ダークヒーロー⑵
それからめっきりHINAさんの口数が減った。
カメラリハーサル、細かなインサートの撮影をあっさりと完了させ、残すは一連のかけ合いのみとなる。
あぁ、怖い。もしかして嵐の前の静けさなんじゃねえの、これ。
日が昇るにつれ、寒気がしてくる。覚えのある感覚だ。事故に遭い、診療結果を言い渡されるまでのあの長い時間が、猛烈によみがえる。
不吉だ。早く終われ、終わってしまえ。その念が通じたのか、監督のかけ声が上がった。
「本番いきます!」
「シーン27、テイク1」
ボンスケとユメが、セイラと出会うシーン。
砂浜で事件の手がかりを探すユメを見かけ、下校途中のセイラが声をかける。そこにボンスケもやってきて、事件について触れていく。
まだ日常の延長線ともいえる場面に、恐怖を抱くべき要素はひとつもない。誰も死なない。気狂いな別人格も現れない。平和に始まり、平和に終わる。
だからこの胸騒ぎは嘘っぱちだ。
「よーい、はい!」
――カチン。
「あー、もう!」
浜辺で座りこみ、両手で砂を掘っていたHINAさん――ユメが、耐えきれず海に叫んだ。
膝を抱え、項垂れるように地面を見つめる。一面砂、ときどき貝殻。自分で荒らした跡さえも変わらぬ同色で、落胆の息を漏らした。
「手がかりなんてどこにもないじゃない……」
口をむっと尖らせながらも、そこにいら立ちはなく、焦燥感ばかりが漂う。
役者ってのはすげえな。中身がどうであろうと、龍様の相棒に抜擢されただけあって、いっぱしの演技をさらりとやってのける。
役に憑依するのとはまたちがう。自身の持つ雰囲気を役柄とかけ合わせ、素であるかのように見せている。今の、口を尖らせたのだってそう。彼女に生まれつき備わっている愛嬌によって、わざとらしさを打ち消している。
だから俺もまんまと騙されたのだ。
「本当にここにあるの……?」
しおれていく長い首を、堤防の奥から見やるひとつの人影。セイラに扮する春日野だ。ゆっくりと足を止め、心配そうに見入っていた。
同じ制服を着たエキストラが何人か通り過ぎる。ユメのうしろ姿が起き上がる気配はなく、セイラは思わず駆け寄った。
「あの、大丈夫ですか?」
「……え?」
うん、自然だ。声をかけられ、顔を上げたユメの面食らった反応に、監督はにやけを隠せない。
だけど俺にはわかる。「え」と発するまでに間があった。あれはト書き上のおどろきではなく、まばゆく透けた日の光を背負うセイラ――春日野への忘我だった。
先ほど同場面をユメ目線で収録した際も、セイラに後光が差しているかのように映っていた。まさしく春日野自身の内側から放たれる清白さの表れであろう。
それに目を奪われる光景を、今まで幾度となく見届けてきた。俺もそう、当事者の一人だ。だからこそ断言しよう。腹の黒い奴ほどあれに弱い。目どころか心まで奪われる。ウェブドラマの撮影時に立証済みだ。
案の定、HINAさんも半分やられている。言っちゃ悪いが、このうえなくスカッとした。
いいぞ、やったれ春日野! 一杯食わしたれ!
「どこか具合でも」
「いえ! いえ、全然! どこも悪くないです! ちょっとここで手がか……さ、探し物をしていて」
「探し物? 見つかりました?」
「いやあ、それがまったくで……」
「手伝いましょうか?」
「いや! それは! あ、ありがたいですが、その、お気になさらず。これはあたしの仕事なので」
「仕事、ですか?」
ゆるく首を傾げるセイラに、ユメは動揺から微苦笑を作る。探偵業や事件のことを話していいものかと、顔を背けながらブツブツひとりごちていると、また別の人影が近づいてきた。
ユメさーん、と低いわりに細い声が潮風に漂う。ひょろりとした長身に、ユメはまた「えっ」とおどろきの声を出す。
「ボ、ンスケさん?」
ユメはボンスケの人格に合わせ、呼び方を変えている。「ボンスケさん」と呼ぶのは主人格に対してだ。ちなみに別人格のことは「ボス」と呼ぶ。
砂浜に足を取られ、大きくぐらついている彼は、誰が見ても危なっかしく、主人格であることを体現していた。
「ゆ、ユメさん、こんなところにいたんですか」
「こんなところって……あのですねボンスケさん、もう一人のあなたがここに手がかりがあるかもしれないからって、あたしを行かせたんですよ?」
「えっ!? そ、それは、すみません……」
主人格の彼は、二重人格であることを自覚してはいるが、もうひとつの人格であったときの記憶がない。いつの間にか時間がごっそり抜け落ち、その間の自分が未知数であるがゆえに、常に及び腰な態度をとってしまうのだ。初対面ではなおさらコミュニケーションが下手になる。
今も、セイラに対して警戒心をむき出しにし、ユメの半歩うしろでチラチラと窺っている。
うざく感じてしまいそうだが、なぜだか庇護欲のようなものに駆り立てられる。俺だけだろうかと、そうっと周りを見渡せば、女性スタッフ数人が胸を押さえていて安心した。
「そ、それで、その、そちらの方は……?」
「あたしがうずくまっていたら、心配して声をかけてくれたんです」
勇気を出して尋ねたボンスケは、返答を聞くや否や、警戒心のさわりを解いた。善人ならば怖くない。ユメの背後からそろりと出て、セイラと向かい合う。けれどもユメのそばを離れる気はないようだ。
今さらながらセイラをちゃんと捉え、個性のある制服を着ていることに気がついた。
「そ、その制服は、この近くの?」
「はい、聖セレーネ女学院の者です」
「え!? そうなの!?」
「ユメさん……制服で気づきませんでした?」
「あ、言われてみれば」
ここらじゃ有名な進学校、という設定だ。実際には存在せず、スペシャルドラマのために用意された。
特注の制服は“ふつう”との差別化を図り、ブレザーの丈を短めにしたり、ループタイやフリルなどの装飾を追加したりと、美術スタッフたちがアイデアを出し合った。おかげでどこの学校の生徒か、ひと目で見抜ける仕様になっている。
だというのに、ユメは今の今まで気がつかなかった。どれだけ焦っていたのかがわかる。
それを差し引いても、このおどろきよう、今回特別に設けられた聖セレーネ女学院がストーリーの根幹、つまりは事件に関わっていることを物語っている。
ボンスケはこそっとユメに耳打ちした。
「一度、お話を聞いてみるのはどうでしょう」
「……話してもいいんですか?」
「た、たぶん。情報収集が先決ですから」
ドラマはまだ序盤も序盤。別人格の「ボス」が助手を走らせ、だだっ広い海辺まで手がかりを探させるくらいには、ピースがまったく足りていない。少なからず関連があるなら、とにかく首を突っ込むしかなかった。
かといって、「ボンスケさん」に積極性やらコミュ力があるわけもなく、ユメの力が必要不可欠であった。そのため彼女を探しにここまで来て、情報収集の提案までしたのだ。
「あの、さっきから一体何の話を……?」
蚊帳の外にされたセイラは眉をひそめる。ためらいがちに喉を震わせ、ふたりを見上げた。
「ああっごめんなさい! えっとですね、こちらはボンスケさんといって、探偵をしている方で、あたしはその助手をしているユメといいます」
「は、はあ……たんてい……」
耳なじみのない単語を何度も反すうさせ、ぱちくりとまばたきをする。その黒い瞳は呆然としていて、探偵という彼を半信半疑に見つめている。
ユメに自己紹介を促され、一拍遅れて、はっと気を引き締めた。
「わたしは、セイラといいます。聖セレーネ女学院の1年で、学級委員をしています」
「学級委員を? なら、最近頻発してる事件について、先生やお友だちから何か聞いてない?」
「事件……子どもが行方不明になっているという、あれ、ですか?」
「そう! それよ!」
今回のスペシャルドラマの肝は、それだ。
この町で相次ぐ、不可解な失踪事件。
約1ヶ月近くある夏休みが明けたころから、それは起こった。
いつものように子どもが学校に行ったきり、行方をくらましたのだ。1人、また1人といなくなり、シーン27の時点では計10名にものぼっている。失踪者は全員、地元の小中高の生徒で、誰ひとりとしていまだ発見されていない。
証拠は限りなく少なく、生死はおろか、事件性があるかも不明なことから、警察の調査が滞ってしまう。耐えかねた被害者の家族が、頼みの綱として依頼したのが、連続ドラマ軸で探偵として名を馳せたボンスケだった。
「あたしはその事件の被害者がここで目撃されたという情報を得て、何か手がかりがないか探していたの」
「探し物ってそのことだったんですね……」
「セイラさん、あなたは最近、何かおかしいと感じたことはない?」
失踪者の中には聖セレーネ女学院の生徒も含まれている。失踪者の姉や妹という生徒も多数おり、今や学校内で事件について知らない者はいない。
シーン51で話していたとおり、セイラはクラスメイトからたびたび相談を受けており、失踪者と家族関係にあたる生徒からも話を聞いたことがあった。怖がる子がいれば元気づけ、泣く子がいればなぐさめる。逆に言えばその程度であり、一介の学級委員としてサポートしているに過ぎなかった。
彼女自身が異変を感じたことはなく、それをそのまま伝えれば、見るからにがっかりさせてしまった。
「すみません、お役に立てなくて」
「いいのよ、気にしないで。何かわかったことがあったらすぐに教えてね。これ、あたしの連絡先」
わざわざ名刺を渡したことに対して、演者本人であればちゃっかり情報源をゲットしやがったと疑うけれど、ユメという役であれば話は別だ。おそらくセイラ同様、相談役を買って出たというところだろう。
探偵事務所の名刺に憂いた表情を見え隠れさせるセイラに、ユメは万人受けしそうなえくぼを浮かべる。
そして言うのだ。
このシーンの最後のセリフ。
すぐにまた平和になるから、と――。
「聞いて、セイラさん!」
俺は声を上げかけた。まずいと思ってすぐ口を手で覆う。しばし息を止めた。
台本とちがう。ここは行きの車で春日野が練習していたシーンだから、流れはすべて覚えている。
アドリブだ。
張り上げられた声量もだけれど、それ以上に、かすりもしていないセリフ、セイラの手を握る行動に、意外性を感じた。ユメに、ではなく、HINAさん自身に、だ。変化球を入れるタイプだとは存外思わなかった。
待ったはかからない。ユメの動きは、セイラを安心させるという点を踏まえ、アリ。そう監督は判断し、演技は続行。台本にはない世界が始まる。
カチンコが鳴って以来、息をひそめていた寒気が、ぞわぞわっと息を吹き返す。心拍数が爆上がりし、鈍い痛みをも伴う。
これか、あの不吉な感覚はこれだったのか。
ついに台風が本気を出してきた。
芸歴、演技経験ともに圧倒的格上であり、『SIESTA』チームの中でもこびへつらわれている彼女からの宣戦布告。しかも、さっき春日野が絶賛されていた演技を土俵にするとは、たいがい意地が悪い。どう処理してもケガをする。最悪、以降のシーンも危ぶまれる。
怖い怖い怖い。春日野、はよ逃げろ!
「え、えっと……?」
「うんうん、怖いよね、心配だよね。世の中、危険で理不尽なことばっかり」
ユメの――いや、HINAさんの切れ長の双眼が、すっと細められる。狙った獲物はけっして逃がさない、捕食者のそれだ。頭ひとつ分小さな少女のたじろぐ様を、実に愉悦そうに見定めている。
第三者視点なら、ユメが安心させようと必死に笑いかけ、言い聞かせているように見えなくもない。
が、人生勝ち組の彼女が口にするにしては、歯の浮くようなセリフでしかなく、ちっとも心に響かなかった。
「でも、ボンスケさんに任せれば大丈夫。きっと、あなたたちのヒーローになってみせるわ」
……ヒーロー、ね。
押さえのない鼻の穴から、しらけた息を吹かせた。彼女に負けず劣らず、悪人面をしている自覚がある。
ヒーロー、なんて陳腐な響きなんだろうか。言う側にも問題はあろうが、ひさしぶりに耳にすると、まあうすっぺらい。まるで花の飛び散るおままごとのようだ。
それを使えば、なんでもかんでもきれいごとに成り果てる。そのくせ、正真正銘のヒーローがきれいさっぱり解決してくれるわけでもない。ずいぶん都合が良すぎると思わないか。
金魚すくいと同じ要領だ。すくって捕れたものに気を取られ、破けた穴は仕方のないことだと棄ててしまう。欲にまみれた者ほど穴が大きいわりに、得られるのはせいぜい数匹だけ。
どうせすべては救えない。だったら、せめて、泳がせておいてくれよ。
「ヒーローじゃなくてもいいです」
陰湿な空気に差しこむ、一筋の光。
小さく見えた少女は、一転し、毅然とした姿勢で否定してみせた。物理的にも他のふたりより陽に照らされていて、類まれなる存在感を際立たせていた。
偉大なる母の像と重なる。いやというほど心を打った。
やさしさに満ちた呟きに、今度はHINAさんのほうがたじろいでしまう。隙の生まれた捕食の手をやんわりとほどき、セイラは哀しげに視線を落とした。
「救われるのなら、わたしは……」
まだ夢を見ていたかった。
後悔はいまだに胸の内でくすぶり続けている。
誰か。誰でもいい。何でもいいから。あのとき、俺がしたように、俺にも、手を差し伸べてほしかった。
けれど、やはり、どうにもできずに抱えたまま。
きれいに見繕い、健常者を装った。
大きな大きな穴に、黙って蓋をしたのは、きっと俺自身だった。
「信じてもいいですか、ボンスケさん」
問いかけ、少しの間を置き、セイラの視線がボンスケを射抜く。かすかな潤みにきらきらと光を蓄え、哀愁と希望をいとも華麗に宿している。
完敗だった。
ふんわりとセイラのまなじりがほころぶと、意識を正したボンスケが頷くように生唾を飲みこみ――カ、カ、カッチリ、とやけに乱れた音が場を制した。
「は、はい! カット! カットです!」
沈黙を守っていたスタッフが一同に息を吐き出した。このワンシーンだけで大量のエネルギーを消費した。マイナスな意味ばかりではない。
なんだろう。積もる心労に、もっと……こう……嫌気が差すと思っていた。でも……。
俺は口元から手を外した。新鮮な空気が体内を駆け抜ける。汚いものを押し出す気持ちで肺をゆっくり膨らませる。喉の奥が冷えていく。心地よかった。
「チェックします!」
「僕も見ます」
「あっ、あたしも~」
大人たちがぎゅうぎゅうになって小さなモニターの前を陣取った。一番に飛びついた監督、晴家さんのあとを追い、HINAさんも脇から映像を覗き見る。
対して春日野はマイペースを貫く。冷静にスカートや靴下についた砂汚れを払い落としたあと、モニターに列をなす大人たちの最後尾にひっそり加わる。そのときには映像は終わりかけていた。
まさかまさかの連続だった。
アドリブの応酬。バッドエンドしか待ち受けていないだろうと誰もが戦々恐々としていたのが嘘のような、見事なまでのハッピーエンド。
一連のシーンとして完成させ、仕掛け人を出し抜いただけでなく、『SIESTA』の良さである“含み”まで持たせ、アドリブの域を軽々と超えてみせた。ひとえに春日野の実力だ。
「うん、うん……! ノイズも入ってないし、なにより流れが秀逸ですごく」
「ごめぇん、監督」
モニターに釘付けになっていた監督の血走った目を、ひどく美しい手のひらが邪魔をした。
HINAさんは眉を八の字にして笑っていた。
台風の勢いは、まだ、削がれてはいない。
ひらひらと振られた手は、右と左をぺたりと合わせられ、お願いのポーズをつくりあげる。きゅるんと効果音がつきそうな上目遣いで、監督を落としにかかる。
「最後のとこ、もう一回やってもいい?」
「え!? ええー……で、でも、よくできて」
「なんかぁ、アドリブに挑戦してみたんだけど、思った感じとちがくて」
癖の強い高音が食い気味に伸びた。異論は認めないと言わんばかりの圧をひしひしと感じ取り、監督は反射的に押し黙る。
まーた変な言い訳か。
思ってたんとちゃうと思ったのは、この場にいるみんながそうだろうさ。春日野がいなかったらどうなっていたことか。やれやれ。彼女が来てから一度も計画どおりに動けていないってこと、わかってんのかね。
わかってなさそうな面をしてる。あからさまにいじけた形相に変え、矛先を向けたのは、ただ一点。
「もう! だめじゃん春日野ちゃん」
うしろで身をひそめていた春日野を、ロックオン。
こんな典型的なパワハラ、他にあるか。いや、ない。
「あ、だめでした?」
「だめだよ! 最後、龍さんのほうに言っちゃったらさー。あたしが仕掛けたアドリブなんだから、ちゃあんとあたしに返さないと」
んなわけあるか! そんな決まりがあったら、それはもはやアドリブでもなんでもねえよ。タイマン張る気があるんなら、ふたりっきりのシーンでやってくれ……!
自分都合が過ぎる“あたし理論”に、俺たち――監督、晴家さん含む――はいよいよ頭を抱えた。
しかし春日野本人は、さして気にしていないようで、
「そうなんですね、わかりました」
あっさり承諾してしまったではないか。
彼女が最後の砦だと信じていた監督は、べらぼうにあわてふためいた。本気か? 本気なのか? と目ん玉をひんむき、飄々とした彼女にすがりつく。
「ひ、妃希ちゃん? 本当にいいんですか!?」
「はい。監督、もう一度お願いします」
さっぱりと爽やかな風が吹く。
ダメ押しでHINAさんに呼ばれれば、監督はあっけなくなびいた。
「……ま、まあ、ふたりがやる気なら……はい……」
まさかまさか、まさかなことが起こりすぎている。
渋々メガホンを手に取った監督が、周りに指示を出すときには必ず「申し訳ないけど」「ごめん」が頭につけられ、その低姿勢にスタッフはみな、身を切られる思いだった。
シーン27のやり直しは気が進まない。それもそうだろう。100点満点はもう提出されている。なのに追試を受けるなんてバカのすることだ。
「今度はちゃんとやってね」
「はい、HINAさん。よろしくお願いします」
「うん、よろしくぅ」
いい顔してんなこんにゃろ。
はたから自分がどう映っているのかつゆ知らず、HINAさんはひとり、意気揚々と定位置についた。他人の不幸は蜜の味とは、彼女のための言葉なような気がしてくる。
迷惑な台風の目の近くで、一番被害に遭っているはずの春日野が、一番冷静さを保てているのは、不幸中の幸いだ。そもそも彼女は、これを不幸だとも思ってなさそうだった。
彼女の目には、この世界はどう映っているのだろう。
「え、ええっと、それじゃあシーン27、撮り直します……」
「はーい」
HINAさんの返事に声音を衰えさせながらも、監督はテイク2の説明を端的に行った。名刺を渡した直後から、つまりアドリブのシーンのみ撮影するらしい。
カメラ前に用意されたカチンコが音を立てると、待ち焦がれていたようにHINAさんが躍り出た。
「聞いて、セイラさん!」
さっきとまったく同じセリフで、セイラと化した春日野に詰め寄り、まったく同じタイミングで小さな手を握り締める。
ずる賢い。
相手には異なる回答を要求しておいて、自分はテイク1のアドリブをまんま再利用するつもりか。一度こなしている演技だから、二度目は必然的にクオリティーが高くなるし、余裕も生まれる。
あれ? もしかして、春日野、崖っぷちじゃね?
「怖いよね、心配しちゃうよね。世の中、危険で理不尽なことばっかり! ……でもっ! ボンスケさんに任せれば大丈夫。きっと、あなたたちのヒーローになってみせるわ」
こっからだ。さっきと同じ戦法は使えない。さあ、どうする、春日野。
はらはらと見守る外野は、次の瞬間、息を呑んだ。
春日野が、あるいはセイラが、静かに笑みを浮かべたからだ。
「そう、ですか。……そう、ですよね」
テイク1と打って変わって肯定を示した彼女は、ややうつむき、つながった手を見つめた。空いているもう一方の手で、慎重に、丁寧に、上からユメの手を包みこむ。
潮風に誘われ、細い髪の毛が数本、耳からすべり落ちた。
上から重ねたばかりの手で、野放しにされた数本の髪をすくい上げる。耳の輪郭に指を沿わせ、髪をかけると、手の内に指がきゅっと仕舞われていく。
揺らめく髪の毛を押さえるように中節骨が頬をかすめた。
「すぐにまた、平和になりますよね」
セリフがすっと耳に入ってくる。
語りかける言い方に合わせ、セイラは頬に触れている手のほうへひかえめに首を寄りかからせた。
「彼女、やるな……」
「ここで元のセリフを使うなんて……」
監督と助監督が思わずうなる。
――すぐにまた平和になるから。
そうだ、そうだった。あれは台本に書かれてあった、ユメのセリフだ。どうりで耳によくなじむはずだ。
HINAさんもそれに気づいたとたん、若干口角を引きつらせた。プロ根性やら最後の意地で、なんとか笑みを保つ。それでもぎりぎりだった。
カチン、と終了の合図が打たれた。
先ほどの大鑑賞会を催す暇も与えず、監督と助監督だけがすぐさまテイク2の映像をプレビューし始める。春日野のターンを食い入るように観る背中は、熱狂的なガチオタのようだ。
映像が2周目に入ると、そこに晴家さんも参加した。すっかり脱力しきった監督らと並び、笑いを漏らしながら天を仰ぐ。
「いやあ、ははっ、セリフも動きも文句なしですね」
「動き?」
「監督、気づきませんか? 最後の動き、手話ですよ。たしか意味は――……」
また別の満点回答が、叩き出された。伝説とはこうして生まれていくのかと、この場にいる誰もが唖然とし、鮮烈なほど胸を躍らせた。
今になって思い知る。
弱冠15歳の少女こそ、台風の目だったのだ。