ダークヒーロー⑶
翌日、撮影2日目。
昨日は夜遅くまで撮影が続いた。キャスト・スタッフ全員が、鎌倉にあるホテルに宿泊し、2日目の撮影に備えた。
本日も早朝からスケジュールがみっちり組まれている。スタッフの過半数以上が目の下に大きなクマを寝そべらせていた。俺も正直寝不足だ。
ちなみに、これが1週間続く。とことんハードである。まだまだこの生活が続いていくという事実がおそろしい。ホテル暮らしにはしゃぐ暇もない。
この仕事が体力勝負でもあるというのは、こういうところも示しているのだろう。競泳とちがう意味できつい。
……今日もがんばらねえと。
昨日とちがうところといえば。
HINA一強だったヒエラルキーが変動しつつある。昨日のいざこざで春日野の株がぐんと爆上がりしており、いつ下克上してもおかしくない。
当然ながらHINAさんは不服そうだが、アドリブでこてんぱんにやられたせいか、今のところ春日野に八つ当たりしてはこない。まだ安心はできないものの、今日は時間どおり入ってきたので、とりあえずは様子見でいいだろう。
現実は小説より奇なり。昨日それを身をもって知った。何から何まで予想を覆されると思って、心の準備だけはしておかなくては。
クランクアップするころには、鋼のメンタルになっているにちがいない。目指せ、屈強敏腕マネージャー。
「あらまあ! 妃希ちゃん、それどうしたの!」
突然の悲鳴に、早速メンタルを揺らがす。屈強敏腕マネージャーへの道は長い。
どうしたって、何がどうした。
ホテルからロケ地へ移動し、キャスト陣は衣装に着替え、そして現在。役柄に合わせた恰好で現れた春日野を、ヘアメイクのおばちゃんは怪訝そうに刮目した。
黒のタンクトップに、ダメージの多いショーパンという、過去イチ露出の多い衣装にリアクションしたのかと思いきや、おばちゃんの焦点は服からずれていた。肌だ。服に隠れていない腕を、捉えている。
彼女の二の腕には、できたばかりと思しき青あざが、ふたつみっつほどあった。
「すみません。このあざ、隠せますか?」
「それはできるけど……というか、元々そういう傷っぽいのを足す予定だったけど! それとこれとは別よ。どうしたのこれ」
「ちょっとぶつけてしまって。よくやってしまうんです」
「あらら、意外とドジなのねえ。でも気をつけないとだめよ?」
春日野ドジっ子説がいよいよ業界に広がっちまうな……。
彼女のドジには波がある。仕事をしているときは一切やらかさないのに、次の日会うとどこかに怪我を負っていることがある。家だと気がゆるんでしまうのかもしれない。
かわいらしいと思う反面、心配な気持ちが募っていく。最近まで反対の腕にも絆創膏を貼っていたんですよ、と声を大にして教えてあげたい。彼女のドジは本物なんです。
おばちゃんは、やはりかわいらしいと思う気持ちのほうが大きく、春日野を娘のように見ていた。のんきに破顔している。
「このマシュマロ肌によく傷作っちゃうなんて、ご両親も泣いてるでしょ」
「まあ……ある意味」
春日野は肩をすくめ、苦笑する。メイクをされながらでどうしても表情が歪んでしまうせいだろうか、その苦笑が、一瞬、冷笑のように感じられ、心臓がきゅっと萎縮した。
陰と陽、光と闇、日と影。
これらは表裏一体で、どちらかに偏りはあれど、消えることはない。どこかが明るければ、必ず、別のどこかは暗くなるようにできている。
今回の春日野の役どころもそうだ。
セイラ。かの少女は、ただの脇役ではない。
昼間は、一見どこにでもいそうな、清廉潔白な女子高生。しかし夜になると、非行に走り、町の不良を統べるリーダーとして潜伏している。
表と裏の顔が同一人物であることを、視聴者にバレてはいけない。それこそが伏線のひとつとして仕組まれている。中田プロデューサーいわく、どうにかクライマックスまで「わかりそうでわからない」絶妙なラインを攻めたいのだという。
あらゆる手を使った。
でき得る限り面積を減らした衣装に汚れをつけ、素行の悪さを表しつつ、コーデの色味をモノクロで統一し、存在感を極力なくす。髪の毛には、わざと傷ませた金髪のエクステをつけ、それを高めの位置でひとつにまとめる。
おくれ毛を多めに出し、さらにメイクも骨格を無視しながら全体的に濃くほどこし、顔バレ対策を怠らない。特に目元と口元のコントラストに注意し、アイホールより広めに薄暗い色を塗り、唇もテラコッタブラウンで大きめにふちどる。
そうして作り上げられたのが、セイラの裏の顔だ。
監督、助監督、ヘアメイク、スタイリストらが集まり、変身した春日野を観察した。360度抜かりなく確認し、神妙な面持ちで審議する。
「うーん、ひと目見ただけじゃわかんないけど……」
「寄りの撮影だとバレるんじゃ?」
「セイラっていうより、春日野妃希だって見抜くやつは見抜くかもな」
学級委員時との容姿の差は明らかだ。別人のように変わった。だが、本当に別人かと訊かれれば、すぐには頷けない。
小手先でごまかせど、春日野のオーラがぷんぷんするのだ。四六時中、彼女を見ているような人間、たとえば俺のことは、そうそう騙せない。
みてくれが変わっても、春日野は春日野だ。ぱっちりした黒い瞳、ぴんと伸びた姿勢、落ち着き払った態度。不良とは無縁そうな品行方正さは、この場しのぎの汚れでは隠せない。
「一回テストしてみましょうか」
監督のひと言で、審議は持ち越しとなった。
テストするのは、シーン32。場所は、鎌倉にある、使われなくなった倉庫。
セイラ率いる不良集団のたまり場と化したそこに、情報収集のためにボンスケとユメが乗りこむ。
このシーンではリーダーが誰かまでは明かさず、不良集団の登場だけにスポットを当てる。そのためセイラ役の春日野が目立つのは禁止。セリフもない。
「妃希ちゃん、大丈夫ですかね」
「あの子は、なんというか、つい見ちゃう子というか」
「わかります。主人公感がすごいですもんね。どうかな、このシーンいけるかな……」
春日野派に乗り換えたスタッフらが、俺の心中を読んだかのような会話をしていた。それな!! と会話に参加して、不安をすべて吐き出してしまいたいが、ぐっとこらえる。今は仕事中だ。
きれいな春日野しか知らないから、ちょっとドキドキする。これはテスト前に感じるドキドキに近い。
ここにいる過半数を納得させられたら御の字のはず。いつからこんな空気になったんだ。昨日100点を出した手前、ミスが許されないばかりか、全員を騙すのが最低条件になってしまっている。
よく言えば、期待されている。ただし、されすぎている。
また、ヒーローに仕立て上げられやしないか、怖くて怖くて仕方がない。
「ではテストいきます!」
「シーン32、よーい」
本番さながらのテンションでカメラが回される。
倉庫に晴家さんとHINAさんが足を踏み入れた。いつになく険しい面構えのボンスケのうしろでびくびくするユメ。これまでのシーンとは真逆だ。
コンクリート構造の中でたむろしている不良集団に、ボンスケは迷いのない足取りで詰め寄った。不良の一人がそれに気づくと、ぐっと右眉を押し上げる。
「あ? 何だてめえ」
「……んん? なになに、どったの」
「おっさん迷子ー? キャハハッ」
不良集団を演じるキャスト陣は全員未成年。不良という役柄ながらフレッシュな活気であふれている。ある程度の拙さ、ぎこちなさが、かえって若さゆえの不器用さ、脆さをほのめかしていた。
それに沿わせることなく、晴家さんは頭抜けた演技を呈す。開口一番の声質から異彩を放った。
「クソガキども、よく聞け」
「ちょ、ちょっと! ボス! 言い方!」
鼓で打ったような威圧感がじりじりと地を這う。特別大きな声量ではなかった。が、なぜだろう、ボスの呼び名にふさわしいプレッシャーを鮮明に叩きつけられる。
あれがうわさの、ボンスケの別人格なのか。
生でははじめて対面したが、さすがと言うべきか、硬い皮膚があっという間にチキンになり、今にも飛び立とうとしている。遠目で見ているだけでも衝撃的なのだから、間近にいる不良役の子どもたちはもっとすさまじいんだろう。
それに動揺しながらも、その感情ごとセリフに刷り込ませたHINAさんも、十分なやり手だ。連続ドラマで相棒を務めきった分、阿吽の呼吸をしっかり取れている。
監督らが手をこまねいていたとおり、「そういうところがなきゃ」本当に良い女優さんじゃないか。実にもったいない。
「俺ァまどろっこしいのがきらいでなァ。単刀直入に訊かせてもらうぜ。おめえら、行方不明者についてなんか知ってることあんなら吐きな」
「ぼ、ボスってば! そんな言い方したら……!」
「はあ!? いきなりやって来て何だてめえ!」
「ウチらに命令しないでくれる!?」
「……ああ、んもう! だから言ったのにぃ……」
ボンスケVS少年少女のバトル勃発。
ひとり項垂れているユメをよそに、バチバチと火花を散らす。何度か放送禁止用語がさらっと投げ交わされていた。放送ではピー音になるのもまた一興。
さすがのボンスケでも、敵陣の真ん中で多勢を相手にするのは無謀だったようで、ギャアギャアいがみ合いながら無理やり追い出されてしまう。
不良たちの手癖の悪い挨拶に、カチンときた彼が手を出すフェイントをかければ、本気にしたユメに止められる。代わりに舌打ちをした。
「チッ。だからガキはきらいなんだ」
「ボスが一番ガキっぽいですよ」
「あ? なんつった?」
「いえ、なにも」
「――はいっ、オッケーです!」
監督が丸めた台本を高らかに振り上げた。
主人公が主人公然とした甲斐もあり、不良集団の初登場シーンはかなり見応えのあるものになった。テストではあったが本番として使おうか、プロも悩むほどだ。
もう一度映像を確認してから、本番に格上げさせるか決めることとなった。
ボンスケと不良集団のテンポのよい口喧嘩は、何回見ても痛快で飽きない。ラスト、あっちいけと言わんばかりの不良集団の挨拶からボンスケにフォーカスがずれる――その、寸前、
「……ん?」
鋭い視線を感じた。
妙な、けれどたしかな、殺気だった。
すぐにボンスケにスポットライトが当たり、その正体を突き止めらずに終わってしまった。
何だったんだ?
カメラを回していたときは、気づきもしなかった。
同じ感覚に戦慄したのだろう、監督が急いで逆再生のボタンを押す。フォーカスが切り替わるタイミングを何度か往復して探し、ついにベストを見つけた。
「あ……っ」
ほんの一瞬。コンマ1以下の瞬間を狙ったかのように、不良集団のリーダーがボンスケに睨みを利かせていた。他の不良の影に隠れていながらも、あの三白眼だけは危うい光を帯びている。
そういえば、あれこそが春日野だったっけ。
最後にまた粋な演出を仕かけてくれたもんだ。ありゃあドラマを最低2周しないと気づかんぞ……。
…………そういえば?
そもそもこのテストは何のためだった?
春日野もほとんどずっと同じ画角にいたはずだ。この一瞬の演出に行きつくまで、どこにいた?
監督も似た思考をしていたらしく、すぐさま映像をはじめから流していく。隅から隅までくまなく凝視し、ようやく答えにたどりつくと、目も口もだらしなくおっ開いた。
セイラは壁にもたれかかり、携帯をいじっていた。
いいや、セイラであって、セイラじゃない。春日野でもない。
“らしさ”がすべて消されている。
ぴんと張っていた背は、携帯画面に向かって首ごと前にしなり、ブルーライトを浴びるその目は死んでいる。いがみ合いが始まっても携帯をいじり続けたまま、ときおり跳んできた唾の跡を荒々しく踏みにじる。
攻撃的な少年少女たちには、活気があった。それにまぎれるように彼女自身は自ら影を作った。物理的にも、ぎりぎり見えづらい表情から汲み取れる人間性にも陰りが生じ、よりいっそう光に目が行くようになる。
セイラがボンスケを見たのはあの一瞬だけだったけれど、だからこそ、最後の最後に顔を出した怪しさに、本能が警報を鳴らしたのだ。
「ひっ、ひひ、妃希ちゃん! ありがとうございます……!」
「か、監督?」
見るからに血圧を上昇させた監督が、突然春日野の手を取り、ぶんぶんと上下に振った。
激しすぎる握手をされるがままな彼女は若干引いているようだが、監督は気にしていないし、たぶん気づいてもいない。
「あなたのおかげで最高の作品になります! 連続ドラマを越しますよきっと!」
「は、はあ……。それはよかったです……?」
「はい! 本当に感謝! 感謝しかありません!! 今のシーンももちろん本番として使わせていただきますね!!」
「で、では、セイラの裏の顔はこんな感じでいいですか?」
「はいっ!!!」
監督も例に漏れず目の下にクマを作り、不調な様子だったのに、顔色がどんどんよくなっていっている。こころなしかツヤ感まで出てきて、すっかり絶好調だ。「はーい次、次!」と声のキーをふたつほど上げ、周りを置いて行っている。
ふと、春日野が俺を見やった。
ドキリとした。それすら見透かすようにいつもより陰った目尻にしわを寄せ、けれどそっけなくそらされる。
気づいたら、次のシーンの撮影が始まろうとしていた。