(閑話8-4)
瞼を開くと、薄闇の中で補修された天幕の内張りが目に留まった。行商の旅の最中に目が覚めた時の、何時もの光景だ。
長い、そして懐かしい夢を見て居た様な気がする。
遠い記憶の我が生家。其処には朧げな姿で私を見下ろす父上と母上が居て。隣を歩く、愛する妻と息子が居て。幼い頃から共に育った、家人達が居て。
何度も見返した風景の中で過ごしたあの頃は、とても、とても幸せな日々だったように思う。・・・でも、私は。
夢を追い求めて故郷を捨てた事を、後悔してるのだろうか。それとも・・・。
身体の状態を確かめながらゆっくりと身を起こすと、傍に座る護衛達の姿が目に留まった。不鮮明な意識が、急速に覚醒し始める。あぁ、そうだ。思い出した。あの時、私達は恐ろしい獣共の襲撃を受けて、そして。
私はあのまま崖から落ちてしまったのだろうか。確かあの時は、付き人達とモシャスが傍にいた筈だが・・・。夢から醒めた私は思い切って、姿が見えない付き人達とモシャスの安否を護衛のカトゥーに尋ねてみた。
「モジャは無事だ。付き人は 二人共落ちて死んだ」
カトゥーは淡々と、そして明確に二人の死を告げた。
付き人の死を知らされた私は、暫しの自失の後、戦災孤児であった二人を雇い入れてから共に過ごした幾つもの思い出が、押し寄せる様に蘇って来た。私は心が締め付けられると同時に、目から自然と涙が溢れて来た。
「モックさんよ。くたばった連中の事はもういいだろ。そんな事より此れからどうするんだい。」
私が地に伏して悲しみに暮れて居ると、背後から気怠そうな声が掛けられた。
その言葉を耳にして一瞬、逆上し掛けた私であったが、彼女の意見は尤もだ。我々が置かれた状況を鑑みれば、何時までも泣き叫んでばかり居ては駄目だ。それに、辛い別れは今迄何度も経験して来ただろう。気を強く持て、モック・キャパ!
弱気な己を叱咤した私は、歯を食い縛りながら顔を上げて護衛の二人に向き直ると、先ずは心から礼を述べた。私が未だ命を繋いで居られるのは二人の、特にカトゥーのお陰だ。
そして半ば強引に気を取り直した私は、カトゥーに付き人の二人を埋葬した場所まで案内して貰った。そして彼等の墓前に立つと、暫しの間親愛なる故人に祈りを捧げた。
其の後、崖から落ちた私を庇って怪我をしたらしいモシャスを労った私は、護衛の二人と今後の身の振り方を話し合う事にした。そしてカトゥーに頼み込んで私が転落した崖上の様子を見に行って貰った結果、我々は隊商団の本隊と完全に逸れたという残酷な現実を突き付けられた。
私とて大山脈越えに纏わる逸話は何度も耳にしたことが有る。唯一つ生存する活路である商人の道を見失い、最早他の仲間達が何処に居るのかも分からない。しかも私達は此の先、猛獣や魔物、そして蛮族の集団から身を守るのも覚束無い僅か3名の少人数である。折角拾った命だが、今我々が置かれた状況を改めて鑑みれば、残念ながら私達が此の先生き延びる事は不可能だろう。街道を見失い、案内人も無しに大山脈の奥地で放り出されるというのは、そういう事だ。
だけど、絶体絶命な状況を前に再び失意と悲嘆に暮れる私に対して、カトゥーは。
「此処まで来て 今更引き返せないだろう。東へ進むべきだな」
私が抱く絶望が取る足りない些事であるかのように。まるで今から隣家の商店で買い物に出掛けるかの如き気安さと平坦な口調で、彼は恐るべき提案をあっさりと口にした。
しかし淡々とした物言いに反して私を真っ直ぐに見据える彼の燃えるような瞳は、生き延びる為の強靭な意志を映し出すかのように爛々と耀き。そしてその表情には、如何なる恐れや絶望の欠片も浮かんでは居なかった。私はそんな彼の力強い耀きに導かれるかのように、東に向かって突き進むという、正直無謀としか思えない提案に賛同した。
「誰が樽だオラァ!・・ああもう仕方無いね」
もう一人の護衛である樽嬢は当初強硬に引き返す事を主張していたものの、カトゥーと顔を合わせる内に何か思う所があったのか、次第に態度を軟化させていった。
そして結局多数決に従い、我々は此の絶望的な状況から未だ誰も踏み入れた事の無い経路を辿り、独力で大山脈越えを目指す事に成った。
その日の晩は、カトゥーから力を付ける為と称して謎の肉をご馳走になった。聞けば、彼が何日か前に仕留めたドラフニールの肉だと言う。その話を耳にした私は思わず苦笑いが口を付いてしまった。もしかすると付き人が亡くなって意気消沈した私を励ます意図が有るのかも知れないが、仮にも低級狩人が単身でドラフニールを斃すなど、余り出来の良い冗談とは言えないだろう。
翌日。荷物を纏め、付き人の墓標に再び祈りを捧げた私は、雪深い野営地を後にした。その日は我々が隊商団から逸れる契機となった崖に沿って雪を掻き分けながら歩き続けるも、結局崖を越えて隊商団と合流する事は叶いそうに無い事が分かった。
其処から先は我々だけの、完全に未知なる世界だ。私達は前方に連なる山領を時折眺めながら、道無き山肌を太陽の位置を頼りに東へ向かって歩き続ける。急速に身体を蝕む疲労に喘ぎながらもひたすら歩き続けると、遠方に異常に綺麗な色に輝く湖が現れた。そして歩みを進めるにつれ、視界の中で次第に大きくなる美しい目印に向かって私達が更に近付こうとすると、突然カトゥーに歩みを制止された。
我々を止めたカトゥーが指差す方向を注視すると、湖の周囲に微かに動く幾つもの影が視認できた。私の目では遠過ぎて良く見えないが、カトゥーの話では数多くの獣達が水場を求めて寄り集まっているので、迂闊に近付くのは危険なのだそうだ。幸い、我々にはカトゥーの湧水の魔法が有る為、飲料水に困ることは無い。なので、湖には此れ以上近付かずに遣り過ごす事に成った。
それにしても、カトゥーは長時間これ程険しい山岳地を歩き続けて居るにも拘らず、息一つ乱れていないように見える。しかも時折私達を休ませたまま、偵察と称して先行したりもして居る。私や樽嬢は既に疲れ切って気息奄々だと言うのに。彼は一体どれ程途轍もない体力を有して居るのだろうか。
其れからの私達は、広大な氷の平原に沿って東に向けて黙々と歩き続けた。険しい山肌を歩き続けた事に拠る疲労の蓄積も有るだろうが、休息を取っても何故か息が直ぐに上がってしまい、脚が思う様に進まない。原因に心当たりは無いかカトゥーに訊ねてみたところ、病気や呪いの類では無く、山などの高所では普通に起きる事らしい。また、再び蛮族や獣の襲撃を受けるかも知れないという不安も、疲労の一因と成って居るのかも知れない。
連日東に向けて歩を進めるうちに、私達の行く先には何時しか白い巨大な壁が見えて来た。途轍もなく巨大な壁だ。徐々に迫るその凄まじい巨壁を眺める私の顔は、日を追うごとに強張っていくのが自分でも分かった。恐ろしくてとても聞けなかったが、カトゥーはよもやあの壁を越えるつもりなのだろうか。怯える私を余所に、顔を引き攣らせた樽嬢が、カトゥーに対して連日抗議の声を上げた。だが、カトゥーは黙々と私達を先導しながら、その抗議を一蹴した。そして何時しか樽嬢も、私と一緒で何も言わなくなった。
その時、私は遅まきながら漸く感付いた。もしや今迄私達が直面してきた蛮族や猛獣の襲撃などは、此れから待ち受ける凄まじい困難や恐怖に比べれば、軽い小手調べ程度に過ぎない些事ではないのかと。
そして遂に、私達は一帯を取り囲む様に聳える途方も無い岩壁の麓に辿り着いた。
呆然と岩壁を見上げる私と樽嬢を余所に、カトゥーは壁を登る前に此の場で数日間野営をする旨を宣言すると、手際良く天幕を設営し、入念に荷物の点検を始めた。至近で巨壁を改めて眺めると到底正気の沙汰とは思えないが、彼はやる気だ。
その後のカトゥーの説明に拠れば、いきなり壁に突っ込むのは流石に無謀過ぎるとの言なので、私達は数日の間、野営地で巨壁を攀じ登る訓練を行う事に成った。私としては、僅かばかり訓練した所で一体何が変わるのだろう。無茶無謀である事に変わり無いじゃないかと声を大にして叫びたかったのだが。
そして3日後の未明。短期間だが濃密な訓練を乗り越えた私達は、いよいよ目前の山越えを敢行する運びとなった。カトゥーと協議して登る経路を入念に検討した結果、正面に聳える白い壁や南側の巨壁を越えるのは不可能と結論付けられたので、北側の僅かばかり傾斜が緩く見える山を越える事に成った。
未だ周囲は闇に包まれて居いる時分に、私達は最後の準備を済ませた。幸い天候は良好で、頭上には無数の星が瞬いて居る。そして、いよいよ野営地を出立しようとした、その時。
ゴオォォーーーー
星明りの中。物凄い音と振動と共に、我々の行く手に巨大な白煙が立ち昇った。
訓練中に何度か見た、カトゥーの話では雪崩と呼ばれる恐ろしい災厄だ。しかも今目の前で起きた雪崩の規模は、今迄見た代物とは比べ物に成らない。もしあの只中に私が居たら・・。恐怖で身体が竦み、顔が益々強張るのが分かった。
「行くぞ」
あの恐ろしい光景を目の当たりにしても、カトゥーには引き返す選択は持ち合わせていない様子だ。彼の宣言に従って、私達は今度こそ野営地を後にした。
山の直下迄辿り着いた私達は、目の眩むような高さの岩壁を見上げた。人の身体は垂直な壁を登るようになど出来ていない・・とは最早言うまい。この数日の訓練で、嫌と言う程強要されたから。私は先行して瞬く間に岩壁を登り切ってしまったカトゥーが上方から垂らした縄で身体を固定すると、訓練に倣って壁に取り付いた。
落下の恐怖に怯えながらもどうにか岩壁を登り切ったのも束の間。私に弛緩する余裕は一時も与えられ無かった。次に私達を待ち受けて居たのは、何処までも続く垂直な雪の壁である。私は装備の具合を点検した後、カトゥーとお互いの身体を縄で固定した。我ながら浅ましいもので、こうして腕利きのカトゥーに拠り掛かるだけで随分と恐怖心が薄れ、心に幾らか余裕が出て来た。
「行くぞ。打ち合わせ通り 俺とおっちゃんが先行するから、樽は後に付いて来い。もし落石や雪崩が見えたら 直ぐに大声で知らせてくれ」
「分かりました」
小休止を兼ねた下準備の後。私はカトゥーから借り受けた、尖った鉄槌と足に装着する爪のような器具を雪面に突き刺しながら、頭上に拡がる雪の壁を登り始めた。
永遠に続くかと思われた雪の壁を、疲労と息苦しさに激しく喘ぎながら漸く登り切った私の前に現れたのは、途方も無い規模で聳え立つ氷の壁だ。目の前の壁を攻略する為の簡単な打ち合わせの後。カトゥーは身体を繋いだ縄を外して私達を氷壁の下から避難させると、人間とは思えない動きで壁をいとも容易く登り始めた。
あっという間に氷壁の上まで辿り着いたカトゥーは、先程登った岩壁と同様に上から縄を渡してくれた。私は身体を頼みの縄で固く縛り付けると、無謀としか思えない巨大な氷の壁へ挑み始めた。勿論、私の長い人生でも初めての経験だ。
カトゥーの力強い支えに大いに助けられたお陰もあり、私自身は大きな問題が生じる事も無く、氷壁を無事登り切ることが出来た。しかし大変だったのは樽嬢とモシャスである。樽嬢は氷壁に手も足も出ず、結局カトゥーに縄で引っ張り上げて貰っていた。そんな姿を目の当たりにして、僅かばかりの達成感と優越感に浸ってしまう浅ましい私であった。そして行き場を失ったモシャスは私達三人掛かりで、辛うじて氷壁の上まで引っ張り上げる事に成功した。
途轍もない試練を乗り越えた私達は雄叫びを上げ、互いの拳を合わせて称え合った。また、余程怖かったのだろう。私はしきりに身体を擦り付けて甘えるモ・ジャの頭を撫でてやる。
・・・『モ・ジャ』か。何時の間にやらカトゥーが名付けて居たが、確か遥か東方のソリズ・オルトスの民の言葉で、我慢強い者とか耐える者だとかいう意味だったと記憶している。
我々行商人は、通常モシャスに名付けはしない。精々符号で呼ぶ程度だ。何故なら
大山脈を越えた後には必ず別れが待って居るので、過度に情を移さない為である。でも、まあ良いか。私達が無事に大山脈を越えられる見込みなど殆ど無いだろうし。カトゥーに倣って、此れからはキミの事はモ・ジャと呼ぼう。




