岐路⑶
報告書。
1月26日、日曜日。
午前11時過ぎ、担当の春日野を家まで迎えに行く。
時間ぴったりに玄関の扉が開いた。隙間をすり抜けるように出てきた彼女は、誰かに押されたかのように体勢を大きく崩していた。
本人は「ちょっとこけちゃって」と恥ずかしそうに言っており、なにか段差につまづいたのだろうと思う。疲れがたまっているのかもしれない。
本日のスケジュールは、事務所で演技のレッスン。
友人らしき子や先生に「最近痩せてきているのでは」と心配されていた。専属モデルになるからと本人は言う。健康管理には注意しておいたほうがよさそうだ。
1月28日、火曜日。
研修後、学校帰りの時間帯に春日野の家へ。
出発時間から5分を過ぎても姿は見えない。帰宅の連絡はすでに届いており、準備に手間取っているのだろうと、さらに5分待ってみたが扉が開かれる気配はない。
ガッシャン! と突然何かが割れる音が、家の中から響いた。
インターホンを押せば、彼女が出た。すみません、皿を割ってしまって、と。
片付けにまた5分かけ、あらためて出てきた彼女は、ケガをしていなかったものの、手首がとても細く感じた。こけたり皿を割ったりするのも当然だと思い至れるほどに。
モデルってたいていこんなもんなんだろうか。選手の理想体重ならわかるが、モデルのはよくわからない。無知を言い訳に、高カロリーなおやつと軽食を差し入れしてやった。
1月31日、金曜日。
先日受けたウェブドラマのオーディション結果が来た。見事、ヒロイン役に合格! すごい! 本格的に企画が始動するのは来年かららしい。スケジュールは早いうちに調整しておこうと思う。
うれしいニュース片手に、午後4時、春日野を迎えに行く。
彼女が家から出てきたとき、ちょうど彼女の父親が仕事から帰ってきた。着古したスーツをまとう体はやや猫背で、どこにでもいるサラリーマンに見えた。
お疲れのところ恐縮ではあるが、軽くご挨拶させていただいた。ついでにオーディション結果を伝えると、彼女以上に父親が喜んでいた。「がんばれよ!」と気合いの入った鼓舞に、彼女は肩をすくめ――
「――って、こんなこと、報告書に書く内容じゃねえか」
ここ最近、俺は研修、春日野はレッスン続きで、報告書の内容が似たり寄ったりになり、書く側としても飽きてきた。仕事に飽きたもクソもないのは重々承知ではあるが。
気づいたことがあればどんどん書いてね、と先輩から指導され、出来心でつい。痩せすぎうんぬんはともかく、こんな無駄の多い個人的な日記みたいなもんは求められてないよな。
それなりの量を書いておいて心苦しいが、全消しした。書きながら、もしかしたら春日野はドジっ子ってやつなのかもしれない、という推理に至ったのが唯一の収穫だ。
真面目にやろう。
夜が更けていった。
・
カレンダーをめくった。
立ち寄ったコンビニのBGMは、昨日までと雰囲気がちがう。甘ったるい歌詞に胃がもたれる。ハートマークの目立つ包装に気を取られながら、ホットコーヒーと栄養補助食品だけを買い、車内へ逃げこんだ。
午前8時半。濃い苦味で目を覚ましながら町の中を走った。
頭の中で、今日のスケジュールを分単位で流していく。
午前は、専属モデルとして初の雑誌撮影。午後は、雑誌の動画コンテンツの収録。新しくプロの一員に加わった春日野をメインに、読者への挨拶や宣伝を兼ねて撮影される。
レッスンの傍観ばかりだった日々をはるかに上回る忙しさになる。やる気は十分だ。肩に力が入り、右側が強張った。
青い屋根が見えた。車をゆっくり停車させる。
家の前に春日野が立っていた。ゴミ出し帰りのおばさん3人に囲まれ、わいわい絡まれてる。
ああいうのは捕まると長いんだよな……。
重い腰を持ち上げ、声をかけると、おばさんらの目がギンと光る。
「か、春日野、おはよう。待たせてすまんな」
「おはようございます」
「あら。あらあら」
「妃希ちゃん、こちらの方は?」
「マネージャーです」
「はじめまして。春日野がお世話になっております」
「やだ、もしかして雪選手? やっだー!」
うなずく前に、興奮気味に腕を叩かれた。左のほうでよかったと内心全力で安堵しつつ、アハハと笑っておく。
どこのおばさんも癖が強くて参る。
春日野も笑っていた。俺のとはまるでちがう清らかさ。白色の浮く空気によく溶けこみ、おばさんらの気分をよくさせる。
「あの雪選手が付いてるだなんて、妃希ちゃんったら贅沢ものねぇ」
「はい、わたしもそう思います」
「ほんとによかったわね」
「一時期はどうなるかとひやひやしたけど」
「そういえば、お父さんは? 今日もお仕事?」
「いえ、家にいます」
「あらそう。お父さんとお休みがかぶらなくて残念ね」
「そういえば、この前、お仕事から帰ってくるところにたまたまお会いしたのよ。荒れていたとは思えないくらいすっかりお元気になられて」
「妃希ちゃんもお仕事がんばってるんですって? うちの子にも見習ってほしいわ」
話についていけない。
無情にもマシンガントークは続く。いくつかの声が鼓膜に引っかかり、取り外せない。
作り笑いは、とうにはげ落ちていた。
……ひやひやした? 荒れていた?
聞き間違いか? いいや、ちがう。カフェインで耳まで冴えている。これは間違いなんかじゃない。
ふと、春日野の笑みがしゅんと沈んだ。
「すみません、そろそろ行かないと」
「あら!」
「引き留めちゃってごめんなさいねぇ」
「気をつけていってらっしゃい」
彼女は会釈をし、俺の袖を引く。
車を発進させた。おばさんらに手を振る彼女を横目に、おぼつかない気持ちでハンドルを回す。
シートベルトが妙にきつく感じた。胸筋を押され、脈が重々しく撥ねる。
「あ、あのさ」
「はい」
「……い、いや、やっぱ」
「いいですよ、お答えします」
なんでもない。こういうときの常套句を封じられた。
空気を読んだつもりだった。が、本当に読んでいたのは彼女のほうだった。
彼女は至ってふつうで、潔く道を開いてくれたのも、彼女にとってはなんでもないことなんだろう。
「……昔、何か、あったのか?」
言葉を選んで、選んで、出たのがこれ。
俺はどうやってもさっきのおばさんらのようにはなれそうにない。
助手席のほうを見れなかった。
「去年、母が亡くなったんです」
とっさに「ごめん」と言ってしまった。彼女は黙って首を振る。
「いずれわかることですから」
「……じゃあ、荒れてたってのは」
「父がずっと立ち直れず、引きこもっていたんです。近所の方々はいつも気遣ってくださいました」
彼女の父親とは昨日はじめて会ったが、話せば話すほど印象がよくなり、立派な人だと感じた覚えがある。
彼女に似た顔立ちはあまりほぐれず、タバコの匂いがしみていて、はじめは近づきがたく感じたものの、我が子の活躍を知るやいなや満面の笑みを見せた。会社で部下に慕われるタイプだ。
そんな人が、荒れていた。
近所の人があんなに言うんだ。そうとうだったんだろう。
大切なものを失ったら、どんなにできた人でも追いこまれる。1年もせずにあんなふうに振る舞えるなんて、本当に立派な人だ。
「それで春日野はこの仕事を?」
1年前といえば、彼女が中学に上がる前。ちょうど読者モデルデビューを果たしたころじゃないだろうか。
傷心の父親を支えようと、戦々恐々とした世界に踏み入れた健気な娘。ドラマにできてしまえそうな憶測がよぎり、胸を打たれた。
わかる、わかるよ春日野。俺も同じさ。
世の中、金。金がなけりゃ満足に暮らすこともままならない。まったく世知辛いぜ。
「春日野も立派だな。家族思いで、やさしくて……」
「あ、いえ」
「うん?」
「それもありますが、仕事を始めた理由はそれだけではなくて」
春日野は行く先を真っ直ぐ見つめ、保湿だけされた唇をゆるりと丸めた。
「欲しいものがあるんです」
「欲しいもの?」
なんか、なんというか、意外だ。彼女の口から、そんな、子どもらしいことを聞けるとは思わなかった。
なんとなくほっとした。
つ、と隣を一瞥すれば、目が合った。大きな黒い瞳は熱を帯び、不敵に尖っていく。
ごくりと喉仏を鳴らした。
「はしたお金では、けしてものにできません。それでも、喉から手が出るほどに欲しいんです。夢と言い換えてもかまいません」
「へ、へぇ……。壮大だな」
「そのためにやっています。壮大な夢だとしても、そのためならなんだってやってみせます」
「い、いいじゃないか、夢があって!」
子どもらしい? どこがだ。
あの目をよく知っている。腹をくくった人間の目だ。尋常ではない気迫にあふれ、揺るぎなく、どこかおぞましい。
俺も、そうだった。事故に遭う前はそんな目をして、未成年な自分を殺し、笑っていた。
「だから、わたしは、ここにいます」
どうして俺はこっち側にいるんだろう。