温泉で筋肉に囲まれるのは嫌だ! 〜爺は、一人になりたい跡取りを逃がさない〜
第5回「下野紘・巽悠衣子の小説家になろうラジオ」大賞への参加作品です。
温泉旅館に十人も護衛がいると、小学生の僕のほうが目立つ。
「この人たちも温泉に?」
「若に何かあっては、我が社の一大事ですからな」
荷物を下ろした部屋で、爺はそう言いながら、僕に浴衣を着せる。
僕は、老舗企業の後継ぎだ。だから、いつも誰かに見守られていた。一人だけで過ごしてみたいけれど、隙を見て逃げ出しても、爺にすぐ捕まってしまう。
温泉に浸かる。次々と護衛が湯に入ってきて僕を囲む。目の前が、筋肉の塊だらけになった。このぬくもりは、湯か、それとも彼らの体温か。
僕は、三分も経たないうちに部屋に戻った。
「あんなの落ち着かないよ!」
「しかし、若を狙う不届き者がいるかもしれませんからな」
僕は爺に文句を言ったが、取り合ってくれない。
僕は、ふてくされて寝転がる。
ふと、爺が護衛に話す声が聞こえてきた。
「旅館の裏に、秘湯があるらしい。若が行かないように、警戒を」
それを聞いた僕は、お土産を見に行くと言って部屋を出て、爺から逃げた。
従業員用出口から、外へ出る。
歩いて五分もしないうちに、湯けむりが見えた。
秘湯だ。知らない男が一人、湯に浸かっている。
脇にある脱衣所で服を脱ぐと、僕は湯に入った。
「はぁ……極楽、極楽」
空をゆったり眺める。
それにしても、僕に聞こえる声で秘密を話すなんて、爺も年だな、と思った。
ザブザブと水音がした。顔を前に向けると、男がすぐ前にいた。
男は僕の両肩を掴んだ。
「一人で出歩いてはいけないって、教わらなかったのかな?」
男はそう言うと、手に力を込めた。まさかこいつが、爺の言っていた不届き者!
「やめろ、変態!」
僕は、手足を動かして暴れる。けれど、男の体はびくともしない。
むしろ、僕が体勢を崩して、湯に沈んだ。
「坊ちゃん!」
男の声がした。その言葉に疑問を覚えていると、腕を掴まれた感覚がした。けれど、次の瞬間にはザブン、と大きな水音が聞こえてきた。
立ち上がると、男は湯に浮いていた。足を滑らせて頭を打ったらしい。
しばらくすると、爺が駆けつけてきた。
「爺、説明してくれるよね」
僕がそう言うと、爺は、気絶した男を見て渋い顔をした。
すべては、一人で出歩こうとする僕を戒めるために、爺が仕組んだことだった。この男を雇っただけでなく、秘湯も、爺の命令で作られたものだった。




