終わり
前が見えない。
鮮やかなフラッシュが焚かれ、シャッター音が絶え間なく響き続ける。まばゆく覆う光の奥では、何十台ものレンズが、一方向に狙いを定めている。
ここは、都内で随一の規模を誇る映画館。
その中で一番広い劇場は、席ひとつ余すことなく埋め尽くされ、シャッター音に負けず劣らずの歓声が上がっている。
カメラ、観客が注目する先には、地面より数十センチ高めに造られた立派なステージがあった。そこには、これからスクリーンに映し出されるキャストがそろっている。
「本日は、映画『未だ蒼きハルの子へ』完成披露試写会および舞台挨拶へ起こしいただき誠にありがとうございます」
女性アナウンサーの進行のもと、そのイベントは始まった。
映画のタイトルにかけ、3月に催された今回のイベントは、一般応募の倍率がかなりの桁数になったと聞いた。青春真っただ中の中高生に対象をしぼったにもかかわらず、だ。
イベント開始ゼロ秒でこの熱気なのもうなずける。
競争率の激しい席取りをかいくぐってきた歴戦の猛者たちは、興奮のあまり早くもハンカチを濡らしていた。
劇場のボルテージは下がることを知らぬまま、まずは簡単な自己紹介を求められた。
先陣を切るのは、映画の主演――わたしの役目だ。
「思春期を迎え“自分らしさ”に葛藤する主人公・アオイを演じられた、春日野 妃希さん。お願いします」
「はい。ご紹介にあずかりました、春日野と申します。本日はお集まりいただきありがとうございます。こうして皆様に作品をお届けすることができ、とてもうれしく思います。短い時間ではありますが、本日はよろしくお願いします」
マイク越しに伸びた声が、場内に振動する。軽く礼をすると、フラッシュの数が増えた。
長い髪を耳にかけながら顔を上げる。
奥の席から「妃希ちゃーん!」と甲高い声援を送られた。目を凝らしてみると、ブレザーの制服を着た女子高生が2人、大きく手を振っていた。わたしと同い年くらいだろうかと、憶測を立てながら会釈を返す。
登壇しているのは、作品の主要人物、キーパーソンを演じた8名。
順々に紹介したあとは、作品の宣伝を含めたトークセッション、記者や観客との質疑応答が行われた。撮影時の思い出、役に対する想い、演者同士のプライベートな関係まで、笑いを混じえつつ話を広げていく。
その間、常にカメラを意識しているのは、もはや職業病の一種だ。
わたしは、今、どう映っているんだろう。
「さて、お時間も迫ってきたところで、最後に一言。春日野さん、お願いします」
もう30分ほど経っていたらしい。いよいよ『未だ蒼きハルの子へ』が上映される時間だ。
舞台挨拶の締めくくりを任せられ、マイクを口元へ持っていく。
わたしで始まり、わたしで終わるのだ。
「わたくしごとではありますが、この場を借りて皆様にお伝えしたいことがあります。わたし、春日野妃希は、本作をもって芸能界を引退します」
笑って告げた。
自然な流れだった。
唯一告げた内容だけが噛み合わず、鮮烈な不自然さを叩きつける。
その瞬間、世界が止まった。
視覚を奪っていたフラッシュも、ひっきりなしに鳴っていたシャッター音も、終幕を拒む観客の声も、無慈悲な静寂に侵される。他の演者ですら、息を呑み、硬直する。
かすかにエコーのかかった、わたしの声だけが、やけにきれいに反響していた。
突然の発表を詫びると、我に返ったように場内はざわめきで満ちていく。ある者は驚愕し、またある者は困惑している。誰しもが抱く疑念を、口にできるほどの余裕はまだない。
ここは、すでに、わたしの独壇場だった。
「最後にアオイとして演じられたことを大変光栄に思います。このあと上映される本作を、ぜひお楽しみください。本日の完成披露試写会および舞台挨拶、そしてこれまで応援してくださったこと、心から感謝しております。本当に……本当にありがとうございました!」
深々と頭を下げる。1分を超える礼をとり、ゆっくりと背筋を伸ばす。
清々しく笑みを浮かべ――パチリ。か弱げな音が降った。指が滑って押されてしまったシャッターが、引き金となり、閃光と機械音を続々と招く。
上映時間のため、アナウンサーはしどろもどろになりながらも、キャスト陣にステージから捌けるようアナウンスをする。
記者たちはなんとか冷静を保とうと口を開閉するが、動くのは年季の入った指先だけで、なかなか言葉として出てこない。
観客のほうがよっぽど、なぜ、どうして、と叫んでいた。
一方わたしは、ランウェイを歩くようにステップを踏みながら、脳裏に卒業式の定番曲をよぎらせる。
さながら人生のエンドロールだ。そこに演出はいらない。そんなものは蛇足でしかない。わたしは沈黙を決めこんだ。
なぜ。どうして。
それに応える義務はない。
なにせ、わたしの世界に、幕を下ろしたのだ。
さようなら、わたし。お元気で。
――そうして、春日野妃希は宣言どおり、芸能界から姿を消した。