第175話
大山脈越えを目指す俺達の旅路。その野営地での、ささやかな出来事。多少のトラブルは有ったものの、俺は行商人のおっちゃんにより供された素晴らしい夕餉を、俺評価で七割がた堪能する事が出来た。その後、隊商の付き人達と共に夕餉の後片付けを終えた俺は、夜の見張りに就く他の護衛達を尻目に早々に天幕に潜り込んで就寝・・する事は無く、今宵も夜陰に紛れてコソコソと魔法や肉体の鍛錬に精を出した。そして空一面に絢爛と星が煌めく夜半。何時もの日課で体内に回復魔法をぶっ放して肉体をリフレッシュした俺は、心地良い充足感と共に眠りに就いた。
翌朝。目が覚めると、何時にも増して早朝の凍て付いた寒気が肌に突き刺さる。口から吐き出される呼気が白く染まる。凍える身体に鞭打って居候させて貰っているおっちゃんの天幕から外に顔を出してみると、目の前の景色は昨日までとは一変していた。あたり一面白銀世界、とは言わぬまでも周囲には相当に雪が降り積もっており、暗灰色に濁る空からは更に雪が降り続いていたのだ。
此の異界の、更には俺達が旅を続ける此の地域は聞いた限りでは未だ夏のハズである。もしや季節外れの降雪であろうか、或いは此の標高では当たり前の光景なのか。真相は定かでは無い。だが此れだけ寒けりゃそりゃ雪も降らあな。とは言え、其れ自体は必要以上に怖気付く事態では無い。俺は迷宮都市ベニスを出立する前に、大山脈越えに備えて防寒具は充分に揃えてあるのだ。そして更に。
天幕の外に出た俺は独り不敵に嗤うと、精神を集中する。そして此処数日の間、特に重点的に修練を積み重ねたとある魔法を発動させた。すると、掌握した日属性の魔力に拠って身体の芯からジワジワと溢れ出した熱が、身体の隅々まで染み渡ってゆく。
此れこそが、尻洗魔法アスクリンに続く俺の第三のオリジナル魔法。名付けて加藤流懐炉の術だっ。俺が寒さに対する異常な迄の耐性を身に付けつつあるのは、実は此の魔法のお陰である。
此の魔法、主とした効能は御覧の通り身体を内部から温める事である。そして日属性魔法の一つである耐火の魔法の応用なのだ。大山脈に入ってから標高が高くなるにつれて急速に厳しくなる寒さに辟易した俺が、熱さに耐える魔法が在るならひょっとして其の逆もイケるんじゃなかろうか・・などと閃いて人目を盗んで試してみたのが此の新たな魔法への取っ掛かりとなった。しかも幾度も実践してみて気付いたが、耐火の魔法で対象から熱エネルギーを奪うよりも、懐炉の術で魔力を熱エネルギーに転化する方が魔力操作は幾分容易なのだ。なので本格的な鍛錬を初めてから左程時を経て居ないにも拘らず、此の魔法は早くも実用に足る水準に成りつつある。
とまあそんな訳で、此の魔法を習得するのは左程困難では無い、と思われる。なのでオリジナルと称して勝手に懐炉の術などと命名してみたものの、恐らく婆センパイなら余裕で同じ魔法が使えるだろうし、何なら日属性魔法の練達者であれば、他に使える者が居ても何ら可笑しくは無いだろう。但し此の魔法、下手を打って調整を失敗すると低温火傷を負う危険はあるが。
因みに俺が以前、婆センパイからの発情したチンパンジー並に情熱的で刺激的なシゴキによって身体に叩き込まれた耐火の魔法は、体内から仕掛けるタイプと体外で仕掛けるタイプの二種類が存在する。そして見ての通り、懐炉の術は体内から仕掛ける耐火の魔法の応用である。体内耐火魔法は体外のソレと比べると燃費がすこぶる良い上に、耐熱効果も非常に高い。そして加熱と冷却の違いは有れど、其の利点は懐炉の術も同様である。実に使い勝手が良い魔法なのだ。
にも拘らず以前婆センパイから訊いた所に拠れば、実は此の世界の昨今の魔術師による一般的な耐火の魔法と言えば体外の耐火魔法であり、体内耐火は既に殆ど廃れてしまった魔法なのだそうだ。其れは何故か。
確かに体内耐火魔法は体外のソレと比べて同じ練度でより高熱に耐えられるし、魔力効率も非常に良い。だが、同時に其の素晴らしい長所を軽くぶっちぎる重大な欠点が在るのだ。
体内耐火は高熱に対して肉体を強固に守ってくれる。ところがだ。身に纏う衣類や装飾品、担いだ背嚢等の荷はそんな事はお構い無しに高熱に晒され、普通に燃えてしまうのだ。考えてみりゃ当たり前だが。更に言ってしまうと、衣服はおろか全身の毛も燃える。あと己の肉体による人体実験の結果とセンパイに聞いた所に拠れば、薄皮一枚程度ではあるが少なからぬ頻度で皮膚も燃える。すると其の結果何が起きるか。
例えば熟達の魔術師が何者かによって炎の飛沫の魔法を全身に浴びせられたとしよう。当然魔術師は耐火の魔法で以って余裕で凌ぎ切るであろう。だがその後、其処に在るのは衣服は燃え落ち、頭髪は焼けて禿げ散らかし、更には全身黒焦げな見た目はほぼ焼死体同然の悲惨な姿である。そんなロースターの網から転落した豚バラみたいな見た目で フッ、俺には貴様の炎など効かぬ とかドヤった所で甚だ格好が付かないであろう。まあ幾ら不測の事態と言えど、全身隈なく焼ける事態など滅多な事では起こり得ないのかも知れんが。だが例え局所と言えど、表皮が燃えればⅠ度相当の熱傷を負うことに成る。その結果、致命傷とは成り得なくとも患部はかなり痛いと思われる。俺には回復魔法が有るから其処の所は全然気にならんが、此れでは使えねぇ欠陥魔法と見做されても致し方無し、だ。
逆に体外耐火の方はと言えば、確かに燃費が悪い上、技術的な難易度も高い。だが効果を発揮すれば大切な頭髪は無論の事、衣服も当然燃えない。しかも熟達すれば、己のみならず周囲の人間を高熱から守る事すら可能と聞く。素晴らしい効果が期待出来るのみならず、大変研鑽し甲斐のある魔法でもあるのだ。それに燃費や難易度を度外視すれば、恐らく体外耐火の応用でも懐炉の術と似たような事は出来るだろうしな。時と共に体外耐火が主流となり、体内耐火の魔法が廃れてしまったのは無理からぬ事だと言えよう。尤も、俺は何より大切な自分の命を強固に守れる体内耐火の魔法が滅茶苦茶気に入っている。俺なら頭部の毛根が死滅しても回復魔法で恐らく何とか成るし、他の毛は滅びても寧ろ無料で脱毛出来たと考えれば何ら問題は無い。まあ俺は元々体毛が薄いのであまり意味は無いのかも知れんが。
てな訳で。俺が身に付けつつある加藤流懐炉の術。確かに魔法其れ自体の難易度は左程高くは無い。だが其の土台である体内耐火の魔法が廃れてしまった今、他に使える魔術師は俺が思っているよりも少ないのかも知れんな。
魔法のお陰で殆ど寒さを感じない俺とは違い、次々と起床、或いは叩き起こされた隊商の他の連中は、雪が舞い散る外の景色を眺めると顔を歪め、億劫そうに出立の準備を始めた。慣れぬ寒さや苛酷な環境、そして襲撃の後の連日の緊張も相まって皆疲労が蓄積しているのであろう。更には高山病により、身体に変調を来している者も少なからず居るようだ。
樽女はどれ程身体を揺すってもブッ叩いても、俺達が飯を拵えるまで決して起床する事は無い。一時は岩を叩き付けて天幕ごと磨り潰してやろうと思ったが、おっちゃんのタックルで止められた。結局余りに面倒過ぎるので、今では奴を叩き起こす役目は隊商の付き人に一任している。どうやら彼等は就寝中の樽女の顔面にモジャのゲップを浴びせる事で、強制的に起動させる荒業を編み出した模様だ。人畜無害そうなツラして恐ろしい事を考え付くな。そしてその際、樽が発する豚の如き野太い悲鳴は実に耳に心地良い。
昨日溜めて置いた水桶の水がカチコチに凍る程の寒空の中。マインドがハイになる香草入りのお湯と干し芋っぽいパサパサの物体から成る粗末な朝餉のみで栄養補給を済ませた俺達は、早々に出立の準備を済ませて野営地を後にした。
山道と言うには余りに貧相な岩と雪が剥き出す大地を踏み締め、隊商の列は寡黙に歩き続ける。だが暫く歩き続けるうちに次第に風が強くなり、天候が目に見えて悪化してきた。轟音と共に叩き付ける風雪に拠り体感温度は急激に下がり、前後を歩く旅人達の足取りは見るからに重い。故郷ならば風雪を凌げる場所でビバーグするか、或いは下山を検討しても可笑しくない状況だろうが、此の世界の連中はこの程度で立ち止まる選択肢は無い模様だ。
そして俺はと言えば周囲に合わせて疲労困憊の体を装って居るが、練習がてら懐炉の術でガンギマリしている事も有り無駄に元気溌溂である。だが流石に此処までノイズが多いと、磨き上げた索敵能力が殆ど役に立たない。蛮族や魔物に拠る襲撃は無論の事、此の視界の悪さでは道迷いのリスクも看過出来ないだろう。状況はあまり芳しくは無い。
見上げれば眼前まで迫って見えた途方も無い糞デカ岩塊・・と言うか氷塊も今は分厚いガスに阻まれて何も見えない。だが東西に連なる無数の山群から伸びる巨大な渓谷は、覗き込むと目視で推定数百メートルは有りそうな異常な深さを顕し、その両側はほぼ垂直な断崖である。所謂ゴルジュと呼ばれる両側が切り立った険しい谷だ。但し地球のゴルジュと違い、其の谷底は時に異常な広さを見せ、此の世界特有の超危険地帯である魔素溜まりの樹林帯が姿を見せることも有る。一体どのような浸食や地殻変動で此の様な地形が形成されたのやら。更には単なる谷だけでなく、まるで巨大な何らかの力で引き裂かれたかの如き大地の亀裂も見受けられた。其れは地球ではついぞ見たことの無い代物だ。いや、単に俺が知らないだけかもしれんが。
周囲には何時しか平坦な地形は殆ど見られなくなり、何処を見渡しても崖と壁しか無い。俺達隊商の一行は一列縦隊となり、風雪が荒れ狂う中を壁にへばり付くように身を寄せ、死の恐怖に神経を擦り減らしながら黙々と歩き続ける。岩壁に辛うじて刻まれた道なき道は幅数十センチ程しか無く、柵だのロープだの鎖だの安全に配慮した設備など在るハズも無い。迂闊に道を踏み外せば、あっという間に断崖から薄暗い谷底へと推定数百メートル滑落する事になる。もしそうなれば確実に命は無い。其れは無論、俺とて例外では無い。少々身体を鍛えた程度でどうこう出来るような高低差では無いのだ。
大山脈越えに至る道のりは、まだまだ遠い。




