ダークヒーロー⑹
日が完全に落ちた。
ホテルに戻ってからはあっという間だった。荷物をまとめ、お世話になったキャストやスタッフの方々に挨拶をし、1週間ぶりのハイブリッド車に鍵をさす。
時刻は22時を回っていた。
地下駐車場を出ると、Lサイズのスーツケースを乗せたトランクがガタンと揺れる。後部座席に置かれた無地のリュックも跳ねた。彼女の荷物はそれだけで、年ごろの女の子にしてはコンパクトだ。
助手席では、伸びたロンTにジーパンという相変わらずの私服で、身も心もリラックスした状態の春日野がいる。めずらしいと思いつつ、そりゃそうだよなと首肯する。気が張る現場だった。しかもそれが1週間ずっと。疲れが出ないほうがおかしい。
海沿いは静かだった。
海面の真ん中に三日月が透写されている。なめらかな曲線が雲間に隠れ、光を遮断する。その一連の流れを、彼女はぼんやりと眺める。
道を曲がると、目新しい輝きは闇夜に紛れた。興味をなくしたのか、ゆっくり、ゆっくり、きれいな二重の線が沈んでいった。
カチ、カチ、カチ。ウインカーの作動音が耳を叩く。
30分ほど経過した。トイレ休憩がてらコンビニに寄る。その隣には銀行、クリーニング店、ドラッグストアが並ぶ。24時間営業が多いからか、真夜中だというのにまあまあ明るい。
車を停め、ナビを確認する。あと半分まできた。コーヒー1缶で足りそうだ。
「あ、すみません」
春日野が目を覚ました。一番にそう言うところが彼女らしい。
「よく眠れたか?」
「は、はい……すみません」
「はは、いいよ。なんならもっと寝てくれ」
背もたれに寄っていた上半身を起こした彼女は、肩をすくませる。それから辺りを見渡し、休憩だと察するとシートベルトを外した。
一緒にコンビニに入店した。彼女は御手洗いに行き、俺は飲み物の棚に直行した。
ブラックコーヒーと、彼女のはどうしよう。ざっと見たあと、ラスト1個だったミルクティーに決めた。
軽い軽食もついでに買おう。散々悩んでいる間に、10分も過ぎていた。もういいかこれで、と手に取ってのは、一番高価なもの。1週間がんばったご褒美で奮発してやろう。
車ではすでに春日野が待っていた。不透明な車窓からうかがえる横顔は、うつむき、影の濃淡をつくっている。
寝てる? ……わけじゃない、か。
長いまつ毛の動きを見て取れた。じっと一点を捕えている。無地のリュックが膝の上に移動していた。それかと思ったが、ちがう。そのさらに奥、リュックに回された手に、何かを持っている。
彼女の目が眇められた。セイラの表とも裏とも似ているようで、もっと本質的で、根本的な、どろりとした感情を飼いならしているようだ。
素の彼女の心にはじめて立ち入ってしまった気がして、思わず勢いよくドアを開けた。
「あ、雪マネージャー」
向けられた目は、いつもの清らかさを宿していた。
無様にも乱れた脈を悟られぬよう、平静を保ちながら運転席に着いた。
あったかい飲み物と軽食を手渡す。受け取った手の反対側には、通帳が握られていた。
……なるほど、あの気迫は、そういうことだったのか。
「欲しいものは、手に入りそうか?」
はした金じゃ手にできない代物だと言っていたっけか。
少しボロボロな通帳の表面。折り目や爪痕までついていて、どれだけ本気か伝わってくる。
「もう少し、先になりそうです」
彼女は息を多く含んだ返しをし、通帳をリュックの中にしまった。
雑さのあった手元が、話題を一掃するように、とたんに丁寧に動かされる。慎重に取り出されたのは、四角い箱だ。紺色の包みに黄色のリボンが今夜の空のごとく映えている。
それも今、買ってきたのだろうか。
一瞥しながらコーヒーを立てかければ、「どうぞ」ところんとした声が届けられた。
「え……えっ?」
「これ、受け取ってください」
「え??」
いかにも間の抜けた声だ。顔も、たぶんそう。
だって……え? なんで?
プレゼントされる理由がない。マネージャーに就いた日も誕生日も冬でまだまだ先だし、そもそも今までこういうことはなかった。
ただただ硬直するばかり。そんな俺の胸に、半ば強引に箱を押しつけられた。
「え、えっと……これ……?」
「ルームフレグランスです」
「お、俺、誕生日じゃ」
「知ってます」
わたしの気持ちです、と誤解を招きかねない言い方をされ、ぶわっと耳の裏が紅潮する。
「大きな仕事が入ったら、渡そうと思っていたんです。マネージャーにはこれまでも、そしてこれからも、たくさんご迷惑をおかけするでしょうから」
……あぁ、なるほど。
俺は何を身構えていたのか。別の意味で赤みが引かない。ワイシャツのボタンをひとつ外した。
箱には「Thank you」と記されたシールが貼られてあった。これが彼女の気持ち。なんてかわいらしいんだろう。いつまで経っても使えなそうだ。
にやけをごまかそうと咳払いをしかけ、やっぱりやめた。
「ありがとう。大事にするよ」
俺も誠実で在りたい。
これからもよろしく。そう言って握手を求める。ひとまわり以上小さな白い手が、やはり丁寧に重ねられた。俺のより冷えた温度をぎゅっと閉じこめる。
これから。
この手はどれほどの愛で温められることだろう。
家までの距離よりはるかに近くまで、彼女の時代は来ていた。