第155話
その切っ掛けは何気ない会話であった。
俺はすっかり馴染んだ婆センパイの研究室の床に座り込み、両手で挟み込むように逆さになったバケツ程の大きさの金属製の容器を支える。そして、その状態で集中力を維持し続ける。容器の中には魔力で掌握した水が湛えられており、その水は溶け込んだ魔力に更に収奪の魔法を付与し、加えて日属性の魔法で水温を低下させる事により高められた界面張力によって流れ落ちる事無く支えられている。昔、故郷でアメンボを水に浮かせたり沈めたりして遊んだ悪魔のような化学実験がこんな所で役に立つとはな。
此奴は水属性の掌握と操作の鍛錬と併せて、何と日属性との同時使用の鍛錬まで出来ちゃう婆センパイと共同で考案した一石二鳥な魔法の訓練方法だ。だが脳が茹で上がりそうな程の集中力を要求される為、未だ短時間しかこの状態を維持出来ない。アスクリンの温水効果を実現する為には、集めた冷水を瞬時に適温迄加熱する必要があるのだが、今の俺の伎倆ではそんな高度な日属性の操作など望むべくも無い。なので、今は地道に鍛錬を積み重ねて魔法の練度を高めるしか無いのだ。
「そしてわざと遅れて現れたあたしゃの艶姿に、舞踏会の会場に居合わせた見目麗しい貴公子達の視線は一斉に釘付けになったのじゃ。あの時の主賓の小娘の嫉妬と屈辱に歪み切ったツラといったら全く以って傑作で・・・。」
俺は困難極まる魔力の操作と掌握の維持に精神を擦り減らしながら、地獄の讃美歌の如きババアの自慢話を延々と聞かされる責め苦にひたすら耐え続けていた。
「広大なエリスタルの中にあって華と芸術の聖地とまで謳われたリュネサスの街においても、あたしゃの美貌と絢爛さは一際目を惹いておっての。その噂は瞬く間に・・・。」
糞みてえな自慢話に興が乗りまくったのか、婆センパイは薄気味悪いニヤケ面を顔面に張り付けながら、覗き込むように俺の顔面パーソナルスペースに肉薄してきた。
其の空間はババアと野郎は断固侵入禁止だ。最大級のアラートが脳内でけたたましく鳴り響き、辛うじて死守していた集中力が怒涛の勢いで崩壊を始める。そして其れを引き金に、ノイズとして聞き流していた自慢話が自然と耳と頭に入って来た。その時、俺はその中の一つの単語を聞き咎めた。
ん?エリスタルだと。
エリスタルと言えば、もしやあの国の事か。
エリスタル王国は、此処からずっと東にあるらしい大山脈を越えて更に遥か東の彼方に存在する大国である。無論、俺は行った事など有る筈も無いが、その国に関する様々な逸話は兼ねてより耳にしている。俺が今所持している随分と信頼性の高い貨幣や、苦労して身に付けた此の世界の言語も、遥か東方に存在する其の大国より齎されたと聞く。
以前、俺が世話になった行商人のヴァンさんを始め、見聞の広い人達にとっては、俺が今居る此の地はどうやら相当な辺境扱いらしい。そして、嘗てエリスタルは大軍を以て此の辺境の地に攻め込んで来たそうだ。その当時の戦の情景は、今でも吟遊詩人達によって頻繁に謳われている。恐ろしい侵略者共を退けた八人の大英雄の英雄譚はウンザリする程聞かされたからな。しかも小さな村を守る為に千の軍勢を独りで斬り伏せた等々、そのホラ・・英雄譚には相当に脚色が入っていると思われる。
まあそれはさておき。今の自慢話を聞く限り、婆センパイってもしやこの辺の土着住人では無く、あのエリスタル王国の出自なのだろうか。
「あっ!?」
そんな事を考えた直後。魔法への集中力が揺らいだせいか、逆さに保持していた容器の水が盛大に俺の下半身にぶちまけられた。
しくじった。集中の維持により精神に負荷を掛け過ぎた為、一時的に思考が鈍っていたようだ。丁度胡坐をかいている体勢だった為に愚息の辺りがびしょ濡れになり、盛大にお漏らしした様に見えてしまう。
「おらぁっ呆けてんじゃないよっ!」
「うぼおっ。」
間髪入れずカッ飛んで来るババアの怒声と拳を、頭部を振って威力を多少殺しつつも敢えて受ける。ぐおお痛ってええっ。
俺が糞痛い思いをしてまで敢えてセンパイのパンチを受けた理由は、先日ドヤ顔をキメながら華麗なポーズでババアの一撃を躱して見せたら、ヤバイくらい怒り狂って研究室ごと俺を魔法で焼き殺そうとしやがったからだ。その時は咄嗟に死角からのショートアッパーを叩き込んでババアの意識と記憶を存分にシェイクした後、背後から絞め落としてどうにか事なきを得た。此れ程の危険性は婆センパイに限った事であろうが、老年期のプッツンはマジで恐ろし過ぎる。其れに、正気に戻ったセンパイのご機嫌を取るのは滅茶苦茶面倒臭過ぎた。
「センパイはもしかして、エリスタル王国の出身なのか?」
水に濡れた研究室の床を布切れで拭きながら、俺はセンパイに訊ねてみた。
「フンッ、今頃気付いたのかい。あたしゃ若い頃はずっとエリスタルの王都で暮らしとったんじゃ。よっくあたしゃを見てみい。其処らの辺境の猿共とは滲み出る気品が違うじゃろうが。尤も、あたしゃがベニスに移り住んだのは、もう随分と昔の話なんじゃがの。」
「ふ~ん。」
俺はセンパイの姿を一瞥するも、感じられるのは滲み出る加齢臭だけだったので、速やかに床の清掃を再開する事にした。だがその直後にセンパイが発した言葉は、俺にとって聞き捨て成らない代物であった。
「あたしゃ程じゃ無いんじゃが、エリスタルでは見目の良い女は左程珍しくも無かったからの。お陰でコッチに移り住んでからは、粗野な男共があたしゃに夢中になるのに幾らも時は必要無かったぞい。キヒヒヒッ。そりゃあもう嫌になる程モテにモテまくったわい。」
「・・・・。」
なん・・だと。
その時、俺の全身に落雷の如き衝撃が走った。
見目麗しい美女達がそこらに溢れる国。
その時、衝撃と共に俺の脳裏に浮かんだのは、未だ見ぬ都会の洗練されたふつくしい女性達。その姿が故郷の記憶にある日本人では無く、何故かパツキンやプラチナブロンドでスタイル抜群なお姉様方だったのは、過日ひと時を共に過ごした一人の女の影響であろうか。
何れにせよ、今の話が呆けた老人の妄言で無いのならば。俺にとっての地上の楽園は、或いは其処にあるのかもしれねえ。此の辺境にも頑張って探しまくれば美女は居ない訳では無いが、この世界の女は基本骨太で逞しくて毛深い為、故郷の基準で言う処の美女は非常に稀なのだ。其れに例え居たとしても非常に競争が激しい。甚だ口惜しいが、魔術師ギルドの受付嬢も当然の如くイケメンの彼氏持ちと判明した。それに伴い、俺の彼女への興味も急速に薄れてしまった。流石にコブ付きの女を口説く程厚かましくは成れない。
何時までも女を知らぬ清き童貞のままで居るのも、良い加減笑えなくなってきたからな。実は此の世界の繁華街にも妓館の類は多数存在する。無論、俺とて木石では無いし滅茶苦茶興味津々ではあるが、未だ突撃する勇気は無い。それに、矢張り初めてはこう真っ当に恋愛して捧げたいというピュアで繊細な男心が、猛る愚息の本能を抑え込むのだ。まあ生き残るのに必死で其れ処じゃなかったてのもあるが。
そんな訳で、俺の進むべき道が今、崇め奉る地球の神々の啓示により眩く照らし出されたのかも知れない。乗るべきか此の心のビックウェーブに。いや、乗るしか無い。そして乗るなら何時だ?無論、今だろ。
其処にはご立派な大義名分なんぞ欠片もありゃしねえ。清廉な精神性を持つ連中なら揃って眉を顰めるであろう実に下世話で不純に満ちた動機。だが俺はどこぞの英雄でも偉人でも無いし、かつて見た恋愛漫画や小説に登場するイ〇ポ野郎でも無いのだ。月並みな只の男が動く切っ掛けなんてのは、案外そんなモノなのかも知れない。
その日を境に、俺はエリスタル王国に関する情報の収集に動き始めた。




