ダークヒーロー⑴
宣言どおり、春日野は本当になんでもやった。
雑誌の誌面を飾るのはもちろん、深夜のバラエティ番組のロケ、売れないバンドのミュージックビデオ、地方の名産品の広告、関東ローカルのラジオのゲスト。
そして、はじめて演技に挑戦した、ウェブドラマ。
――人生の転機は、突然だった。
「はじめまして、春日野妃希です。よろしくお願いいたします」
ぱらぱらと拍手が起こる。
敬意を払い礼をとる春日野に、数多の視線が突き刺さる。微塵も動じていない彼女のうしろで、俺はパイプ椅子をうならせながら固唾を飲んでいた。
ここは、テレビ局の一室。
アイボリーで統一された大部屋に、長テーブルで国構えの形を作り、ずらりと椅子を並ばせてある。そこに座っているのは、俺でもわかるほどの一流の方々ばかり。
萎縮して小さくなってるのなんか俺くらいだ。春日野はよく堂々としていられるな。
ライオンの檻にぽーんと放り込まれた野良猫、あるいは、強敵に包囲された袋のねずみの気分。ぶわっと毛を逆立てるように脇汗が出てきて、ワイシャツが大変なことになっている。
事の発端は、1か月前。
ウェブドラマ『スクランブル!』の第1話が公開された、その日、事務所に1本の電話がかかってきた。
相手はなんと、テレビ局の有名プロデューサーだった。連続ドラマを数多く手掛け、ヒットメーカーとして名を馳せている人だ。
『春日野妃希さんをぜひうちのドラマに使わせていただきたい!』
なんでも、役のイメージに合う役者を見つけられず、気分転換に『スクランブル!』を観た瞬間、ぴんときたらしい。
あのウェブドラマで春日野に一目惚れしてくれるだなんて思ってもみなかった。しかもこんな大物に。何がどう当たるのか、つくづくわからない。
熱いオファーをふたつ返事で受け入れた。
そして現在行われているのが、そのドラマの顔合わせである。
「あらためまして、プロデューサーの中田です」
入口手前にいる、40代前後のメガネの男性が、電話をかけてきた張本人だ。
ドラマに携わるキャストやスタッフが一堂に会するなかで、彼が一番えらい立ち位置にあたる。経歴もさることながら、ドラマをこよなく愛するその熱量は業界でも群を抜く。
「みなさんどうも、おひさしぶりです」
照れ隠しにメガネをかけ直しながら、にこやかに挨拶する。
周りから笑みがこぼれた。彼の隣に座る女将のような女性が「挨拶は始まる前に聞きましたよ」とつっこみ、また笑いが起こる。その女性は先ほどの自己紹介で「紹介は不要かと思いますが」と前置きしたのち、監督だと名乗っていた。
そう、実は、今回のドラマは新作ではない。
続編だ。
肩身が狭い理由はそれもある。すでにチームの輪ができあがっていて、そこに大御所タレントまでいては、いつもどおりにはできまい。
「またこうしてお会いできてうれしい限りです。新しいキャスト、スタッフを加え、さらにパワーアップした作品を作っていきましょう!」
オファーを受けたその作品というのが、去年の秋に放送された連続ドラマ。年明けにあるスペシャルドラマで、一夜限りの復活を果たすことになる。
『SIESTA』
今でも人気の絶えない、探偵もののミステリードラマだ。
この作品は昨年、注目度、視聴率ともにダントツの1位を獲得し、社会現象を巻き起こした。
主人公は、探偵のボンスケ。普段は小心者な彼だが、眠ると、クレバーでイカれた人格が目覚める。いわゆる二重人格である。
連続ドラマの第1話で、彼はとあるブラック企業の陰謀に巻きこまれる。その企業に新卒入社し、ノイローゼになりかけていた女性・ユメに助けを乞われ、企業の陰謀を暴き、倒産に追いやった。
そうして職を失ったユメを助手に迎え、彼の人格に翻弄されながら、事件解決に奮闘していくのだ。
このドラマの人気は、ずばり、伏線を回収しきらないところにある。
たとえば、ボンスケが眠ったときに現れるもうひとつの人格には、謎が多くある。狂気を孕んだ言動をしながらも、小心者な主人格を第一に守ろうとし、事件が起こるたびに解決へ導いてくれる。
最終回で、彼の別人格は、自分の心臓を指差して言った。
『俺は、ピエロさ。主人格のためのピエロであり続ける』
そんな意味深なセリフを残し、ドラマは終わった。
主人公の過去を含め、暴かれなかった謎は随所に転がっている。あのときの犯人は? あのときのセリフは? と、視聴者はあーだこーだ考察しながら、続編を強く希望した。
そんなドラマが、2時間に及ぶスペシャルドラマで帰ってくる。
完全オリジナルの続編と聞き、一視聴者だった俺は内心たぎっていた。
伏線の中身は暴かれるのだろうか。一番気になるのは、ボンスケの秘密だが……あー、でも、暴かれたら終わってしまう。それなら暴かれないほうが……。
「スペシャルドラマで、ボンスケの秘密を明かすことはありません」
えっ、と声が出そうになった。ネタバレ食らった。
きっぱりと断言した中田プロデューサーは、にやりとほくそ笑む。
「ここだけの話、ドラマの2期がすでに決まっています。そこですべての謎を解き明かす予定です。ちなみに、この情報はスペシャルドラマ放送後に解禁されるので、皆さん、このことはご内密に」
なるほど。スペシャルドラマで一度盛り上がらせ、2期でまた話題をかっさらう算段か。うまいな。長期に渡る綿密な計画、ミステリードラマを手掛けるだけある。
すぐには見れない残念な気持ちが半分、楽しみが増えてうれしい気持ちがもう半分。複雑だ。
「かといって、スペシャルドラマで何も触れないわけではありません。脚本はまだ完成していませんが、どうか楽しみにしていてください」
あれ? 今……春日野のほうを見なかったか……?
何かの予感がよぎる。
謎を深めつつ、彼は人物紹介を始めた。最前に置かれたホワイトボードに名前を書き連ねていく。春日野の文字が加わったとき、俺の緊張は限界を突破した。
台本が届いたのは、それから1週間後のことだった。
梅雨が明けるころ、いよいよ『SIESTA』の撮影が始まった。
「春日野妃希さん、クランクインです!」
「おはようございます。今日からお願いいたします」
早朝、鎌倉の海沿いに人口密度が集中する。
やって来たばかりの春日野は、スタッフに埋もれながら意気込みを語った。その様子を俺は一歩離れたところで見守る。主張を強めた太陽に負けじと爛々としているように見えた。
気づけば、マネージャーになって2年。
彼女は中学3年生になっていた。
あどけなさを残しつつも、すっかり垢抜け、雑誌の看板を背負うほど一人前になった。その成長はとどまることを知らない。
ほとんど毎日会っていても、毎日、新鮮な気持ちを味わわされる。
「撮影始めます」
「シーン20、テイク1!」
なんと春日野が撮影のトップバッター。
まだ他の演者がそろっていないなかで、たったひとり、カメラに射抜かれる。
連続ドラマの時間軸から約1年後の晩秋という舞台設定の下、現実世界とは切り離されたプランをチューニングしていく。
きっと、また、新しい彼女と出会わせてくれる。
「よーい、はいっ!」
――カチン。
カメラに映る春日野は、もう、春日野ではない。
今回の役どころ、女子高生のセイラだ。実年齢より上でも申し分なく、特注で作られたブレザーの制服もすんなり馴染んでいる。
彼女は海沿いを歩いていく。セリフはない。朝日に焼かれ、さざ波を聴き、形のよい横顔を絶妙な影で際立たせながら、ただ歩いて学校へ向かう。
さらり、と髪が潮風に遊ばれる。
今まで黒一筋で、肩甲骨あたりまであったそれは、このドラマのためにはじめて色を染め、肩に触れるかどうかの長さまで切られた。ミルクを継ぎ足した紅茶のような、やわらかな雰囲気がある。
善人さがぐっと増した。
「はい! オッケーです」
たったの10秒未満。登校するだけの単調なシーンでも物足りなさはなく、心地よい水温に浸かっているときのような快感さえある。
彼女の演じるセイラは、たしか、名門女子高の学級委員という設定だった。取り立てて挙げられるセリフも仕草もなかったのに、そうなんだ、そうだよな、と、設定がすとんと落ちてくる。
それくらい“お姉さん”していた。
「はあ……すごいな、春日野は」
「ええ、まったく。脱帽です」
「本当に」
……ん? 俺は今、誰と会話してるんだ?
「見れば見るほどふしぎな子ですね。役と心を通わせているようで、その実、彼女自身への期待に丁寧に応えてくれている。まさに優等生のようです」
隣に、長身の男が立っていた。薄手の黒いガウンを肩に羽織り、ふむふむと分析を続けている。
き、気づかなかった……。撮影に夢中になっていて、今の今まで気配すら感じなかった。
誰だろう。ソフト帽をかぶっていて、ぱっと見、誰かわからない。中田プロデューサーにしては、声も体格もよすぎる。
顔を覗きこめば、目ん玉が飛び出そうになった。
「あ……あ……!?」
「ああ、失礼。挨拶がまだでしたね。おはようございます」
「おっ、お、おはようございます!」
龍様だ!
本物の、ボンスケだ!
今になって気配が濃ゆくなっていく。襟足の長いダークブラウンの髪、精悍な顔、抹茶色の着物。全部、テレビで観たまんまだ。
びっくりしすぎて、ひゅごっ、と喉から変な高音がもれた。
彼こそが、このドラマの主人公を演じる名俳優。
晴家 龍儀。
大河ドラマの主演に史上最年少である20歳で抜擢されて以来、龍様の愛称で親しまれ、40歳になった今でも最前線で活躍されている。
カメレオン俳優とも呼ばれ、彼の手にかかれば、地味な大学生から派手な富豪の役まで自由自在に化けられてしまう。二重人格という難しい役も、彼だからこそ成功したのだと評価されていた。
顔合わせのとき、春日野とちょろっとお話させてもらったが、こんな間近で一対一はさすがに無理だ。心臓に悪い。
恋する乙女みたく目も合わせられず、照れ隠しも同然に勢いよく腰を折り曲げた。
「う、うちの春日野を褒めていただきありがとうございます……!」
「僕もうわさのウェブドラマを観てから、この共演を楽しみにしていたんです。どうぞよろしくお願いしますね」
「は、はい! こちらこそ!」
何卒よろしくおね、のあたりで、晴家さんにお呼びがかかった。すみませんと俺に目配せし、春日野や監督のいるほうへ移動していく。
ひとりになってからのほうが、バクバク、バクバク、心臓がうるさい。
うわあ……うわあ……! お、俺、龍様としゃべっちまったよ……!
俺世代のスーパースター。憧れの男といえば彼だった。
水泳を始めたのだって、彼が競泳選手の役を演じた映画『明日の道』に感化されたのがきっかけだった。昔はよく、龍様の出てた朝ドラを観てから、ジムで仲間と感想を言い合って――……あぁ、やめやめ。今のなし。
最近は思い出さなくなってきたっていうのに、調子に乗るとすぐこのざまだ。
順調に寿命を縮めている心音を、どんっと強く叩いた。強制的な精神統一に成功すると、代わりに監督たちのいるほうがざわつき出す。
アクシデントか何かか?
「HINAちゃんは?」
「ちょっと遅れてるようでして」
「またか……。そういうところがなきゃ、いい女優さんなんだけどな」
HINAとは、探偵の助手であるユメ役のキャストだ。
母に、一世を風靡したアイドル。父に、歌舞伎役者を持つ、生粋の芸能一家で生まれ育った一人娘。
高校卒業後に、モデルデビュー。強力な遺伝子を受け継いだ美貌は、「世界に愛される美女ベスト100」に選出され、アジア各国のファッション雑誌から引っ張りだこ。あらゆる表紙を飾っている。
ドラマに出るようになったのは2年前、彼女が20歳になったころからだ。演技力がずば抜けているわけではないが、無理のないナチュラルな演じ方に定評がある。
そんな彼女のシーンがこのあと撮影される予定だった。すでに彼女が現場入りすべき時間は過ぎている。
これがはじめてではないようで、監督は呆れ返っていた。
「うーん……時間もないし、先におふたりのシーンを撮っても大丈夫ですか?」
「はい、わたしは問題ありません」
「僕もです。こういうことはドラマ撮影で慣れましたし」
笑いに変えているものの、あの龍様までも若干引き気味。どれだけやらかしてるんだ。
ユメが自己犠牲精神の強いがんばり屋な子だから、てっきり彼女自身もそうなのかと……。
顔合わせや本読みでも尖った印象はなかった。
ドラマに吹きこまれ、盲目になっていたのかもしれない。イメージが崩れに崩れまくっている。
予定外の撮影準備は順調に進んだ。海沿いの横断歩道に、カメラが配置される。
撮影されるのは、シーン51。事件解決の糸口を発見したボンスケが、数分前まで捜査に協力してくれていたセイラに違和感を覚える。違和感の正体を突き止めようと彼女を追いかけ、話をしていく。
のちに意味を持つシーンのひとつで、セリフ以上に非言語の技量が問われる。読み合わせでは監督が「行間を読んでください」と口酸っぱく言っていた覚えがある。
晴家さんにとっては、スペシャルでの初の撮影のためか、入念な確認が行われた。
「それでは本番いきます」
リハーサルを終え、晴家さんはガウンを脱いだ。春日野にひとこと、元気づけの言葉を送り、笑い合う。年長者の余裕を感じた。
ひとたびカメラ前にカチンコが用意されると、その和やかな空気はぴりっと引き締まる。
横断歩道前に春日野が、その3メートルほどうしろに晴家さんが立つ。じっと構えているだけのはずの彼の息づかいが、次第に荒くなっていく。
「シーン51、テイク1。よーい」
カチン、と鳴った音は、いわばスターターピストル。
晴家さんが走り出す。余裕のなくなった困り顔をして、思う存分ボンスケの弱々しい主人格に成り代わっている。
肩を大きく上下させ、足をふらつかせ、わずか3メートルの距離を見事にマラソンのラストスパートに錯覚させた。ぜえぜえ言っているダサい恰好は、生で見るより、画面をとおしてのほうが何倍もハマっている。
横断歩道が青になる。渡ろうとしたセイラの体が、つんとのけぞった。
「……?」
「はあ、はあ、セイラさ、ちょ、ま……っ」
「ボンスケさん?」
ボンスケに腕をつかまれた。それまでは、先ほど撮ったばかりのシーン20とほとんど同じく、セイラはひとりで悠々と歩いていた。
対比となる構成になっているのはわざとだ。セイラという少女の存在を少しずつ、少しずつ、知らしめている。
これをテレビで観ていたら、そろそろ疑い始めるころだ。
――果たして、彼女は、単なる脇役なのか。
「どうしました?」
「あ、あ、あの」
尋ねたのはセリフ、それに戸惑いを見せたのはアドリブ。
一見うそっぽくなったりやりすぎたりしがちな些細な動作も、彼にかかればお茶の子さいさい。コミュ障な節のあるキャラクターが取り憑いているようで、さすがカメレオン俳優と呼ばれるだけある。
「あの、その、せ、セイラさん……」
無意識に彼の手が力んでいく。セイラが痛がると「ごめんっ!」と反射的に手を引っこめた。彼女とがっつり視線が交わり、おずおずと顎を引く。
いまだに息は整わない。どもるのも直せない。それでも彼の目は逸らされない。
「き、君は……何か、知ってるの……?」
日差しが強くなる。レフ板が傾いた。カメラに抜かれたセイラの表情が、逆光で見えなくなる。
レフ板の角度が正された。反射させた光に照らされ、ほの暗さが散っていく。
白い頬はふっくらと上がっていた。
「はい、知っていますよ」
甲高い警告音がぷつんと切れ、赤くなる信号。ざぶんと荒々しく波打ち、べたつく砂浜。潮を多く含んだ風に攫われかけるソフト帽。
タイミングを図ったとしか思えない。自然をも味方につけたのは、どちらだろう。
ボンスケはとっさに両手で帽子のつばをつまんだ。目深にかぶり直し、泳ぐ視線をごまかす。見て見ぬふりをするようにセイラの目は伏せられた。
「わたしの学校にも被害者はいますから」
「……えっ?」
「この間もクラスメイトに相談されましたし。そういった生の声は、ボンスケさんよりも聞いているかもしれません」
「事件のこと知ってるって、そういう……?」
セイラはしおらしくうなずいた。信号が青になったことに気づき、颯爽と駆けていく。海沿いにぽつんと残した彼に、スカートの両端を持ち上げ礼を執った。
「では、わたしは学校がありますので。ごきげんよう」
ぽかんとするボンスケの顔を、カメラのひとつがズームインして収める。
信号が赤になるとカットがかかった。
監督のチェックが入る。演者のふたりもモニターを囲んだ。そこに映り、動いているのは間違いなくボンスケとセイラで、ちょっとした感情の機微ももれなく撮られている。もちろん監督はご満悦だ。
役の抜けた晴家さんが、春日野に手のひらを向ける。音を立てずに手を合わせ、やさしげなハイタッチを交わす。よそよそしくも兄と妹のような図に、俺を含め、スタッフ一同ほほえましくなる。
いい。いいじゃないか! このチームに新加入してきたとは思えないくらい打ち解けてきている。春日野自身、調子よさそうだし、このまま何事もなく終えられたらいい。
間違っても『スクランブル!』のときのようなハプニングは御免被りたい。
「――ひ、HINA、早く!」
「ちょっとぉ。引っ張らないでよ」
台風が、来た。
今日は晴天だった。凪いだ海面を染める淡い水色に、シミ汚れはひとつもなく、暑すぎず寒すぎず、しいて言えばちょっと太陽が元気なところが玉にきずだが、それも味が出ていて悪くはない。覗く晴れ間のどれもが平穏で、ひなたぼっこするのにもってこいだ。
お手本のような日だった。
たった今、影を落とされるまでは。
ほっそりとした長い影が、モニターの前に群がるスタッフやキャストに暗然と覆いかぶさる。
三十路前後のマネージャーらしき女性に連れられた、長身の女性が、かったるそうに文句をたれていた。待ちに待った準主役、HINAのご登場。ほほえましさは一切ない。
彼女を台風の目に、暗雲が立ちこめる。
監督は苦笑しながら重々しく口を開いた。
「HINAちゃん、遅刻だよ」
「すみませんすみません!!」
半泣きで謝るマネージャーに、HINAさんは我関せず。きれいにメンテナンスされた爪に全関心を向けていた。マネージャーに力尽くで頭を下げられ、ようやく形だけの「ごめん」を口にしたものの、反省の色は見えない。
こりゃあひどい。ユメの一片もありゃしない。とんだわがままお嬢様だ。
あの人のマネージャーは苦労が絶えないだろうな。春日野が担当でよかった。切実に。
「どうして遅れちゃった? 何かあった?」
「何かっていうか~、うちの子たちが離してくれなくって」
「う、うちの子たち?」
「ドラマやってたとき写真見せてあげたじゃん。うちで飼ってる、ミルクとココアのこと!」
また見せてあげよっか、と最新機種のスマホを取り出せば、焦った監督が「大丈夫大丈夫!」と全力で頭を振る。「ほんとにいいのお?」と楽しげに念押しされたが、監督の意思は固い。その横でとうとう晴家さんがため息をついた。
おいおい、まじかよ。犬て。どんな言い訳だ。
困惑気味な周囲をよそに、彼女はひとりスマホをいじり、はしゃいでいる。
視覚への暴力がすごい。これみよがしに高級ブランド品を装備した八頭身、派手に盛られた能天気な頭……は、まあ、さておくとしても、あのマナーはどうにかならなかったのか。
凡人には理解しがたい。俺が甘かった。想像以上にでかい台風なようだ。
「ねえ、聞いてよ監督! ミルクとココアすんごくかわいくてね」
「う、うんうん、そっか。それなら仕方ないね」
あ。ごまをすりやがった。
相手は業界に名を馳せる芸能人の娘で、本人もそれなりに知名度と力を持っているから、極力敵に回したくないわな。幸いにも撮影にはさして支障はなかったわけだし、彼女のご機嫌を取りさえすれば万事解決だ。
連続ドラマのときもあんなふうに年下だろうとしっぽを振りまくっていたのかと思うと、心から同情する。
芸能界は完全なる縦社会。長い物には巻かれておくのが生き抜くコツである。ウェブドラマのときもそうやってなんとか成り立たせていた。やりすぎなくらい気を遣い、疲弊しきっていたが。
HINAさんのマネージャーも、そうとう疲れが溜まっている。ぺこぺこ頭を下げ続ける姿は痛ましく、とても見ていられない。
「監督すみません……あとでちゃんと言っておくので……」
「あ、あはは……。えっと……はい、お願いします。じゃあHINAちゃん、あっちでヘアメイクしてきて。すぐ撮影するよ」
「はぁい」
スケジュールは詰まっている。彼女の説教より優先すべきことは山のようにある。
監督が彼女のマネージャーに労いのお茶を渡すと、スイッチをオンに切り替え、大急ぎでスタッフを動かしていく。
機材が海辺へ移動される。次はそこで、ボンスケ、ユメ、セイラの3人でのシーンを収録する。
1分1秒、無駄にはできない。先に晴家さんと春日野のかけ合いを打ち合わせしておく。光の当たり具合、カメラ割り、セリフの抑揚をひととおりチェックすると、ようやっとHINAさんの準備が整った。
「ユメ役のHINAさん、クランクインです」
「ヒナです。お願いしまぁす」
落ち着いたカーキ色のお団子ヘア、ぱっつん前髪、うすいオフィスメイク、グレーのスーツ。ハイスピードでヘアメイクを終わらせたわりには、抜かりのない完成度だ。
きらびやかなお嬢様感を目の当たりにした直後だからか、ユメと化した風貌はひどく慎ましく感じる。あれだ、しゃべらなければモテるのに、ってタイプの子だ。
「龍さん、またよろしく。そっちの子は、か、かす……なんだっけ」
「春日野妃希です。よろしくお願いします」
「あーそうそう、春日野ちゃん。よろしくね」
「はいはい、挨拶はそこらへんにして、リハーサルの続きするよ。このシーンはまずHINAちゃんの寄りから始まるから、表情管理がんばってね。龍儀さんと妃希ちゃんは先ほどまでの撮影、本当にすばらしかったので、この調子でお願いしますね」
「ちょっとぉ、なんでヒナには厳しいの?」
「き、厳しくないよ、期待してるんだよ」
とたんに監督の挙動がおかしくなる。
疑いの晴れない切れ長の眼差しに、見兼ねて飛び込んでいったのは、なんと春日野だった。曇りのない笑顔を向け、わがままなジト目をぎょっとさせる。
「わたし、HINAさんの演技を見て、たくさん勉強させていただきたいです」
「それを言うなら、僕も。春日野さんから学ぶことがたくさんありますよ」
「え……? わたし、ですか?」
「ねぇ、監督?」
「そうそう。スタッフみんな、絶賛してましたよ。すごい新人が出てきたって。妃希ちゃんに感化されて、HINAちゃんの演技も進化するかもしれないね」
「……ふーん、そんなにすごいんだ?」
HINAさんの関心が、はじめてよそに向いた。春日野を見下ろし、くすみのない口元にしわを浮かべた。