花屋と図書館
彼女は花屋さんで働いている。
大きな通りに面した大きなビルの1階にある小さな花屋。
店内からあふれ出るようにして店先にも花が並べてある。
彼女には大切に育てている物がある。
部屋の押し入れの中に大事にしまってある1つの茶色い鉢。
そこには質のいい土が入れられているが、まだ何の芽も出ていない。
はたしてそこにどんな種が植わっているのか、それは彼女にしか分からないことだが、彼女は毎日寝る前に、そーっと押し入れの扉を開け、ジョウロで優しく水をやり、早く芽が出ないかとひとしきり土の表面を眺めた後、またそーっと扉を閉める。
彼女は
「私は恋愛にロマンチックなものを求めるの」
そういう話になると少し度のきつい眼鏡をずり上げながら口ぐせのように言う。
しかし実際のところ、彼女はロマンチックな恋愛などしたことがない。
彼女は店に立って、目の前をせわしなく横切っていく人の波を見ながら思う
(私はいつも通り過ぎていくのを見ているだけ)
黙って待っていてもロマンチックはやって来ない、ということも彼女は分かっている。
ある日彼女はいつものように、近くの図書館まで頼まれた花を届けに行った。
裏口から入り受付で用件を告げると、手の空いている誰かが花を取りにくる。
いつもより少し待たされると、やがてひとりの男性が現れた。
彼女と同じくらいの歳だろうか、初めて見る人だった。
花と請求書を渡して
「ありがとうございました」
と頭を下げながら後ろへ体を向けた時
「これいいですね、なんて花ですか?」
と言う声が聞こえた。
あわてて向き直り、彼が指差しているオレンジ色の花を見て答えた。
「サ、サンダーソニアです」
彼女はそれだけ言うのが精一杯だった。
「ふぅん、かわいいですね」
そう答える彼の言葉は聞こえたが、彼の顔を見上げることはできなかった。
彼女は今一度頭を下げてその場を足早に去った。
びっくりした。
あそこへはもう何度も花を届けに行ってるけど、花の名前を聞かれたのは初めてだった。
なぜだか頭がボーっとする。
彼女はすっかり彼に魅かれていた。
電光石火。
彼女のその小さくてきゃしゃな体には、よくこんな風にしてカミナリが落ちる。
それから毎日、気になる彼のことで頭の中がいっぱいになるのはいつものこと。
彼女が決まってすることは、真っ暗な押し入れの中にあるあの鉢に、いつもより丁寧に水をやることぐらい。今だ芽の出てこない土を見ながら、彼について想いをめぐらせることぐらい。
そうしているうちに目の前の恋はいつのまにか通り過ぎていく。
また図書館に行けば彼に会えるだろうか。
しかし2週間経っても図書館から次の花の注文は来ない。
ある日彼女は決心する。明日の休み、図書館へ行ってみよう。
今回の彼女は何か違う。そもそもどちらかというと内気な彼女が自分から彼に会いに行く事自体、彼女にとって前代未聞。
その日の夜、鉢に水をやる彼女の手が少し震えていたのも無理はない。
「…がんばれ」
はたしてそれが目の前の鉢に埋まる種子に言ったものなのか、それとも自分に言い聞かせたものなのか、ともかく彼女は小声でそう言うと、押し入れの扉をそーっと閉めた。
次の日、彼女は早起きして、というよりほとんど眠れないまま朝まで過ごし、そのまま図書館へ出かけた。
4階建ての大きな建物。
彼女は初めて正面玄関から中に入った。彼に会えるという保証はないものの、とりあえず1階から4階まで探検することにした。
1階は社会科学コーナー。2階は自然科学コーナー。どこも人はたくさんいるのに、まるで誰もいないかのような静けさ。
2階から3階への階段の踊り場にはこのあいだ届けた花が置かれていた。茎の先のほうで咲いているランプシェードのような形をした小さな花が、何か言いたげに彼女を見ている。
そして3階の人文科学コーナー。そこの正面カウンターに彼はいた。図書館の雰囲気にすっかり飲まれていた彼女は、突然目の前に現れた彼にまたもびっくりしてしまった。頭がボーっとし始めた。
とにかく、やっとの思いで彼の前を通り過ぎ、奥へと進む。フロアの手前半分は本棚、奥の半分は閲覧のための机がたくさん並んでいる。その机の向こうには大きな窓が広がっていて、枝の太い木が葉を揺らしている。
カウンターが見える位置にある机を選んで椅子に座った。彼の方をちらっと見る。彼は彼女に気づいていない。気づいていないというより、彼はきっと彼女のことを覚えていない。
しばらく座ったままの彼女。
(そうだ、本を取ってこなきゃ)
やっと気づいて立ち上がり、本棚の間をぐるぐると歩いた。特に興味のわく本は見当たらなかったので、一番見栄えのする大きくて重い『フェルメール』という本を選んで机に持ち帰った。
パラパラとめくって読んでみるが、ちっとも頭に入ってこない。さっきから同じ所ばかり読んでいる。ときおり彼のほうを見上げ、ため息をつく。あまりじっと見ていても変なのでまた本に目を落とす。
そうしてどのくらい時間が過ぎただろう。奥の大きな窓にはすっかり夕景が訪れていた。
しかし彼女のもとにまだロマンチックは訪れていない。これだけ長いあいだ読んでいても、頭に入ったのはこのフェルメールという人がオランダの画家であるということだけ。それもだいぶ昔の。
ここで彼女はまた重大な決心をする。
この図書館は本の貸し出しをしていない。その代わり、カウンターに頼めば好きなページをコピーしてくれる。
彼女はカウンターにいる彼にコピーを頼むことにした。「4・手紙を書く女について」のページを開いてカウンターへ向かう。ゆらゆらと歩きながらカウンターへ向かう。
こちらへ背をむけて作業をしている彼に、無意味にモジモジしている彼女が声をかけるまで相当な時間がかかった。
「あ、あの」
眼鏡をずり上げながら消え入るような声を発する彼女。
「はい」
と返事してテキパキとふりかえる彼。
「コピーですね」
と言いながら彼女の顔を見た彼は、何かを思い出したように微笑んだ。
「花屋さん」
彼女は気づいていただろうか。
今朝、押し入れの中のあの鉢に、小さな芽が出ていたことを。