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Perso a Venezia

作者: 英 李生
掲載日:2022/02/23




 どこかへ迷い込んでしまえたらと思ったので、ヴェネツィアの地を訪れた。思い立ってしまえば早いもので、その日のうちにフライトの空きを探したものだから、週末の夜には石畳を歩く自分がいた。

 いつかの宵にチャンネルをとめた番組で、「裏路地の多いヴェネツィアでは、気をつけなければあっという間に迷い込んでしまうんですよ」とナレーターが言ったのをはっきりとおぼえていたから、時差ぼけしたままの頭で、あてもなく薄明かりの道を歩いた。煤けた柔らかいスニーカーはしっとりと石畳に沈むようで、足音をすこしも残さない。その方が都合がよかった。

 格安航空の直行便で、腰の痛む十五時間強のフライトであった。直前での予約であったために通常よりもいくばくか多く金を要したので、雀の涙ほどもない老後用の貯金に手をつけた。口コミにはロストバゲージの問題が目立ったが、そんなことはどうだってよかった。どうせ大したものなど持ってはいないのだから。持ち物といえば、肩に引っ提げたくたびれきったカバンひとつだけなのである。さびしい財布と、久々に取り出したパスポートに、簡単な着替え。それから現実を忘れようという細やかな抵抗のつもりで電源を切ったスマートフォンだけを無造作に入れたそれは、乾いた夏の風にひらひらと揺らされてしまうほど心許ない。

 迷い込んだまま帰れなくなってしまえたなら本望だと、片道だけの航空券を買うかは、すこしばかり悩んだ。そうは言っても、どうしようもなく典型的な日本人である自分には、現実を――週明けの仕事を思って、そうすることはやはり憚られたのであった。自分自身を優先しようと思いながらも、決してそうすることなどできやしない、どうしようもない心を持った自分である。息をするのが、どうも難しかった。今だってそうだ。あてもなく歩いているつもりでも、どこかたどり着く場所を探しているかのような足取りであることは自分でもわかりきっていて、それがどうしようもなく辛くてたまらない。それでも、どうすることもできないのだ。自分の望むほうへ道を正してくれる人などいなかった。自分自身でさえもそうなのだから。

 ずいぶんと夜中なもので観光客の姿も少なく、ひっそりとした石畳に橙の光がきらめくのをじっくりと窺えたものだった。バカンスのシーズンをすこし外れた時期であるということも相俟っていただろう。それでも、まばらに通りすぎゆく人びとはいて、交わされる言葉にはドイツ語や英語、フランス語などがあったものだから、語学に勤しんでいた学生のころが懐かしく思い起こされるには十分であった。しかし、この町に生きる人びとの話す言葉を、自分は理解しなかった。新鮮な気持ちになって耳を傾けていると、いつか聞いた、イタリア語というのは歌を歌うための言語であるのだというものを、うんと理解できたものだった。そのうわべだけを知りながら、それ以外には何も知らぬままにこの地を歩きつづけた。

 やはり、ひらけた場所へ出た。海へ出たのだった。ヴェネツィアのいちばん端、アドリア海のいちばん奥。暗い暗い夜の海はひそひそと凪いでいて、そのむこう側には何も見えない。心だけが過去や今の思いとともに迷子になってしまったようで、どうしようもない気持ちに涙の出ないように顔をあげた。

「Stai bene?」

 誰かが気遣うように声をかけてきた。その言葉はイタリア語であった。観光客然としない自分の姿がそうさせたのだろう。何のことやらちっともわかりやしなかった。ただ、歌の一節を聴いたように心地のよいその響きに、我慢していたはずのものがほろりとほどけたのだった。我慢などできなかったし、しなくたってかまわないのだと言われたような気がしたのである。子どものようにくしゃくしゃな声をあげて、自分はやっと歩みをとめた。とめる場所を見つけたのだ。自分自身のかわりにどこかへ迷い込んでしまったのは、自身をゆっくりと締め殺してきた心であったのだろうか。そうであるのならば、このまますっかり置き去りにしてしまおう。

 何度も繰り返しうなずいて、スマートフォンの電源を入れる。会社へは戻りませんという一言だけを、八時間先を過ごす日本へとひとまず届けた。伝えられたらと思い続けていたこの言葉は、あまりにもあっさりとした響きをもっていたものだから拍子抜けしてしまう。無責任にもほどがあるが、そんなことはどうだっていいと思えた。これからどうするかは、いまは考えなくともよいだろう。そっと差し出されたハンカチであらかた目元を拭ってしまうと、あの番組で耳にした、礼の言葉を記憶から呼び起こす。どうもありがとうと伝える言葉は、何といっただろう。自信はなかったが、それでも口に出してみる。

「グラッツィエ、ミッレ」

 ──拙いながらも、息ができた。たしかにそう感じたのだった。




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