二三 飛んだ事件~偽りの言葉
悪霊にとり憑かれたナージス嬢への尋問の最中に勅任断罪官キスレーヌ・レギアン・ダークラウン男爵の「拷問します」という発言に対して場は騒然とした。
「それは、人道的、法的に問題があるのではありませんか?」
法学者の一人がおそるおそる意見した。
「確かに、拷問は違法です。特に少女、少年、妊婦、老人に対する拷問は厳しく制限されております。また、通常の犯罪者であっても、その犯行が疑わしい場合には拷問によって自白を迫ることは禁止されています。拷問が許容されるのは、国家や皇帝に対する重大犯罪と悪魔と契約するなど神に背く罪を犯した者に限られます」
キスは帝国の刑法に定める拷問の要件をかいつまんで話した後、そのまま無表情で続けた。
「しかし、これらは全て人間に対して定めた法です。悪霊相手には拷問を行ってはならないという定めは帝国はもとよりこの大陸のどこにもないはずです」
確かに法律上は彼女の言うとおりであった。悪魔や悪霊の類を裁く法律や決まり、定め、そして、前例もありはしなかった。あるはずがないのだ。
キスの話は、かなりの曲解というか屁理屈であるが、理論に矛盾はない。
「それとも、神に背き、世界を闇に染めようという悪しき闇の眷属への厳しい尋問に反対をする理由が他に何かありますか?」
キスは駄目押しに付け加えた。彼女のその言葉の後で、尚も異を唱えんとすれば、その真意は何であれ、悪霊を庇い立てするかのように見えることは想像に難くない。それがどのような意味を持つかは言うまでもないことだろう。しかも、この場にはミハ市中の注目が集まっているのだ。そのような場所で不用意な言動をすることは絶対に避けねばならない。
「あー、さて、それでは、拷問しようかと思います」
キスがお茶の時間にでもしようとでも言うようにあっさりと言い放つと、傍らに控えるクレディアに目配せした。
「カルボットッ!」
クレディアが怒鳴るようにして配下であるところのラクリア人傭兵カルボットを呼び立てた。
別に、キスが大声で呼んでも構わないはずであるが、極度の照れ屋というか恥ずかしがりであるところの彼女は、大勢の人がいるところで大きな声を出すのが恥ずかしいのであった。その代わりに側近たるクレディアが呼び出し役を代理したのであった。
さて、その呼び声に応じて、小柄だががっしりとした体つきで髭面の男がのっそりと現れた。うっそうと茂る灰色の髭、大きな鷲鼻に、厳つい顔。腰には無骨な手斧を無造作に提げ、片手には薄汚れたずた袋を手にしていた。
その姿を見て、場内の多くの者が息を呑んだ。その姿を見れば、誰もが、この男がラクリア人傭兵だと理解する。ラクリア人傭兵の特徴である丸い兜こそないものの、豊かな髭と手斧を見れば誰でも分かるというものだ。
ラクリア人は帝国の支配の下にいくつかある異民族の一つであり、勇猛な傭兵を出していることで有名である。丸い兜に、豊かな髭の荒れくれ揃いで、手斧を振り回して勇猛に戦うと名高い。皇帝や貴族たちが行う多くの戦争で雇われ、重装歩兵として重用される。
帝国でも帝都などがある中央に程近く、戦火からは遠いミハにおいては、異民族などそれほど頻繁に見かけるような地域ではなく、過去幾度かミハやその近郊が戦禍に見舞われたときにしか異民族など目にしない。
そんなミハ市民の異民族の、しかも、傭兵に対するイメージたるや、悪魔よりもいくらかマシ程度のものである。
誰もが、突然現れたラクリア人傭兵に畏怖の眼差しで彼を見つめていた。
カルボットはのっそりと場内を歩み、キスの側に寄っていった。
「えー。それでは」
「ちょ、ちょっとお待ち下さい!」
キスが口を開くと、委員長であるところのカップエルン卿が狼狽した様子で立ち上がり、大声を上げた。
「……何でしょう?」
キスはすっ呆けたような顔と声で問いかける。
「あ、あー。断罪官殿。その、拷問というのは、一体、何をなさるおつもりです? その、あー、まさか、その傭兵に……」
カップエルン卿は必死に冷静を装おうとしているのは明白だった。そのすました表情の裏に、どのような感情を隠しているのかは、さておき、非常にまずい思いをしているであろうことは想像に難くない。
彼としては、何としても、ナージス嬢に対する拷問というものを避けたいと考えているのだろう。というのも、彼は市の有力な一族であるナージス家の連なりにある人物である。自分が委員長を務める委員会で、ナージス家の有力者の娘が拷問に遭うなどという事態が起きては、面子が丸潰れにどころの話ではない。一族の中で、どれほどまずい立場になるかは言うまでもないことであろう。
キスはいくらかの間、沈黙を守り、それから、黙ってカルボットに向けて手を出した。カルボットは手にしたずた袋から古びた分厚い表紙の本を取り出して、キスに手渡した。
「悪魔や悪霊にとって、最も苦痛であり、恐怖であることは、あー、神の言葉であるそうです。とはいえ、神の言葉を聞くのは、中々大変なことです。その代わりとして、神の教えを記した聖典というものがあります。この言葉も悪霊にとって非常に苦痛であるそうで」
これは、尋問を始める前に、キスがカートリア主任司祭に確認したことである。
「当初から言っていたとおり。悪霊に聖典の文句を聞かせようかと思います。つまりは、先に主任司祭様が仰ったとおり聖リオ典の中にある『主の姿を見給え。主の言葉に耳を傾け給え。主の愛を感じ給え。主に従い給え。主に抗うことなく、主を疑うことなく、主の愛を信じ給え』という」
キスが聖典の文句を唱えている間、ナージス嬢は苦しげに低い声で唸っていた。まだ、直接聞かされているわけではないが、既に苦しみ嫌がっているかのようであった。
「あー。その文句を聞かせて反応を見ようかと思います」
そう言ってキスはカルボットから手渡された薄汚れた本を開いた。カルボットは大人しくクレディアの更に後ろに控えた。散々、威圧させておいて、この厳つい傭兵はただ本渡しただけかよ。と場内の誰もが心の中でツッコミを入れた。
「えー。ではでは、」
キスは大勢の注目を浴びて落ち着かない様子で、もごもごと何やら呟き始めた。その呟きを聞いた多くの人々が怪訝な顔をする。というのは、キスがあまり大きな声を出していないので聞き取り辛いせいもあるが、それよりも何よりも、その言葉を理解できなかったからである。
ざわつく場内。
それでも、キスは気にせず本に視線を落としたまま、誰にも理解できないわけの分からない言葉を延々とぶつぶつぶつぶつ唱え続ける。
一体、こいつは何を言っているんだ状態が暫く続くと、ナージス嬢の口から呻き声というか悶絶するような声が漏れ始め、ついには、断末魔の悲鳴といってもおかしくないような苦しみようを見せた。
「それは、テリーデン語ですかな」
場内の多くの者が理解できないでいる中、カートリア主任司祭がぽつりと呟いた。黒髪姫は口を閉じて、彼を見上げて、首肯した。
テリーデン語は、西方大陸のはるか西、北西部に突き出たテリーデン半島にあるテリーデン王国で主に話される言語である。大陸の東部一帯を占める帝国とは対極といってもよいくらい遠方の国で、その言葉を解する者は、上流階級や知識層であっても多くはない。
とはいえ、ミハは学園都市である。そこら辺の都市よりも知識層は多く、また、その知識の分野も多岐に渡っている。最も効率の良い移動手段である船を使って行っても数月かかるという遠方の言語を解する者も揃っているようだった。
この時代、最も高度な知識層であるところの聖職者である主任司祭もテリーデン語を理解しているようだった。
「なるほど。そういうことか」
そして、カートリア主任司祭は、何故、キスがいきなり外国の言葉をぶつぶつ唱えだしたのかという理由にも、すぐに思い至ったようであった。
「どういうことです?」
どういうわけなのか理解できないでいる隣席のカップエルン卿が尋ねる。卿と同じ思いを抱いているのは場の多数であり、多くの者が説明を求めていた。
「断罪官殿は実験をなさっているのだ」
主任司祭は山羊髭を撫でさすりながら言った。
「言語とは、神が与え、我々神の子が進化させてきたものだ。つまりは、完全に地上ものである。故に、悪魔や悪霊に言語という概念はない。しかし、聖典の文言は神の言葉であるゆえ、悪魔を苦しめる効果がある。つまりは、聖典の文言であれば、どのような言語で話そうとも悪霊や悪魔を苦しめることができるということなのだ。断罪官殿はそれを実験されておるのだ」
カートリア主任司祭の説明に、場内の多くの者がなるほどと納得した。分からない者は近場でわかっている人間に尋ねる。
改めて説明するまでもなく、主任司祭の言葉のとおりだが、要するに、人間が作り出して使用している言語の別によって聖典の文言の効能が左右されることはないということだ。何故ならば、悪霊や悪魔は言語を話していないからである。ある悪魔には帝国語が通じるが、リトラント語は通じないということはおかしいというわけだ。これは教会の公式見解であり、これは悪魔以外の神や精霊にも共通するとされる。故に、神だの精霊だの聖人だのが憑依したとか自称する詐欺師を見破る尋問などで活用されていた。また、過去の魔女裁判においても悪霊にとり憑かれたという少女を尋問する際に活用された例もあった。
「まぁ、そういうことです」
主任司祭に解説を任せたキスはそう言って肯定し、続けてまた外国語を呟き始める。今度の言葉は多くの人間がリトラント語だと理解した。リトラントは大陸西部の強国であり、西方国家の中心的位置にある国家である。
西方大陸の文化・社会というのは西に中心があり、帝国が支配する東部はどちらかというと辺境といったイメージが強い。故に国の領土や人口では他の列国の数倍を誇る帝国ではあるが、文化・社会面においては先進国とは思われていない感がある。その帝国よりも西方大陸諸国家の文化・社会の中心とされているのがリトラントである。帝国に次ぐ国土を持ち、高い生産性と人口密度を誇る。長い歴史と伝統を持ち、多くの文化人や芸術家、作家を輩出し、大陸諸国家の文化や社会を代表してきた国である。
それ故に、リトラント語を話せる人間は少なくない。大陸の上流階級では帝国語よりもリトラント語の方が国際共通語であり、これを話せないことは社交の場において大きなマイナスなのだ。また、多くの書籍もまずはリトラント語で書かれることが多い為、学問においてもリトラント語は欠かせないものである。
キスのリトラント語はお世辞にも上手なものではなかったが、一応、誰が聞いてもリトラント語だとは分かる程度で、一応、悪霊にも何を言っているかは分かったようで、また苦しむ様子を見せた。それが分かるとキスはすぐに聖典の文言をリトラント語で唱えるのを止めた。
「もう十分ではないかね? これ以上実験しても意味はなかろう」
カートリア主任司祭が声をかけ、キスは「そうですね」と頷きつつも、手にした薄汚れた本を覗き込んで、再び呪文のようにぶつぶつ言い始めた。
今度の言葉にも、ナージス嬢は、というか、ナージス嬢にとり憑いた苦しげな悲鳴を上げた。今までと全く同じ様子である。今まで、悪霊への尋問を興味津々で見ていた聴衆も少しばかり飽きた表情を見せていた。滅多にない珍しい出来事であっても全く同じことを何度も繰り返されれば誰でもそうなるというものだ。その上、キスが話している言葉は全く何を言っているのか理解できないのだから。貴族や学者の多くでも聞いたことがないような外国語なのだ。分かるはずがない。
ただ、数人の学者は、その外国語が何語か分かる学者たちは、今起きていることが大変重要な意味合いを持つと理解し、驚愕し、緊張していた。
そして、カートリア主任司祭もその言葉を知っていた。故に、愕然としていた。
しかし、当人であるキスは何事もないかのように、ぶつぶつ言うのを止め、委員長カップエルン卿をはじめとする委員諸卿を見上げて言った。
「今の言葉は私の出身国であるカロン島の言葉です」
「何? カロン語ですと?」
委員たちが首を傾げた。
尋問の当初、キスがまだ悪霊を呼び出す前にナージス嬢に尋ねた際にも、こんな説明があった。曰く、カロン語は帝国語と非常に似ており、帝国語の方言みたいなものと言っても差支えがないほどである。というのも、そもそも、今現在、カロン島に住む人間の多くは帝国から移り住んだ者たちであり、彼らが帝国で話していた言葉が東の大陸の影響などを受けて変化しただけだからである。
故に、カロンに行ったことがない帝国人にカロン語で話しかけても十分通用するのである。わずかなイントネーションの違いと帝国では使われない単語がいくつかある程度で、文法や発音に大きな違いはない。
しかし、先にキスが呟いていた言葉は、場内の多くの者が理解できないでいた。貴族や学者といった知識層でも通じない人間は多かった。
何故ならば、
「今、私が話したのは、古カロン語という、カロン島に古くから、あー、今のカロン語を話す人々よりも以前に住んでいた人々が話している言語です」
カロンに人が住み始めたのは数千年も前といわれているが、その歴史が始まったのは、およそ二千年前に鉄の道具をはじめとする進んだ技術を持った西方大陸人が殖民都市を建設しはじめた頃から歴史書などに名前が登場するようになる。その後、カロンは東西の大陸の支配を受け、その侵略を受ける度に新たな住民が移り住むようになる。この過程で、元々カロンに住んでいた人間と東西大陸から渡来してきた人々の間で混血が進み、独自の民族となっていく。
今からおよそ千年前、カロンは独立し、独自の王国を建設する。これは第一カロン王朝と呼ばれる。その後、王位継承を巡って内戦が起こり、第一カロン王朝は倒れ、第二カロン王朝が興る。しかし、これは長続きしない。
代わってカロンを支配したのが当時の西方大陸で中心的な国家であった西方帝国皇帝の第二王子であり、今ではカロンの守護聖人とされる聖ブリアヌスである。彼が興した家がレギアン家であり、キスの遠い遠い先祖となる。このレギアン家による支配は長く続き、途中、東の大陸からの侵略で断絶するも復興し、現在に至っている。
この聖ブリアヌスの出身である西方帝国とは、今の帝国の前身みたいなものであり、民族と言語はほぼ変わらない。
聖ブリアヌスがカロンに渡り、王となったところから、カロンは急速に帝国と接近し、西方大陸、帝国からの移住者が増えたのである。つまりは、カロン人が帝国人と民族的にあまり変わらない。カロン語は帝国語とさほど違わないというのは、聖ブリアヌス以降にカロンにおいて多数派となった元帝国人の渡来者の祖先たちのことなのである。
キスが先に言った、それ以前にカロンに住んでいた人々というのは、聖ブリアヌス以降、帝国から移住する人々に追いやられ少数派に転落した元々カロンに住んでいた第一王朝、第二王朝の時代、更にはそれ以前からいた人々のことなのである。彼らは古カロン人と呼称され、その言語は古カロン語と言われる。カロンにおいて人口比率としては低くはなったものの、未だにカロンにおける人口の二割程度を占めており、古カロン語においても現在でも古カロン人が用いている。とはいえ、国際社会で使われる言語ではない為、カロン外においては非常にマイナーな言語であるといえる。
キスはその古カロン語を話したのである。
「えーと、今話した言葉を直訳しますとー『主の姿は見えず。主の言葉は聞こえず。主の愛は感じず。主に従うことはなし。主に抗い、主を疑い、主の愛を信じず』となります」
つまりは、今まで唱えていた聖リオ典にあるありがたい退魔の文句であるところの『主の姿を見給え。主の言葉に耳を傾け給え。主の愛を感じ給え。主に従い給え。主に抗うことなく、主を疑うことなく、主の愛を信じ給え』を徹底的に否定語にして唱えたのである。この言葉を聞いて悪霊が苦しむだろうか? 繰り返すが、悪霊や悪魔に言語はない。例え、何語で話そうとも聖典の言葉に力はあり、その言葉に悪霊は苦しめられる。だが、偽りの言葉では、当然、苦しみなど感じるわけがない。
ということは、何故、ナージス嬢にとり憑く悪霊は苦しんだのか? 全く効果がないはずの偽りの聖典の言葉で苦しんだのは何故か?
「その理由は単純明快です。結論は一つだけです」
キスはゆっくりと平坦ないつもどおりの声で言った。
「彼女に、ナージス嬢には、悪霊などとり憑いていないのです」