三〇 十字の町~エレスサンクロス攻囲
轟音と共に幾多もの砲が火を噴いた。ずらりと並んだ一八門のカルバリン砲と四門の臼砲が、右端から順々に点火され、砲口からはじき出された鉄の塊が遥か彼方に聳える城壁に向かって飛んでいく。
一八ポンドの重量を持つ砲弾は次々と城壁に突き刺さり、数百年前に積み上げられた石を粉砕するも、分厚い城壁は未だ堅牢で、崩れるほどではなかった。城門や塔を狙って撃った砲弾は城壁に突き刺さるか何もない宙を飛んでいき、城壁の内側に飛び込んでいった。臼砲の弾は元よりそれが目的であり、城壁を飛び越えて町の中に落下する。
その砲弾の行方はこちらからは見えないが、どこかの家の屋根を突き破るか、運の悪い誰かの頭上に落ちて、その誰かを粉砕することだろう。想像するだけでぞっとする話である。家の中にいようとも、街路を歩いていようとも、いつなんどき自分の頭上から何ポンドもある鉄の塊が降ってくるのか分からないのだから。精神的にかなりの苦痛を感じるだろう。
「糞っ。話にならん」
しかし、砲兵隊の指揮官はその砲弾の行方には甚だ不満であるらしい。
指揮官は四〇代くらいのすらりと背の高い将軍だった。形の良い控え目な口髭が渋くてダンディである。濃灰色の長い髪を後ろで束ねて垂らし、羽飾りの付いたつば広のフェルト帽子をかぶっている様も妙に格好良い。服装は、紺色のウエスト丈のぴったりとした上衣に濃灰色の長ズボン、長めのブーツ。
彼は吐き捨てるように言うと奥歯を噛みしめ、乗馬鞭を振るい、傍らのカルバリン砲の砲身を叩いた。ただの八つ当たりである。
指揮下の砲兵隊は不機嫌な上官を恐々と片目で見ながら、黙々と次の砲撃に向けた作業を行う。
「こんな射程ぎりぎりでは当たるものも当たらん」
将軍は極めて不機嫌そうに言うと、乗っていた馬の手綱を引き、馬首を返す。
「まぁ、そうですね」
いくらか後ろで馬に跨っていた黒髪姫ことキスレーヌ・レギアン・ダークラウン男爵は、彼の言葉に曖昧に同意めいたことを呟いた。
キスの服装も准将とさほど変わらないものだった。羽飾りのないつば広の黒いフェルト帽に、ウエスト丈の黒い毛皮の上着、濃灰色の長ズボンに乗馬ブーツ。上から下まで黒ずくめなのは、この服を調達してくれた兄が髪と目の色に合わせて特注してくれたからである。黒は悪魔の色と長らく信じられてきた世にあって、これは中々悪目立ちするというか、周囲の人々からは奇異と恐怖をもって迎えられていた。
彼女の傍らにはキスの側近クレディアが控えていた。上級指揮官同士の会話には口を挟まず殊勝な態度で茶色い馬に跨っていた。
「ユットニール准将でも無理となると、誰がやっても不可能なんでしょうね」
後方へ向かう将軍に同行しながら、キスは世辞めいたことを言い、砲兵隊の指揮官ロバート・ユットニール准将は顔をしかめた。
「私は世辞を好かんぞ」
「いや、お世辞じゃありませんよ」
ユットニール准将の苦言にキスは手を振って否定する。そもそも、人付き合いが不器用な彼女には、咄嗟に世辞を言って相手を持ち上げるなどという高等なコミュニケーションは至極困難なのだ。
その特殊な生まれ育った環境により、人とのコミュニケーションに大変な問題がある彼女だが、キスが大きく注目されるきっかけとなった数月前の反乱事件において知り合ったユットニール准将とは、どういうわけだか初対面時から馬が合い、キスの極めて少数の側近たちと同じ程度に会話ができる相手だった。
「聞いたところによると、帝国軍で最も有能な現役の砲兵隊指揮官は准将らしいという話ですから。だからこそ、わざわざ、第三工廠長に異動したばかりの准将を呼び戻して砲兵隊の指揮をさせているっていう噂ですし」
キスは基本的に私的な会話では、建前や嘘を言わず、明け透けに本心を語る人間である。というのは、長く一人で生活してきたが為に、本心を隠して建前を前に出すという会話をしてこなかったのだろう。というか、会話そのものをした経験が一般人よりもはるかに少ないせいなのだ。
彼女と比較的よく会話をしたユットニール准将はそのことを十分に心得ており、彼女の言葉が本心であろうことを理解した。とはいえ、そんなに真っ直ぐに褒められては気恥ずかしいものである。一際顔をしかめて、居心地悪そうに髭を撫でつけ、
「ふん。まぁ、いい」
と、素っ気なく呟いた。
その時、低い砲声が鳴り響き、塔の前に煙が漂う。
塔から放たれた砲弾は非常に高速でキスたちのいる場所の遥か前方に落下すると、土煙を巻き上げつつ何度も跳ねながら近づいていき、何度目かの跳躍で運の悪い一人の砲兵の頭を弾き飛ばしていった。首から上を失った砲兵の体はぐらりと揺れて、当然のことながら無言で倒れこんだ。
ユットニール准将とキスはその様を一部始終無言で見届けた後、顔を見合わせた。
「まぁ……、よくあることだ」
「そうですか」
「とはいえ、まぁ、こちらまで届く弾は滅多にないな。敵の砲の旧式ゆえ射程は我々の砲よりもいくらか短いのだ」
ユットニール准将率いる砲兵隊が射程ぎりぎりの位置に布陣しているのはそういったわけだった。敵の攻撃が及ばないアウトレンジから比較的安全に攻撃をしようというのが、現在のところの攻城側の意図だった。
この攻撃に対して、攻められるエレスサンクロスの町は、市を囲む城壁の門を全て閉じて、内側に立て籠もり、時折、思い出したように塔に据え付けられた砲を撃つくらいのもので、徹底的な籠城の姿勢を貫いていた。
というのも、エレスサンクロス市の人口は老若男女合わせて八万。戦える人間は多くても三万弱といったところだろう。それも、下は十代半ばの少年から五十、六十の老人をも含めての、市の人口から女子供と老人、病人を除いた数である。つまりは、普通の男の市民である。
いざ、戦争となれば、誰もが武器を取り、民兵に早変わりする時代であり、本職の軍人ではないからといって際だって不足があるというわけではないし、彼らは自分の住む町を守るのだから士気も低くはないだろう。しかし、兵を指揮する士官と下士官の不足は否めない。適切な指揮とその伝達、指導がなければ、いくら兵がいようとも、それは烏合の衆に他ならない。
対して攻める側の軍勢はといえば、デルピエ元帥率いる帝国軍第二軍団一万に、アーヌプリン公と周辺諸侯の軍勢二万五千と教会軍五千。そこに急遽ユットニール准将が率いることになった近衛第二砲騎兵隊が加わり、総勢は四万を上回る。
キスはそのエレスサンクロス攻囲軍に加わっているのだった。
事の発端は、キスがミハで魔女事件に関わり、その事件が終わりを迎えようとしていた時期に遡る。
帝国自由都市エレスサンクロスは帝都から東へ向かう東西街道と南北を貫く大きな街道が交差する交通の要衝で、その人口は八万という、この当時としては、比較的大きな都市だった。
この町に、ヨハン・ボートゥリッヒと名乗る男が現れたのは、数月前のことで、彼は自らを神学者と称していた。実際に、彼が神学者の身分を持っていたのか。どこかの大学を出ていたのかは不明である。おそらくは永遠に謎であろう。そもそも、彼の名が本名かどうかも今となってはわからないのだから。
さて、ある日、エレスサンクロスに現れたヨハンは、町の広場にある聖オイゲン像の前に立って演説をはじめた。このように広場や人のいる辻に立って、己の主張や何かを通行人に話す人間は、有り触れたことで、当初、多くの通行人は彼を無視して素通りし、その話に耳を傾ける者は少数だった。
しかし、彼は何日も何日も、雨の日も風の日も休まず、聖オイゲン像の前に立ち、演説を続けた。やがて、彼の話に耳を傾ける人間は少しずつ増えていき、また、その主張に賛同する者も増えていった。
彼の主張というのは、宗教界の腐敗に関する批判と、聖典を基にした、腐敗する前の、創始当初の信仰に立ち返るべきであるというものだった。
本来は独身であり、かつ、貞潔であるべき司祭や助祭どころか、彼らを指導すべき司教、大司教の少なくない数の者が、実際には妻や愛人を持っていること。清貧であるべきにも関わらず、酒を飲み、肉を食らい、贅沢な食事をしていること。己の趣味で芸術品や宝物類を蒐集したり、商売をして財産を貯め込み、私欲の限りを尽くしていること。それらを彼は強く非難し、彼らには神に仕える資格がないと、糾弾した。
そんな聖職者に従う必要はなく、どころか、彼らの指図に従うことは神の意志に反するものであるとして、真の信徒は、教会や聖職者から己を切り離し、清貧で潔白で慎ましやかな生活を送り、聖典をよく読んでそれに基づいた信仰をすべきであると主張した。
教会と聖職者の腐敗はよく知られた話であり、それに関する批判も多く噴出していた。また、その素朴でシンプルな信仰のありようは、多くの人々に受け入れられ、共感を呼んだ。
さて、彼の支持者が増えていくのを見たエレスサンクロスの教会は、市参事会に対して、彼を逮捕し、処罰することを強く主張した。当然のことながら、教会にとって、彼の主張は全く受け入れ難いことだった。
しかしながら、市参事会員の中にも、彼の支持者は多く、市参事会は教会の要求を受け入れようとはせず、したことといえば、彼にあまり過激な主張をしないようにやんわりと勧告した程度だった。そんな形だけの勧告に意味はなく、彼は演説を続け、教会は彼を排除せよと強く主張し続けた。
結局、市参事会は基本的には何もせず、教会は業を煮やし、自ら手を下すこととした。
そして、その日、いつものように聖オイゲン像の前でヨハンが演説をしていると、数名の教会騎士団の騎士が現れ、彼を拘束しようとした。彼らがヨハンを拘束して、何をしようとしていたのかは不明である。ただ、少し懲らしめてやろうとしていたのか、或いは町から追い出そうとしていたのか。その目的はさておき、騎士たちはヨハンとその支持者の強い抵抗に遭い、思わず、剣を抜いて、彼と数名の市民を殺傷するに至った。
この数名の短気な騎士の狼藉に、市民の怒りは爆発した。市の広場において、市参事会の許可も得ずに、罪もない自由民を拘束しようとしたこと自体が、都市の自治に対する重大な挑戦である。その上、殺傷事件まで起こしたのである。市民は大挙して教会に押し寄せ、この事件を主導した教会指導者と実行犯である騎士たちの処罰を要求した。ここで教会はどういうわけだか、強硬な姿勢を前面に出し、教会に押し寄せる市民は神の敵であり、破門であるとの布告を出して、市民の怒りに火を注ぎ、その上、帝都に暴徒鎮圧の為の軍の派遣を要請する使者を発した。
ところが、その使者は教会を包囲する市民の壁を突破することができず、その手紙は市民の読むところとなった。
当然、市民の怒りは更に助長され、一部は暴徒化して、教会に乱入して、聖職者たちを拘束し、暴行を加えた。教会の幹部たちと教会騎士団の騎士たちは集団暴行の果てに殺害され、教会は破壊され、貯め込まれていた財産は放出された。
さて、エレスサンクロスにおいて起きたこの事件は、全て市内で完結していたが、これほどの事件を隠しきることは不可能である。異民族や異教徒が跋扈する辺境ではなく、帝都からのんびり歩いても一月とかからぬ帝国中部の主要な都市で、主任司祭らが殺害され、教会が破壊されるなど前代未聞である。
この事件の風聞は数日の間には周辺に広まり、一週間もすると、帝都にいる皇帝や、教会の最高指導者である総司教らの耳に入った。
教会は激怒し、エレスサンクロスの町を破門し、これは神に対する反乱であると断じた。
帝国政府も教会の立場に同意し、エレスサンクロス市に犯人の拘束と帝国への引き渡しを要求し、その身柄を引き受ける為に、デルピエ元帥率いる帝国軍第二軍団を派遣した。
エレスサンクロス市では強硬派が支持を得て主導権を握り、帝国の要求を拒否し、徹底抗戦の姿勢を示した。
その結果、帝国は攻城戦の覚悟を決め、第二軍団にエレスサンクロスを包囲するよう命じると共に、砲兵の不足を不安視し、第三工廠長に異動していた砲兵のスペシャリストであるユットニール准将を呼び寄せて、近衛第二砲騎兵連隊を与えて援軍にと派遣した。
また、エレスサンクロス周辺の諸侯に動員を命令。周辺で最も大きな勢力を持つアーヌプリン公をはじめとした諸侯は領民を武装させ、傭兵を雇い入れ、軍勢を率いてエレスサンクロスを包囲したのだった。
そして、その動員を命令された諸侯の中の一人が、キスレーヌ・レギアン・ダークラウン男爵だった。
事件が勃発し、布告が出され、動員命令を伝える手紙がダークラウン男爵領であるブルーローズヒルに届いたとき、キスはブルーローズヒルよりもいくらか西の小さな村で山賊と格闘しているところだった。代わりにそれを受け取ったのはキスに代わって領地を受領し、その管理を行っていたロッソ卿とワークノート卿であった。
とりあえず、両名は当主不在の為と理由をつけて従軍を拒否し、時間稼ぎを図った。とはいえ、キスはその黒い髪と目のせいで、教会の覚えが宜しくなく、また、外国人であるがゆえに、皇帝や宮廷からの信頼が厚いわけでもない。皇帝や宮廷、教会の意に刃向うことは出来うる限り避けるべきであり、出来うる限り忠誠心をアピールすべきである。と、両名は考えた。
従軍を求める手紙が来た二日後の夜に、キス一行はこっそりと自身の領地にやって来た。
夜に来たのは、夕方の時点で、もうあと少しで領地という所まで来ていた為、多少無理してでも、今日のうちに領地に入ろうと無理した結果であり、こっそりと来たのは、もう寝静まっているであろう領民たちに配慮した結果である。
着いて早々厄介な命令が下っていることを知ったキスは、ロッソ卿とワークノート卿の助言を受け入れ、直ちに従軍するのには同意したが、ほとほと困り果てた。というのも、彼女には自軍というべき軍勢など手元にはないのだ。しかも、貴族としては非常に小さな領地は授かったばかりで、全然見ず知らずの領民たちを動員するのも気が引ける。傭兵を雇い入れる金もない。ついでに、武器弾薬と糧秣を調達する金もない。
困ったキスとその部下たちは、金もないのに領民を動員してもしょうがないというわけで、とりあえず、自分たちだけで、現場に向かうことにした。少人数でも、参加することに意義があると信じて。
というわけで、ダークラウン男爵軍は、キス自身と、エドワード・ロッソ卿、アナスタシア・ワークノート卿、クレディア・オブコット卿のカロン騎士三名とカルボット、モン、氏名不明のムールド人傭兵の三名の合計六名に、書記としてベアトリスだけという、たった八名の軍勢とも部隊とも呼べないグループだった。
これだけ少人数だと準備も手早く済むもので一日で支度をすると、さっさと領地を出発した。
ダークラウン男爵軍八名到着との知らせに、エレスサンクロス攻囲軍の首脳は、その貧相な軍勢というか人数を嘲笑したり、馬鹿にして苦笑するどころか、もはや、困惑するしかなかった。
こんなにも少数人数では独立した隊として運用できるわけがないし、どこかに組み込むにしても、銀猫王国王女にして帝国男爵という高位を持っているキスを、もっと身分の低い将校の指揮下に置くわけにもいかない。かといって、自由にほっつき回られも困るし、帰ってもらうわけにもいかない。
攻囲軍幹部の苦心の末、キスたちはアーヌプリン公の指揮下に組み入れられることとなった。アーヌプリン公アンナ・ティーリッシュ・リヌアは、春先の反乱事件の際、キスと顔見知りであって、まだ年若い少女で、気が弱く、立場も弱かった為、厄介事を押し付けられたようであった。
この結果、キスにはアーヌプリン公軍の前衛隊指揮官という立場が与えられ、指揮下に一〇〇〇名ほどの兵を与えられたのだった。