四〇 弱女公の国~温泉郷
エレスサンクロスから東に数日も歩けば、そこはアーヌプリンの地である。
アーヌプリンは、かつてアンプ人の国があり、彼らの言葉で「国」は「リン」といわれていたことから、当初はアンプリンと呼ばれていた。それがいつしかアーヌプリンと呼ばれるようになったとされる。
神聖帝国の前の西方帝国時代に、帝国領として併呑されアーヌプリン公領とされた。アンプ人は西方教会に改宗し、帝国化され、いつしか、独自の言語も文化も忘れ果て、ほとんど帝国人となっていた。今は方言や文化に僅かに異民族アンプ人の面影が残る程度である。
そのアーヌプリンを治めるのは、アーヌプリン公リヌア家である。帝国に恭順したアンプ人の有力者がアーヌプリン公に任じられて以来、一度たりとも帝国、皇帝の意に反することなく、この地を治めてきた。
その領域は極めて広大で、肥沃で起伏の少ない大地は、帝国でも有数の穀倉地帯である。領内には五つもの都市を含め数十の町と数百の村を支配し、領民の数は数十万とも百万ともいわれていた。
その広大なアーヌプリン公領の北西の端、エレスサンクロスからは北東に三日ほど歩いた地、アルバライン山脈の麓に、有名な温泉郷インザールックがある。
西方帝国の時代から風呂の習慣がある帝国において、温泉地は人気のある観光地で、インザールックは、その中でも屈指の知名度を持つ。
帝国中部では最も大きな温泉郷であり、交通の便がよく、豊富な湯量を誇り、数十もの温泉宿と、それに加え、土産物屋や飲食を供する店、売春宿などが軒を連ねる。
勅任断罪官キスレーヌ・レギアン・ダークラウン男爵一行は、そのうちの一つの温泉宿に部屋を借りていた。
インザールックに到着した一日目は、温泉に入ったり、土産物屋を冷かしたり、側近のカロン騎士クレディア、ラクリア人傭兵カルボット、フェリス人傭兵モン、名無しのムールド人傭兵、書記のベアトリスらと飲み明かしたりと、遊休を楽しんでいたが、翌日から彼女は部屋に籠り切りになっていた。
「もーぅっ、ねーちゃん、ずっと部屋にいるっ。つまんないっ」
宿の食堂でモンは叫んだ。
「だから、そのねーちゃんって呼び方を止めろっ」
向かいに座ったクレディアが怒鳴りつける。
「殿下はお忙しいのだ」
そう言って、クレディアは不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、お茶の入ったカップを傾ける。
「そんで、嬢ちゃんは何をやってんだ」
「だからっ、そういう呼び方を止めろと何度言えば……」
斜向かいに座ったカルボットの問いかけにも怒鳴り返そうとして、クレディアは途中で止めた。今までに何度も繰り返したこのやりとりを頭に浮かべ、うんざりした気分に陥ったのだった。
「殿下は書状をしたためていらっしゃる」
「またか。飽きねぇなぁ。うちの主様は筆まめでいらっしゃる」
「殿下を愚弄する気か」
「愚弄ってわけじゃねぇが、書いてて飽きないのかねぇってな」
そう言ってカルボットは昼間からカップになみなみと注がれた麦酒を喉に流し込む。
「おい、昼から酒か」
「仕事もねーんだから、いいじゃねぇか。細かいこと言いなさんな」
クレディアが咎めるが、ごわごわの髭に付いた泡を拭いつつ、カルボットは上機嫌に笑って言った。
確かに、仕事はない。今、キス御一行は温泉郷インザールックで大休止の最中なのだ。
クレディアは額に青筋を立てて怒鳴ろうと、口を開くが、思い直して、口を閉じる。お茶請けの砂糖菓子を入れた器に手を伸ばして、それが全てモンの口の中に消えていることを確認して、溜息を吐いた。
「殿下には書かねばならん書類や手紙が数多あるのだ」
「ほーぅ。一体、どこに出してんだ」
「それはね。えーっと、大法官兼高等法院長白亜公閣下、内務大臣ネイガーエンド公閣下、アーヌプリン公閣下、枢密院議長ミトリンゲン方伯閣下、公安長官兼保安長官レイクフューラー辺境伯閣下、法務長官ウィットブルト伯閣下、高等法院筆頭評定官ローグヘンリ伯閣下、帝室大臣サイシュレティア伯閣下、帝璽尚書バンブルク伯閣下、国務卿ティピッツ枢機卿猊下、西方教会事務総長ライン枢機卿猊下」
クレディアが答える前に、階段の上から、延々と帝国のお偉方の肩書が言い連ねられた。
「これが、今日、書いた分の送り先ね」
大量の手紙を抱えたベアトリスは、階段を降りてきて、テーブルの上に手紙をぶちまけて言った。
彼女は書記としてキスの書類作業を手伝っているのだ。
「どいつも法服派のお偉いさんに、皇帝党のお偉いさん、それに、教会のお偉いさんだな。三派どこにも頭を下げてるってわけか」
ベアトリスの言った宛先の大貴族たちの名を聞いたカルボットが呟く。
「そうね。法服派には、どうも御協力、御尽力ありがとうございました。これからも宜しく。皇帝党と教会には、今回の件では、ただただ、戦を止めたいとの思いで行っただけのことであり、皇帝陛下と神の御意思に背くものではありません。ごめんなさい。ってなことを長々と形式ぶって書いたわ」
ベアトリスは欠伸を噛み殺し、モンのカップに入っていたお茶を勝手に飲み干してから、テーブルにぶちまけた手紙を掻き集める。
「貴族様も大変よねー。権力争い、派閥争いの中で、どうにかこうにか生きていかないといけないんだからねー」
「もーっ、何で、あたしのお茶飲んじゃうのーっ」
溜息混じりに語るベアトリスの背中をモンはぽかぽかと叩きながら叫ぶ。
「よし、じゃあ、これ、郵便に出してくるから。モンと、あー、そこの名無しさん、一緒に来てね」
「やだっ。勝手にあたしのお茶飲んだもんっ」
「付いてきたらおやつ買ってあげるけど」
「行くっ」
「んじゃ、いってきまーす」
ベアトリスとウキウキ気分のモンに名無しのムールド人傭兵が無言で続く。三人が食堂を出て行った後、クレディアは呆れ顔で呟く。
「連中は、いつになったら、殿下の従者であるという自覚が芽生えるんだ」
「もう無理だろ。諦めな」
カルボットが麦酒を喉に流し込む前に呟いた。
その頃、階上の彼らが借り上げている部屋では、キスが机に向かっていた。もう何時間も椅子に座っているものだから、そろそろ、尻が痛み出した頃だ。
彼女はつい先頃、届いたいくつかの手紙を読んで苦悶の表情を浮かべていた。
まず、一つは、兄王子ユーサーから。
先のエレスサンクロス戦争において、南方人奴隷を買い上げて解放してやると豪語した彼女だったが、そんな現金は彼女の手許になかった。そこで、彼女は兄王子の懐を期待していたところなのだが、その返事が手紙にあった。
手紙には、要するに、金はない。借金ならある。と書かれていた。キスは無言で頭を抱える。
他の手紙としては、部下であるロッソ卿、ワークノート卿からの手紙があった。
二人はキスの代理として、キスの領地となっているブルーローズヒルの管理をしているのだが、その統治について、指示を求めていた。
また、前の領主が残していった館が大変老朽化が激しいので、これを改修する必要があるとも記述されていた。ついては、壁や屋根の色、壁紙、家具、調度品、庭に植える草木などはどうするか。その費用はどうするか。などの指示を求めてきている。
どちらも悩ましい問題であり、できれば、目を背けていたい問題である。
それに加え、レイクフューラー辺境伯からは、大貴族の方々に贈り物をすべきである。というか、しないと、これから、君の立場は拙いものになりますよ。という忠告がきており、その贈り物の費用も捻出しなければならない。が、そんな金は勿論ない。
キスは頭を抱えつつ、残り一枚の手紙の封を開く。それはアーヌプリン公からのもので、内容を読んだ彼女は、この手紙だけは気楽な内容であったことに安堵した。安堵して、その内容に従うことにした。というのも、アーヌプリン公の誘いは、全く金がかからず、困ったことにもならず、面倒くさそうでもなかったからだ。つまり、彼女は嫌な現実から逃げた。