二二 飛んだ事件~悪霊の証言の真偽について
勅任断罪官キスレーヌ・レギアン・ダークラウンが悪霊への尋問を行う為には、まず、ナージス嬢にとり憑いている悪霊を呼び出さなければならない。というのも、祓魔師曰くには悪霊はナージス嬢の精神の中深くに閉じ込められている状況であり、そのままの状況では悪霊と直接コミュニケーションを図ることができないらしい。
祓魔師は何やら怪しげな香を焚いて、聖典だか何かの文句をもごもごと唱え始めた。
「何を唱えているんでしょうね?」
キスの隣に立ったクレディアが囁く。
今回、ナージス嬢を直々に尋問することとなったキスは壇上の委員席から降りて、証人席に設けられた椅子に座るナージス嬢の前に立っており、そのキスを補佐すべくクレディアはその傍らに控えていた。
「アルアリス聖外典の中にある悪魔を糾弾する書じゃないですかね」
祓魔師の文句に耳を澄ませていたキスがぼそりと呟いた。
ほとんど返事を期待していなかったクレディアはぎょっとした顔でキスを見る。普段寡黙なキスから返事がきたのは、まだしも祓魔師の聞き取りにくい文句の出所をたちどころに答えたことに驚いたのだ。
「分かるんですか?」
「えぇ、まぁ。……聖典の類は一通り読みましたから」
クレディアの問いにキスはいつものように曖昧な相槌を打ち、ついでみたいに付け加えて言った。
聖典の文句を全て覚えているかと言われても、はっきりと「否」と答えられるクレディアからすれば、かなりの驚きだった。
そもそも、クレディアたちカロン人はあまり宗教に熱心ではないのだ。というのも、カロン島は古くから西の大陸に近くその文化圏に属してはいるものの、異教である東の大陸からの影響も色濃く受けており、その両大陸の間の中間貿易で多いに栄えた島なのである。宗教というものは、基本的に他教をあまり受け入れようとはしない。どちらかといえば、排除しようとするものだ。何せ、己の神様が、教えが唯一絶対と言って憚らないのだから、当然である。ともすれば、宗教に熱心であると、他教の人と接するのは中々厄介なことになる。少なくとも、商売の場では、商売の時では、宗教を忘れて取り組むのが利益に繋がる。
カロン人は、長く異教とも友好を結び、商売をして、利益を上げてきたのだ。信仰を二の次にして、せっせと商売に励んできた連中が宗教に熱心なわけがない。一応、休息日には教会に行き、聖職者のありがたいお言葉を頂戴はするし、一家に一冊聖典を置いたり、宗教画を掲げたり、教会に寄進したりはするものの、大陸の人々に比べればその力の入れ方は明らかに弱い。一応、しないと世間体が悪いからとか、教会に異教徒とか異端と目を付けられは面倒くさいからという消極的な理由で教会に通う者も多いのがカロン島である。
クレディアもその類で、聖典なんて教会以外で開いたこともなかった。カロン人の多くはそんなものだ。
ところが、キスは聖典の中でも正本だけでなく、あまり大衆が読むこともない外典の内容まで知っているのだ。
クレディアにはそれが不思議でならなかった。キスは大陸育ちではあるが、今までの付き合いからして、あまり宗教に熱心とは思えなかったからだ。
「まぁ、そーいう手合いの本ばかり読んでいましたから」
キスは物心付いた頃から帝都近郊の教会に半ば幽閉されてきた。その彼女が唯一他人と会う機会があったのが、安息日のミサくらいだったのが、その際に、教会の図書を利用することが許されていたそうで、聖典やら何やらを片っ端から読んでいたそうなのだ。
「あー。それですね。アルアリス聖外典の中にある悪魔を糾弾する書は、悪魔祓いによく使われるのです。それに、先ほどから何度か繰り返されている糾弾するという文句は悪魔を糾弾する書によく出てくる単語なのです」
「安直なタイトルですね」
「いや、元々、タイトルはないんですよ。ただ、それでは不便なので、糾弾するという言葉がよく出てくることから、悪魔を糾弾する書と誰かが呼び始めて、その名が定着したのです」
黒髪姫主従が雑談している間に、悪魔を呼び出す儀式は、だいぶ進行していたようで、椅子に座ったナージス嬢はぐったりとしていて、手足は力なくだらりと投げ出され、頭だけは、旋回する猛禽のように、ゆっくりと回っていた。どう見ても通常の状態ではなかった。
場の誰もがナージス嬢の様子を固唾を呑んで見つめていた。
祓魔師が渋い顔でキスを見て言った。
「これで、悪霊と対話することができます」
「そうですか」
キスは素っ気無く答え、落ち着きなく咳払いした。その場にいた人々は、さしもの勅任断罪官とはいえ、悪霊との対話には相当な緊張を伴う為、緊張しているのだろうと思っていたが、実際、キスが緊張しているのは、大勢の人の視線が自分に集中しているのを感じているからだった。彼女は人見知りなのだ。
「あー。じゃあ、尋問を始めたいと思います」
キスは硬い表情と声でぎこちなく書類を手にしてナージス嬢を見つめた。
ナージス嬢の様子は、明らかに平素と違っていた。普通ではなかった。目は虚ろで視線は定まらず、表情はぼんやりとしているようにも見える。まるで何者かに操られているかはたまた何かにとり憑かれているかのようだ。
「えーと、あなたは、あー、悪霊なんですか?」
初っ端からキスは非常に間抜けた質問をした。何人かの委員が白けた顔をした。何を今更とでも言いたげである。声は抑えているもののあからさまに嘲笑する者もいる。
ナージス嬢の口から出た声は、少女の声とは思わぬほど低くしわがれた声だった。
「……我は……一万の黒騎士を従えし、魔界の騎士団長が側近アスゲルベル」
悪霊の言葉に場内から驚嘆と畏怖とが混じりあった声が漏れる。
「んー。それは、聖シルフェミアの書にある黒い騎士団の旗手アスゲルベルのことですか? あー。第三章のあたりに出てくる」
「そのとおり」
「……悪霊なのに聖典のタイトルとか内容知ってるんですか?」
キスの素朴な問いかけに対しての答えは沈黙だった。
クレディアは密かに口角を上げる。これは失言だ。悪魔、悪霊の類は聖典の表紙を見るのも嫌がる上に、聖典の文句を聞くことすら致命的であるというのが、教会の言う悪魔や悪霊であった。それくらい、聖典は重大で大事なものなので、聖典を買いましょうというわけだ。
まぁ、教会の商売は、さて置くとして、とにかく、そういったわけで、悪魔の類は聖典を読むことも聞くこともできないはずなのである。聖典を読むこと、見ること、聞くことは、悪魔たちにとっては多大なる苦痛であるはずなのだ。本来であれば、聖典のタイトルを聞いた時点で苦痛を感じるはずであり、聖典の内容なんかを知っていることがおかしいのだ。
「まぁ、それはさて置いて」
相手の致命的とも言える失言を聞いても、キスは平然と話を進めた。
クレディアは思わず目を剥いた。そこをスルーしていいのか。と、そこを責めて責めて、次の失言を引き出し、そこを舌鋒鋭く更に責めていくべきではないか。
「えーとですね。あなたは、ベアトリスさんの指示により、あー、ナージス嬢にとり憑いているそうなんですが、それは真実ですか?」
キスは再び一見マヌケな質問を重ね、多くの人々が呆れた顔をした。
「そのとおりだ」
ナージス嬢、というか、彼女にとり憑いた悪霊が低い声で答え、場内をざわめきが支配した。悪霊が、まさに、その口で、ベアトリスの犯行であると、つまりは、ベアトリスは悪魔と契約した魔女であると自白したも同然なのである。
「先の尋問のとおりではないか。やはり、ナージス嬢に悪霊をとり憑かせたのはベアトリスに相違あるまい!」
カートリア主任司祭が声を張り上げた。これ以上の尋問は時間の無駄であると続けそうな勢いである。他の多くの委員も同調する意見を述べ、傍聴席の雰囲気も大勢は決したという雰囲気を漂わせていた。
「あー、ちょっと、待って下さい」
しかし、キスは場内のもはや事は済んだという雰囲気に狼狽しつつも、待ったをかけ、壇上の委員席に陣取るカートリア主任司祭を見上げた。
「えーと、司祭様。一つばかり質問があります」
「このような状況でですか? 一体、何ですかな?」
主任司祭は先の尖った山羊髭を弄りながら渋い顔で聞き返す。
「悪魔とは、悪霊とは、つまりは、闇の眷属といった者らはどーいう連中なんでしょうか?」
キスの素朴な問いに主任司祭はあからさまに呆れた顔をした。そんな小僧でも知っていようなことを今聞いてどうするというのか。悪魔や悪霊がどんな連中かなど聖典に事細かに書かれており、それをキスが知らないなどとは主任司祭は思わなかった。
「悪魔、悪霊という連中は、強欲で狡猾で残酷で嘘吐き。違いますか?」
「そのとおりです」
キスの言葉に主任司祭は頷いた。悪魔それぞれに個性はあるものの、大概にしてそのとおりの性格をもって聖典には書かれている。強欲で狡猾で残酷で嘘吐き。大罪を絵に描いたような存在が悪魔なのだ。
「悪霊は強欲で狡猾で残酷で嘘吐きなのですね?」
「そのとおりだと言っておる!」
尚も確認するように繰り返すキスに主任司祭は苛立った様子で怒鳴った。
「悪霊は、強欲で狡猾で残酷で嘘吐きな下衆どもである!」
カートリア主任司祭の言葉に、キスは無表情で頷いた。
「なるほど。では、先の悪霊の自白は、嘘ではないのですか?」
彼女の言葉に、場内にいた誰もが凍りついた。
「悪霊は嘘を吐くものです。隙あらば、神の僕を、我々を騙し、誤った道へ進めようと常に謀略を巡らせているものです。悪魔や悪霊の言葉を素直に聞くことは大変危険であります。聖典にもこのような文句がありましたね。聖人ドレフィニス曰く「悪魔の言葉を信用することは、火の中に自らの身を置くよりも危険な行為である」と。また、第九代の総司教ベローネ一世猊下曰く「悪魔、悪霊は、常に嘘を吐く存在にて、その言を信じず、その逆を行うべし」と。さて、では、先の悪霊の素直な証言を頭から信じて良いものでしょうか?」
キスの疑問に応える者はいない。誰もが沈黙の中に身を置いていた。
「悪霊の言葉を信用してはいけないはずです。まずは、その言葉を疑い、その言葉通りに受け取ることなく、その真偽を疑うべきです。例えば、悪霊が無実の人間を犯人としてでっち上げ、我々に冤罪の者を処罰させるという罪を犯させようとしているのではないかと」
「断罪官殿の言葉は、ただの憶測です! 何の証拠もない推察ではありませんか!」
糾問官が怒声を張り上げた。
「確かに、推察かもしれません。憶測といわれても致し方ありません」
糾問官の言葉にキスはあっさりと頷いたが、続けた。
「とはいえ、悪霊の証言に疑わしきところがあるのは真実です。疑わしき証言を採用して冤罪の者を処罰することを、私は断罪官として、人民を庇護する貴族として、そして、人間として見逃すことはできません」
キスの言葉を聞いた法学者たちが口々に賛同の声を上げた。専門のこととなると途端に口が軽くなるのは人ならば誰しも同じことだ。委員長が静粛にと声を張り上げる。
「では、どうしようというのですか?」
委員長の問いにキスはぼんやりとした顔をした。何も考えてないような顔だが、何かは考えているらしい。何か思いついたらしく、ふと呟く。
「拷問します」
誰もが唖然とした。