9話
一目惚れだった。
あの日、初めて会った瞬間にシュテルンはコラレに恋をした。
最初はただ綺麗だからという理由だった。だけど、何度もお店に通い、やりとりする中で、見た目だけじゃなくて、彼女の内面も好きになった。
好きになればなるほど、感情はどんどん欲張りになっていく。
もっと相手のことを知りたい。相手に触れたい。そんな感情は、純愛も狂愛も形は同じ。違いは、きっと諦めるか諦めないかの違いだとシュテルンは思った。
「コラレ……」
シュテルンは諦めきれなかった。例え、彼女が自分を好きじゃなくても、ただそばにいたい。話し相手になるだけでもいい。どんな形でも、彼女のそばにいたい。
シュテルン自身も自覚していた。自分の恋愛が一般的なものとは異なること。でも、それはノアのものとは違う。歪んでいるが、純粋な恋心。シュテルンにとっては、美しく尊いものだった。
「会いたい……コラレに会いたい」
感情が抑えられない。どうしてもコラレに会いたかった。
高ぶる感情が、喉の近くまで言葉として出ていて苦しい。振られていたとしても、叶わないとしても、伝えるだけ伝えたい。そして、その後もそばに居たい。
「あれ、出かけるの?」
家を出ようとしたとき、母親が声をかけた。
空はどんより曇っている。久々の雨が降るかもしれない。それでも、シュテルンは今コラレに会いに行きたかった。
「雨が降るかもだし、早めに帰って来なさいよ」
「うん。わかってる」
母は何も聞かなかった。興味がないのか、それともあえて聞かないのか。シュテルンにとっては引き止められないならどっちでもよかった。
例え雨が降っても、シュテルンは今この瞬間、コラレの店へと向かっていただろう。それほど、彼女自身でさえ込み上がる感情を抑えることはできなかった。
天気が悪いのを察したのか、普段あちこちに人がいるのに、今は誰も人がいなかった。
声をかけられないから好都合だと、彼女は急いでお店へと向かう。
町の外れ、何もない崖の端にポツリと立っているコラレの店。お客さんなって一人もいない。はず、なのに。そこに人影があった。
「ジェム、さん?」
「ん?おや、シュテルンちゃんじゃないか。どうしたんだいこんなところで」
シュテルンのバイト先の常連である、ジェムがゆっくりと彼女に近づき、笑みを浮かべる。だけど、どうして彼がコラレの店の方からきたのか、彼女にはわからなかった。
「どうして、ジェムさんが……コラレの店から?」
「んー?……あぁそうか。シュテルンちゃんの事だったのかい」
「え……」
彼の口ぶりから、コラレと知り合いのようだった。
今までの会話で、彼女がシュテルン以外の名前を口にしたことはなかった。だから、この町に親しい人なんていないと思っていた。だけど、今まさにジェムさんが彼女の店の方から歩いてきた。つまり、自分以外にもお客さんがいたということだ。
「もしかして、お店に行こうとしていたのかい?」
「……そう、ですが……」
「悪いことは言わん。あの人とは関わってはいかんよ」
「どういう、ことですか?あの人って……」
「あの人と、シュテルンちゃんじゃ、住む世界が違うんじゃ。あの人は、人間とは一緒にいられないんじゃよ」
シュテルンの胸がざわめく。
明らかに、ジェムは何かを知っていた。シュテルンも知らない、コラレのことを。
「嫌だ……」
「シュテルンちゃん?」
まるで駄々をこねる子どものような感情だった。自分以外の人が、大好きな人のことを知ってることを、自分が知らないことを他の人が知ってることが嫌だった。
シュテルンはコラレの店を見つめる。どうして、私には何も教えてくれないのか。まだ出会って日が浅いから?だったら、もっと一緒にいるから。毎日でもお店に通って話をするから、だから私の知らない貴女のことを教えて欲しいと。
「シュテルンちゃん、今日はもう帰ろう。そろそろ雨も降り出してくる。ここは危ない」
「でも!」
そのまま店に行こうとした。だけど、ジェムが彼女の手首をつかんでそれを止める。
それとほぼ同時か、彼が言ったように雨が降り始めた。それでもお店に行こうとしたけど、ジェムさんが手にしていた傘を広げ、シュテルンに渡した。
「家まで送ってくれんか。傘は持って帰っていいからのう」
優しい表情を浮かべながら、彼がそう言ってきた。
不思議と、高ぶっていた感情が冷めていく。
もう一度、コラレの店を見つめた後、シュテルンは傘を受け取り、ジェムさんと一緒にコラレの店を離れて言った。
*
雨脚は激しくなり、窓に激しく雨粒が当たっていた。
風がないため、以前のような嵐にはならないようだった。
町の老人たちが雨を望んでいたから、悪い天気ではない。
ただ、帰宅したシュテルンは自室でぼんやりとジェムが口にした言葉を思い出した。
ーー あの人と、シュテルンちゃんじゃ、住む世界が違うんじゃ
彼は何を知っていているのだろう。それに、ジェムはコラレのことをあの人と口にした。いつもの彼ならコラレのことをあの子と呼んでもおかしくない。
「わからない……それが嫌だ……」
ジェムの言葉のせいで、自分が今まで話してきたコラレが本当の彼女じゃないと思えて仕方ない。そして、本当の彼女を知らないのが嫌で仕方がない。
「シュテルン、ご飯できたわよ」
その時、ノックもせずに母が部屋の扉を空けて声をかけてくる。
ノックなしの入室は今に始まった事ではないため、シュテルン自身も気にはしなかった。
「……気分じゃない」
「いや、気分でご飯抜かないでよ。体調が悪いならまだしも」
「じゃあ体調悪いからいらない」
「少しは嘘をつく努力をしなさい」
深いため息を零した母は、そのまま部屋の中に入ってきて、シュテルンが横になっているベットに腰掛けた。
「あんたさ、好きな人できたでしょ」
「……ミリヤに聞いたの?」
「いいや。親の勘ってやつよ。表情に出るっていうか……親子だなーって」
ベットの上、背中を向けたままのシュテルンの頭を、母は優しく、愛おしげな表情で撫でた。
「ねぇシュテルン。小さい頃に読んだ人魚のお話、覚えてる?」
「……うん。大好きなお話だから」
「あの人魚は、好きな人と一緒に居たいから、魔女に大事な声をあげて人間になった」
「……何が言いたいの?」
「あんたは、その好きな人のために何を差し出して、どうなりたいの?」
母の問いかけに、シュテルンが心臓がどくりと大きく動いた。
シュテルンにとっての大事なもの。絶対に失いたくないもの……
頭の中でそれが何かを考えた。考えて考えて考えた結果、出た答えはシンプルだった。
「初恋……」
ゆっくりと体を起こし、母親とまっすぐ目線を合わせた。
心にも、記憶にも、体にも激しく刻み込まれた初恋。それはシュテルンにとっては手放したくないほど大事なものだった。
「私は、自分の初恋をなくしてでも、好きな人のそばにいたい……本当の彼女を知りたい」
きっと、コラレの本当の姿は人が知ってはいけないことなんだとシュテルンは思った。ジェムの言葉から、それはたやすく想像ができる。それでも、シュテルンは知りたかった。コラレの、彼女が決して見せなかった本当の姿。
「……そう。まぁお母さんが聞きたかった答えとは違うけど、シュテルンの中ではちゃんと答えになってるならいいや」
「お母さん……」
「ご飯、冷めるからいらっしゃい」
「……うん」