分岐点
玄関から誰かがこちらに向かってくる足音がする。
そしてその人物がリビングに到着して俺らも見比べるや否や開口一番――
「翔太、彼女さんできたの?」
いやいや! なんでそうなるの!?
声の主は俺の母親だった。どうやら仕事が終わったから帰ってきたらしい。
五十嵐さんに至っては赤面して俯いたままだし、ヒゲカーは二人そろって周回遅れとなっている。
さて、なんと説明するべきか。
まず彼女が付き合っている女性であることは否定しておこう。実際ただの友達だし。
あと今回の目的はゲームで遊ぶことだけではなく、一緒に勉強することだ。
その二点を簡潔に母に伝えた。
「――ってわけだから、今度からきちんと勉強もするよ」
その言葉を母は疑っていなかった。
俺は自身の普段の行いに感謝した。これがぼんくらな息子だったらオオカミ少年のように信じてもらえなかったはずだ。
その後五十嵐さんが俺の母と自己紹介し合う。
とりあえず母が帰ってきたので、五十嵐さんには申し訳ないがいつものやり取りをする。
「母さん、今日は俺が夕飯作るよ」
「あら、いいわよ。今日はお友達が来ているんだから遊んでいなさい」
俺は相槌を打つ。
しかしことはそううまく運ばなかった。
五十嵐さんが輝くような瞳をこちらに向けている。明らかに何かを期待している目だ。
「坂上くん、料理できるの!?」
俺はその迫力に若干引きつつも、料理ができることを伝えた。
――もうそれ以上何も言わなくても分かる。彼女は俺が料理しているところを見たいのだろう。
聞かなかったことにする、というのもどうかと思うし……かといって彼女からすれば自分から『やっぱり坂上くんが作ってください!』とは言えないだろう。
でもその眼差しから期待していることは十分伝わる。
だから俺が代弁することにした。
「やっぱ俺が作る。冷蔵庫の食材使っていい?」
「あら、そう。いいわよ」
その返答を聞き、俺はエプロンをつける。
そしてキッチンに入るが、五十嵐さんが興味深そうにこちらを見ているので俺は苦笑しながら『こっちに来て見てもいいよ』と伝える。
すると彼女はとてとてという擬音がつきそうな足取りでこちらにきた。
俺はとりあえず米を研ぎ電子ジャーにセットし、その後冷蔵庫の中を見る。
豚肉があったのでこれは早めに使い切りたい。ついでに野菜室も確認する。すると使いまわせるいつもの野菜が揃っていたので今日は肉じゃが、サラダ、きんぴらごぼうを作ることにした。
先に肉じゃがときんぴらごぼう、サラダ用の野菜をカットし、肉じゃが用の具材を軽く炒めて水と調味料を加えてから蓋をし、タイマーをセットする。
煮込んでいる間にきんぴらごぼうを炒めて、最後にサラダ用のレタスをちぎって完成だ。
野菜が余ったので軽くみそ汁も作っておいた。
ご飯が炊けるのはまだ先だけど。
「……えっ、料理ってこんなに早く終わるの?」
「メニュー次第だよ」
五十嵐さんは顎に人差し指を当て、何かを考えているようだった。
時折『凄い』だの『いや、でも私だって――』というつぶやき声が聞こえる。
五十嵐さんの『凄い』というつぶやきが耳に入ったが、俺からしてみれば彼女のほうが凄い人物だと思う。
彼女には学生でありながら社会人顔負けの実績もある。そんな二足の草鞋を履きながらどちらも手を抜かない。
彼女のその姿勢は尊敬に値する。友達になってまだ数週間の付き合いだが、俺はそう思うようになってきていた。
もっと砕いた言い方をすると『格好がいい、眩しい』。五十嵐さんと同じことができる人間はどれほどいるだろうか? 実際に数えることはできないが、中々いないタイプの人格な気がする。
五十嵐さんはできた人間だな。
ちなみに調理済みの料理は皿に取り分けてラップをかけて置いておいた。
五十嵐さんを食事に誘うという手もあるだろうが、来訪初日にそれはハードルが高すぎるだろう。俺にとっても、彼女にとっても。
あまり彼女に負担をかけたくない。
ところで今日は何故家に五十嵐さんを呼んだんだっけ? それは決まっている、勉強するためだ。
「五十嵐さん、緊張は解けた?」
「うん、おかげさまで!」
「それじゃ勉強しようか」
出来るだけ優しい声色でそう伝えた。
リビングで勉強するという手もあるが、今は母さんが家にいるからな。家事の邪魔をするのもどうかと思う。
でも一応選択肢は五十嵐さんに預けておこう。
「どこで勉強する? 俺はリビングでも、部屋でもどっちでもいいよ」
「――それじゃあ、坂上くんの部屋で」
よし決定。俺は先ほどまで遊び散らかしていた痕跡をどうにかし、自分の部屋へと向かった。
『青春ねー』という母の言葉がチラっと聞こえたが、耳に入らなかった振りをして移動する。
先ほどは上りきれなかった階段を一段一段踏みしめ、二階へと向かった。
そして自分の部屋の扉を開け、五十嵐さんを招き入れる。
「おじゃまします」
今の彼女の声色で、もう本当に緊張していないことが分かった。
さて、先ほどまでさんざん遊び惚けたんだ。これから真面目に勉強しよう。
俺らは荷物を降ろし、勉強道具を取り出してそれを部屋の中央に位置するラウンドテーブルの上に並べていった。
しかし勉強を開始する前に聞いておかなくてはならないことがある。
「五十嵐さん、門限って何時? 結構暗くなってきてるけど」
「門限? ないよ? ――そうだったね、そこから説明しなきゃいけないんだった。たまに夜に撮影することもあるんだよね。だからきちんとした門限って決まってないの」
夜景が必要な写真だったり、レンタルスタジオやスタッフのスケジュールの都合が中々合わない時などは帰宅が遅くなることもあるらしい。
大変な仕事だな。自由時間が少なくなるのも納得だ。
いくら門限がないといっても、夜遅くまで引き留めるのは流石にまずい。
切りのいいところまで進んだら勉強は終了してお開きにしよう。
今、まさにその切りのいい時が来た。
五十嵐さんが勉強道具を片付けて帰宅の準備を始める。
「俺、途中まで送るよ」
「いいの? ありがとう」
やるべきことが決まったところで俺らは玄関まで移動し、靴を履いて扉を開けて外に出る。
すっかりと日は落ちていた。街灯があるとはいえ、夜道が危ないことには変わりはない。
「ところで坂上くん? 君は門限は何時かね?」
五十嵐さんの家に向かう途中で彼女はからかい気味にそう言った。
――さてはまた俺をおもちゃにしようとしているな?
ただでは置かないぞ。こっちだって反撃は出来るんだ。
「あー、何時だったかなぁ? あっ、もう時間過ぎてたわ! まずいなーどうしようかなー」
「あっ、酷いんだ!? それじゃ私が悪者になっちゃうじゃない!」
「ははっ、冗談だよ」
そこに悪意はない。お互いに冗談だと分かっているから言い合えるのだ。
そんなことをしているといつも下校時にバラバラに帰宅し出すあの分岐点に着いた。
「ここまででいい?」
いつもは『ここまでだな』と言っているので、癖でそう言ってしまった。
そして彼女は『うん、またね』と、そう普段なら返してくれる。
だからいつものように返事待ちしていたのだが、一向に言葉が返ってこない。
「五十嵐さん?」
何か、例えば体調や都合が悪くなったのだろうか。
心配になって彼女の顔色をよく見ようとして視線を向ける。
目と目が合った。
事が全然進展しないので俺は観念してある提案をする。
「あー、家まで送ろうか?」
正直恥ずかしかった。
ああ、そうか。これが先ほど五十嵐さんが感じていた緊張の正体か。
おそらく俺は彼女の家の中まで入ることはないが、それでもこの緊張感。
借りてきた猫モードになった五十嵐さんの気持ちがよく分かる。
「――うん、おねがい」
了承は得たことだしいつもなら進路として選択することのない、もう一本のあの道を歩む。
五十嵐さんは先ほどから黙ったままだし、俺も声をかけるようなことはしなかった。
それでも現在進行形でコミュニケーションが取れていると感じる。
「ここまででいいよ、ありがとう」
どうやら彼女の家に到着したらしい。
それなりに歩いた。俺はあの無言の空気の中、むしろ心地よさを感じていた。
「どういたしまして。それじゃ、またね。五十嵐さん」
「うん、またね」
いつもの『うん、またね』を聞けた。
その言葉が胸にしみわたる。
俺はその温かさを胸に感じながら、自宅へと向かった。