瞬間、圭介は息を呑んだ。完全に狙われると知っていて、彼女は自ら標的になったのだ。
「こっちおいでっての、バケモノ!」
蔦が反応する。標的を切り替え、しなる一撃を女性の足元へと放った。だが――
彼女の動きは舞だった。
そうとしか言いようがなかった。足運びに一片の無駄もなく、身体の回転と重心移動が完璧に噛み合っている。蔦が触れられそうなぎりぎりまで誘い込んだあと、するりと間合いの外へ抜けた。
続けざま、瓦礫の破片に足先を添え、鋭く蹴り上げる。破片が空気を裂いて飛翔し、蔦の節の一部に直撃した。鈍い衝撃音。一瞬、蔦の動きが鈍る。
「今だよ、玲次!」
彼女の声に、青年――玲次がすでに動いていた。
指先から冷気が立ち上がる。白い霧のようなものが滲み、掌の中に針状の氷が形成されていく。その細さは息を呑むほどに鋭く、そして美しかった。
狙いを定め、腕が振り抜かれる。
氷針が音を立てて飛翔し、弧を描くこともなく直線のまま、蔦の根幹部に突き刺さった。
——氷と植物がぶつかる音。
それは破壊音ではなかった。凍結の始まりを告げる、ひび割れのような音だった。
突き刺さった箇所から、一気に冷気が拡がる。霜が走り、蔦の表皮を包み、内部へと侵食していく。
まるで凍てつく波が広がるように、冷気が伝播する。蔦の一部が硬直し、動きを止めた。
玲次はすぐに圭介たちへと駆け寄る。
「動くな。すぐ終わらせる」
その言葉は短くも、圧倒的な安心を伴っていた。
指先から走った冷気が、巻きついていた蔦へと触れた瞬間、それは凍るようにして停止した。霜が広がり、硬直したそれは、あっけないほどに脆く、玲次の手によって砕かれていく。
「大丈夫か?」
「……はい。なんとか、動けそうです」
「こっちだ、急げ!」
玲次の号令と同時に、圭介と恭子が立ち上がる。その視線の先では、女性がすでに瓦礫を崩し、逃走用の隙間をこじ開けていた。
全員が走る。迷いはない。機を逃せば、次はない。そんな切迫感が、全身を突き動かしていた。
だが、橘がそれを見逃すはずもなかった。
「行かせないっ!!」
叫びと共に腕を振り下ろす。地面に溜めていた蔦の束が一斉に動く――はずだった。
しかし。
「……え?」
橘の声がかすれる。
蔦は、跳ね上がらなかった。
軋むような音。目を疑った。束ねられていたはずの蔦が、白く凍りついていたのだ。表面に霜が広がり、まるで氷塊のように互いを絡めとっている。
氷針の一撃。それが想定以上に冷気を伝播させていた。蔦を束ね、操作しやすくしていたことが、裏目に出たのだ。
「ちょっと……嘘でしょ……?」
橘の呟きに、迷いが混ざった。
動かない。自分の力が通らない。操るはずの武器が、足枷になっていた。
気づけば、路地裏には彼女一人が取り残されていた。静寂だけが、耳を満たす。
「……っはあ?」
悔しげな吐息。拳が震え、足元の瓦礫を感情のままに踏み砕いた。
「逃げた? 私から……あんな連中が?」
その声には、怒りと驚愕、そしてほんのわずかの恐れが混ざっていた。
蔦の氷が軋む音のなか、彼女の怒気だけが、夜の闇へと滲み出していく。
「次は……容赦しないから」
吐き捨てたその声は、地を這う植物とは真逆の、鋭く乾いた殺意を孕んでいた。
——氷と怒気に支配された路地裏に、沈黙だけが残された。




