プロローグ
男に私の立てる物音が聞こえないように、細心の注意を払いながら手早く昨日も着ていたそれらを再び手に取った。
気持ちだけが焦り、何度も震えそうになる手でホックをしめた私は、多分愛液だろうヌルリとした気持ち悪さの残る下着も身につけて。それからなるべく顔も知らない男のことは考えないようにただただ無心で手を動かし続けた。
そうしてやっと全ての服を身につけた私は、対面のソファに投げ置かれていたバッグを手に取ると男がシャワーを浴びる音を確認して、それまで以上に音を立てないよう、緊張した面持ちのままホテルの一室を抜け、風呂場があるであろう方に目もくれずただ静かにその部屋を後にした。
こういう場面で、普通は相手の顔だけでも拝んでおこうとするのかどうかなんてわたしには分からないけど。長いこと恋愛から遠ざかっていた私には何が正解かも分からないまま、ただただ足早にエレベーターに足を進めた。
それもまぁ、仕方のないことだと思う。恋愛から遠ざかる云々の前に、私はこの年になるまで一度たりとも誰とも性行為なるものをしたことが無い訳で。
何が正解かなんて考える暇もなく、私は男から逃れるというより恋愛そのものから逃れるように、ただただ足を進めた。
だから、エレベーターが止まり、私を乗せたそれが静かに動き出した瞬間。
なんとも言えない安堵が、胸の内に広がった。
・・・・・
「おい、シャワー浴び……」
ガウンを身に纏い、タオルで髪をガシャガシャと拭きながら女が寝ているであろうベッドルームに戻ると、予想とは裏腹にそこに女の姿も、女の持ち物ひとつ残されておらず。ただ、高級ホテルに相応しい、広く大きなキングサイズのベッドはシーツにシワが寄っていて。それだけが、女がここにいた証拠だった。
何となく、ベッドに近づき女が寝ていた場所に手を置くとほんのりとまだ温かさが残っていた。それと共に、昨日艶かしく乱れていた女のか、珍しくタガが外れていた俺のなのか水滴の跡が至るところに残っていて。そうしてベッドに近づいていた俺は、床に落ちていた四角い何かを拾った。ベッド下にぽつんと取り残されたそれは、どこにでもある大人なら誰でも持っているだろう社員証だった。
だが、それを目にしたその瞬間俺は無意識のうちに思わずニヤリと口角を上げていた。
「へぇ、北薗 明日香、ねぇ。写真と別人だな」
北薗 明日香と明記された目の前のカードを目の前まで持ち上げると、スマホを手に取り目的の人物に連絡を入れた。
その間も、見つめる先は先ほどまではいた女と同一人物とは思えないほどに冴えない顔の、一人の女の顔写真。
その顔を見つめながら、俺は挑発的な笑みを浮かべていた。
これで一旦プロローグは終わりとさせていただきます。次からは本編に入ります。




