第159話
俺は今、迷宮都市ベニスから俺の足で徒歩一日程の距離にある巨大な茸岩(俺命名)が林立する一風変わった場所を訪れている。
通常ならば迷宮都市ベニスからこの場所まで辿り着く為には俺の足でも徒歩丸一日は掛かるのだが、今回は高強度のインターバルランニングにより半日と掛からず到着した。その後、カロリー補給と適度な休息を挟んだ俺は、周辺を見渡しても一際巨大な岩塊の基部に取り付き、目視にて高低差軽く1000mはあろうかと思われる岩壁を頂上まで一気に攀じ登った。
少なからず常軌を逸した肉体の酷使っぷりであるが、此れも鍛錬の一環である。イカれた脳筋野郎と笑わば笑え。限りある時間を魔法の鍛錬に大きく割かれることに成ってしまった現状、捻出した時間はより効率良く肉体の鍛錬に当てねばならぬ。とは言えフィジカル面の強化には、キツくて地味で退屈で時間を食うドリル練習が不可欠である。
幸いにも体感ではあるが、俺の肉体の成長曲線は未だ横ばいには成って居ない。地球においてはフィジカルこそ持って生まれた才能の最たるものであった。だがこの異界においては、俺のような持たざるパンピーでもその才能のブ厚い壁をぶっちぎるか細い道が拓けている。尤も、その道を突き抜ける為には、己をガロン単位の血反吐や無数の魔物共の血肉と共にゴリゴリミキサーされた挙句、豚の肛門からヒリ出されるが如き苦悶の日々を乗り越えねばならない。当然、その過程で大半の人間があの世行きである。俺とて山奥の元開拓村に住む少女ビタと出会って回復魔法を身に付けて居なければ、一体何度涅槃で落伍者達の仲間入りを果たしていたか分かったモンじゃない。
俺が毎日心が捻じ切れそうな負荷に耐え抜き、故郷では一度も流した事の無い赤い小便を毎日垂れ流しながら辛く苦しい鍛錬を継続出来るのは、流した汗と涙と鼻水の成果が泡沫の如く消えゆくこと無く、着実に筋繊維の糧と成る事が実感出来るからだ。それは凡夫たる俺が地球ではどれ程渇望しても決して手に入れられなかった、果て無き成長に対する歓びである。果たして俺は、此の異界で何処迄高みへと至ることが出来るのだろうか。
ルートは既に開拓済みなので、落石にさえ気を配れば迷いも苦戦も無し。手古摺る事無く巨大茸岩の頂上に辿り着いた俺は、早速記憶にある目的の場所へと足を向けた。其れは俺が岩を削り出して建立したスラム街の住人であり俺の命の恩人でもあった、ルエン少年の墓標である。
墓標の前に辿り着いた俺は周囲に生えた雑草を毟り取り、更に墓石を尻洗魔法アスクリンで(よもやルエンなら怒るまい)洗浄して体裁を整えた。そして冷めても美味しいパオシュと自慢の燻製肉を墓前に供えると、手を合わせて祈りを捧げた。
瞑目しつつ、俺は心中ルエンに己の旅立ちと別れを告げる。
ルエンよ。俺は行くよ。此処からずっとずっと東にある、かの大山脈を越えた更に先にあるという未だ一度も言ったことの無い国を目指す。済まないな。遠くまで旅をして、知らない場所を沢山見たいというお前の夢。代わりに俺なんかがが叶える事になっちまいそうだ。だが、まあ此処の眺めも悪くは無いだろう。
背後に目を向けると、遥か遠方にはこの世の物とは思えぬ程巨大な茸山が変わらず聳え立っている。其の偉容は山と言うよりは巨大な積乱雲といった風体である。見れば見る程に何とも雄大な眺めだ。
それに街の近くに造られたルエンのもう一つの墓標には、あの三人が度々訪れているようだ。ならば寂しく成る事も無いだろう。もし俺が生きて再び此処へ戻る事が出来たならば、土産話を沢山聞かせてやるさ。
ルエンを救えなかった事について俺は後悔はしていない。救う事が叶わなかったとはいえ、あの時俺に出来ることは全力でやったし、死に際に顔を合わせ、言葉を交わすことが出来ただけでも途轍もない僥倖であったと理解しているからだ。それにハグレの奴には落とし前をキッチリくれてやったしな。幾ら躍起になって伸ばそうが、神ならぬ唯人の手が届く範囲はたかが知れている。俺のようなアホ面が出来もしない事で何時までもウジウジメソメソ悔恨の念に浸り続けて居ても、アイツにとっても唯々ウザいだけであろう。
だがそんな俺だけど、後悔の代わりに一つ誓いを立てよう。誓約する相手は最早この世には居らず、それは只の自己満足に過ぎないのかも知れない。だが、それでも。
生きることを諦めたあの時、心優しい一人の少年に命を掬われたことを、俺は絶対に忘れない。俺の人生でこの先何処で何があったとしても。命果てるその時まで、お前の事を決して忘れる事は無いだろう。例えアイツ等ですら、何時か大人になってお前の事ををあまり思い出さなくなったとしても。
俺は忘れない。この世界で俺だけは、決してお前の事を忘れない。
でも俺は立ち止まらない。今は只、前に進み続ける。立ち止まって過去の思い出に浸るのは、何時か前に進めなくなってからで良いのだから。
だからもう行くよ。
そして俺は物言わぬ墓標に背を向け、今は亡き小さな恩人に再び別れを告げた。
____此処は迷宮都市ベニスの中でも饐えた臭いの充満するスラム街の一角。
物陰から目当てのあばら家に出入りする餓鬼共を監視していた俺は、頃合いを見計らって入り口の前に立つと、屋内に向かって大音声で呼び掛けた。以前の過ちを踏まえ、迂闊に内部へ踏み込んだりはしない。
「ガキ共おるか~!!俺だ。加藤だ!」
入口の前に仁王立ちしながら待機していると、入り口に掛かった簾のような仕切りが持ちあがり、隙間から見覚えのある顔がひょっこりと姿を現した。
「あっ本当にカトゥーだ!」
顔を出したのはスラム街に住む浮浪児の少女ルミーである。尤も、暫くの間あばら家を監視していたので中に居るのは知っていたが。
俺の姿を視認したルミーは良い笑顔になると、俺に向かってダッシュ飛び付いて来た。俺は慌てず騒がずルミーの頭を鷲掴みにして接近を阻止する。此奴の体臭は俺の鼻の細胞に少なからずダメージを与えるので、あまり接近させたくは無い。それにしても初めて出会った時には俺の財布をギろうとした此奴を結構な勢いでぶん殴ったハズなのだが、思いの外懐かれたモンだな。此奴の乏しい記憶力と物怖じしない性格のお陰なのだろうが。
「む~。」
拙い胴タックルを阻止されたのが不満なのか、ルミーはふくれっ面でジタバタと藻掻くが、その程度では鍛え抜かれた俺の前腕筋群はビクともしない。意に介すことなく訊ねてみた。
「ルミー。ザガルは中に居るか?」
すると物音か或いは先程の俺の大音声を聞き咎めたのか、ルミーと同じくスラム街に住む浮浪児の少年ザガルカンドスも、ルミーが応える前にあばら家の入口から外に出て来た。
「カトゥー。急にどうしたの?」
ザガルは俺を見上げると、不思議そうに首をコテンと傾けて訊ねて来た。
う~む名前のインパクトとボサボサの髪と汚い身なりのせいで今迄あまり気に成らなかったが、此奴よくよく観察すると妙に目鼻立ちが整ってるな。所謂美少年て奴だ。尤も、現状パッと見た感じは唯の汚い餓鬼である。身体を綺麗に洗浄して、髪型を整えて、更に健康的な肌艶を手に入れて漸く美少年を名乗る事が許される感じだな。まあ野郎の美醜なんて果てしなくどうでも良いが。
「暫くぶりだな。今日はお前達に 伝える事があってな。」
「また仕事をくれるのかい?」
「いや、ちょっとな。此処では 人目が有る。俺に付いて来い。」
それに此のあばら家で暮らすもう一人の浮浪児スエンの奴が帰ってきたら色々と面倒だからな。俺は二人に後を付いてくるよう促すと、浮浪児達と初めて出会った人気の無い小さな空き地へと足を進めた。
空き地に二人を連れてきた俺は、特に勿体ぶる事無く淡々と此の迷宮都市を去る事を告げた。話を終えてルミーの顔を一瞥すると、早くも目に涙を溜めて、今に泣きそうな程ウルウルしている。相変わらず涙脆いなこのガキは。まあ、仕方ねえな。
俺は中腰になって二人に目線を合わせると、早速ルミーが飛び付いて来た。反射的にアイアンクローで迎撃しようとする手をググッと堪え、小さな身体を優しく抱き止めた。加えて大胸筋と僧帽筋、そして三角筋も心持ち緩めてやる。相変わらず臭っせえが、文句の類は封印し、エグエグと嗚咽する背中を叩いてやる。今回ばかりは大サービスだ。
そして顔を上げると、見るからにソワソワしているザガルが視界に入った。俺は即座にザガルに向かって手招きしてやる。今更何遠慮してやがる。お前もバッチ来いや。すると僅かな逡巡の後、ザガルも俺の胸に飛び込んで来た。そして俺は二人纏めてグイと抱き締めてやる。ルミー程じゃ無いが、ザガルの身体も結構臭っせえな。だがかく言う俺も連日の鍛錬でタップリ汗を流して居るにも拘らず、洗浄は水魔法と井戸で水浴びくらいしかしていない為、故郷の基準ならば相当に臭うと思われる。そんな訳で、此れで俺達は晴れて臭い仲と言う訳だ。諸事情でスエンはハブってしまったが、彼奴はあまり臭そうじゃないので除外しても問題無かろう。
そんな臭い二人を胸に抱いた俺は、胸に湧き上がるほっこりした気分に浸っていた。おおう、此れが世に言う父性という奴なのだろうか。尤も、もし此奴等が俺に向かってお父ちゃんなどとホザいたら速攻でぶん殴るけどな。俺はまだまだそんな歳じゃねえ。
それにしてもこの二人、スラム特有のすれっからしだと思って居たのだが、今は随分と甘えん坊にも見えるな。まだまだママンのおっぱいが恋しい年頃なのだろうか。今の俺はそこらの女より余程立派なおっぱいを所持しているが、その中身は脂肪ならぬ高純度な筋繊維であり、桃色の乳首は空虚な飾りに過ぎない。いや、滅茶苦茶頑張れば或いは老廃物くらいは射出出来るかも知れんが、そんな代物を飲ませたらちょっと良い別れどころか怨嗟に満ちた地獄の決別になりかねん。
そんな益体も無い事を考えながら暫くの間ルミー達を抱き締めていた俺だったが、二人が何時まで経っても張り付いたまま離れようとしないので、窓に張り付いたヤモリを引っぺがすように二人を引き剥がした。ええいサービスの時間は終わりだ。何時までも甘えてんじゃあねえぞ。
「スエンの奴は 相変わらずか。」
俺は名残惜しそうな二人に訊ねてみた。たまに様子を見に行っているので、彼奴が一応元気な事は知っている。
「・・うん。カトゥーの事絶対許さないって。何時か、敵討ちするんだって。」
ルミーが躊躇いがちに質問に答えた。ふむふむ、どうやら思惑通り誘導されたようだな。思わず顔がニヤける。
「ならアイツに 俺から言伝だ。やれるもんならやってみろ、てな。」
「・・うん。」
「えぇ・・。」
俺の言伝を聞いたザガルは何やら察した表情で頷いたが、ルミーは滅茶苦茶気まずい表情をしている。アレ?何だか思ったのと反応が違うぞ。
「あ~ええと。其れを聞けばアイツも ルエンの事で悲しんだり 落ち込むどころじゃ無くなって、少しは気が紛れるだろう。」
「え?あ・・え~と、ああっそうだねっ!」
説明を聞いて俺の意図を漸く理解したのか、ルミーは満面の笑顔を浮かべた。
う~む相変わらず此奴はアホで察しが悪いな。いや、寧ろ幼い餓鬼にそんな理解力を求める俺の方がアホなのか。
「忘れずにちゃんと伝えるんだぞ。あと此奴は お前達への餞別だ。やるよ。餞別って意味分るか?」
俺は腰に括り付けたボロボロの汚い革袋を取り外し、二人に差し出した。
「これって・・。」
袋を受け取ったザガルは、其の口を開けて中を覗いて驚いた表情を浮かべた。
袋の中身は大量の硬貨である。食い物?HAHAHAいやいやまさかね。そんなモンより現な金でしょ。餓鬼が貰って一番嬉しいのは。それに何だかんだで定職に就いている此の都市に住む他の知人と違って、浮浪児である此奴等だけはガチで金に困っているだろうからな。そんな一方的な独断と先入観に拠り、餓鬼どもへの餞別は手製の燻製肉などでは無く、光り輝く現金へと相成ったのだ。
だが幾ら浅からぬ知り合いに成った餓鬼とはいえ、俺は命がけで稼いだ金をホイホイとお気軽にバラ蒔くような愚・・いや偽善・・もとい素晴らしいお人好しでは無い。無論、気持ちが入っていない訳では無いが、実は此の餞別に密かに込められた意図は其れだけでは無いのだ。此の餓鬼どもは相当に強かだし、特にスエンは頭が抜群に良いし、かなり将来に見込みがあるからな。今の内に出来る限り恩を売っておくに越した事は無い。この金は此奴等の将来性を見越した投資でもあるのだ。もし俺が何時か再び此の町を訪れて何か困り事が有れば、その時はよしなにって奴だ。
因みに袋の中身は大量の銀貨と銅貨であるのだが、金貨に換算すると三枚程度で今の俺にとっちゃ大した金額では無い。だが金貨三枚ぽっちをホイと手渡すよりも、この重量感タップリな革袋をガツンと手渡す方が見た目重量共に遥かにインパクトがあり、二人の記憶に鮮烈に残るであろう事は言うまでも無い。此れも俺渾身の演出の一環である。また、浮浪児が金貨など渡されても使い所が無くて却って困るって理由もある。更に加えて、既に俺の全身には金貨が仕込んであるし、そもそも硬貨なんぞはそんなに大量に所持して居ても旅で気軽に持ち運べる代物では無い。纏まった枚数になるとかなり嵩張るし、特に金貨は意外と重量が有るからな。なので手に余る硬貨など後生大事に持ち運ぶよりも、ポンと投資した方が寧ろ有意義なのである。
そして敢えて貨幣をボロボロの糞汚い革袋に入れて手渡したのは、スラムの周囲の視線を考慮した為だ。一応周囲に人気が無いのは確認したが、金を貰った事を他の浮浪者共に知られたせいで、翌日餓鬼共が全員死体となって山に埋められたなんて顛末となるとあまりに寝覚めが悪過ぎる。
「ザガル。二人の事、頼んだぞ。」
俺は袋の中を見詰めながら動きを止めたザガルに顔を近付けると、ルミーに聞こえない様そっと囁いた。三人の中で頭が抜群に良いのはスエンだが、最も精神的に安定して成熟しているのはザガルであると見込んだからだ。
さて、用は済んだ。
俺は二人からそっと距離を取った。
「カトゥー!また、また会えるよ・・ね。」
すると別れの気配を察したのか、再びルミーが声を掛けて来た。折角元に戻った目が、またウルウルしまくっている。
「運命の神が 俺達を導いたなら、な。」
「じゃあな。」
二人に背を向けた俺は、一度手を上げて最後の別れの挨拶を済ませると、そのまま振り返る事無くスラム街を後にした。
翌日。
昨晩宿にて以前購入した粗末な地図と旅の荷物のチェックを入念に行った俺は、宿のおばちゃんに別れを告げて、すっかり馴染みとなった部屋を引き払った。そんな俺の背に伸し掛かるのは、まるで故郷の歩荷が背負うかの如き巨大な旅の荷物である。愛用の背負い籠を念入りに補強し、更に数多くの荷物を括り付けてある。其の総重量は相当な代物なのだが、頑丈な鎧のお陰で紐が肩に食い込まないのが幸いか。
此れでも頑張って切り詰めたのだが、長旅ともなればアレコレと準備しているうちに如何しても荷物が嵩んでしまう。特に糞重いのは悲しいかな新たな相棒と丸太剣βなのだが、流石にアレだけ頑張って親方に鍛えて貰ったのに早々に廃棄する訳にはいかぬ。只、身に付けた水魔法のお陰で飲料水を切り詰めることが出来たのは大助かりである。とは言うものの、ある日突然水魔法が使用不能になる可能性を考慮して、最低限の飲料水を入れた皮の水袋は携行することにした。俺は未だ魔法などという謎パワーの事を完全に信用し切っては居ないからだ。今迄アホ程回復魔法を使い倒して来て今更ではあるのだが。
巨大な荷物を担いで宿を出た俺がふと都市の西側に広がる斜面を見上げると、遠方に聳える貴族街の建築物の数々と、一際巨大な王城と思しき建物を望むことが出来た。
俺は偶然迷宮で出会った一人の女の面影と、真っ直ぐに俺を見詰めていた夜空の星々の如き瞳の耀きを思い出し、そっと自分の頬を撫でた。王族である彼女と再び会う事など到底叶わなかったが、迷宮で散々強烈なパンチを俺にぶちかました彼女の事だ。今も疑う余地無く元気にしている事だろう。
俺は遠方に霞んで見える巨大な建物に向けて、心の中で別れを告げた。
迷宮都市の東門で手続きを済ませた俺は、ゲートの外で入念なストレッチを行った。そして、
目指すは遥か東方の地。
無論、俺は今迄一度も足を踏み入れた事など無い。いや、其れどころか地球人でその場所訪れるのは、恐らく俺が唯一無二であろう。知見無き未知なる風景を想像すると、自然と胸が高鳴って来る。
膨らむ期待を胸に、俺は街道を東に向けて走り始めた。




