二一 飛んだ事件~尋問の始まり
勅任断罪官キスレーヌ・レギアン・ダークラウン男爵自らによるフローレンス・ジャックアップ・ナージス嬢へと尋問は直ちに行われた。全てが決定するこの会合においては控え室に全ての証人が待機していたのだ。廷吏が会場を出て呼びに行けばすぐに済む話だ。
証人ナージス嬢は程なくして現れた。純白の絹のワンピースのような服を着ている。長く美しい金髪や白乳のような白い肌によく似合っている。委員席の前に設えられた証人席に座った姿はそれだけで一枚の絵画のようだった。
彼女の傍らには例の祓魔師が控えていた。
ナージス嬢はキスに向かって丁寧にお辞儀して見せた。今回の尋問がキスより行われることを知らされているのだろう。その表情は穏やかで大人しく控え目であったが、見ようによっては挑発的とも思えた。が、黒髪姫の方はといえば、彼女の視線を避けるように、軽い会釈を返すと、すぐに視線を落とし、がさごそと机の上の書類を引っ掻き回しながら尋ねた。
「えーと、何点かお聞きしたいことがあります。あー、ところで、フローレンスさん。貴方は大変博識だとお聞きしました、けど」
「いいえ、そんなことはありません」
キスのお世辞めいた拙い言葉にナージス嬢は謙遜して見せた。
とはいえ、そんなことは、キスにとって重要なことではない。先の問いかけも無意味なお世辞などではない。そもそも、社会経験の足りないキスには、お世辞を言うという概念があまりない。
「それでですね。貴方はいくつの言葉が分かりますか? リトラント語は?」
「存じております。家庭教師の一人がリトラント人ですので」
リトラントは西方大陸の中西部を占める大国である。大陸では帝国に次ぐとされる。文化的にも大陸では先進地であり、リトラント語を話せることは上流階級の人間には必須であった。
「なるほど。では、グリフィニア語は? オリビア語は? クライス語は?」
「グリフィニア語もオリビア語も分かります。クライス語においても、高地クライス語と低地クライス語の双方とも理解しています」
グリフィニアは北洋に浮かぶ島国である。貿易と海軍の国であり、商業的にグリフィニア語を喋られることは非常に重要となる。オリビアは大陸西部にある文化・芸術の先進国で、この国の言葉も上流階級ではよく学ばれる。クライスは帝国の隣にある中小国の集まる地域で、そこで話されるクライス語は帝国語と非常によく似ている言語である。また、内陸部の高地クライスと海岸部の低地クライスでも少々違いがあった。
「テリーデン語やバートリア語も勿論?」
テリーデンは大陸北西部の半島にある軍事国家で、バートリアは帝国の隣国である。いずれも列国の一つである。
「勿論存じています」
「素晴らしい」
キスはニッコリと微笑んだ。
「では、カロン語は分かりますか?」
「カロン語ですか? えぇ、勿論です。しかし、少しグリフィニア語や東方諸国の言葉の影響を受けていますが、カロン語は帝国語とほぼ同じですので、大抵の方は理解できると思います」
「確かにそうですね」
ナージス嬢の言葉にキスは納得するように頷いた。
「さて、ところで」
キスは話を変えるように視線をナージス嬢から離して書類に目を落とした。
「神の言葉、即ち、聖典の文句は大変尊く重要なものです。その言葉には悪をも退ける力があります。唱えれば忽ちのうちに悪魔を退け苦しめることができます。そうですね? 司祭様?」
「勿論だ。特に、聖典の中でも聖リオ典は悪魔を退けるに有力な文句が多くある」
カートリア主任司祭は髭を撫で付けながら厳かに述べた。
「具体的に一つ仰ってみて下さい」
「ふむ。『主の姿を見給え。主の言葉に耳を傾け給え。主の愛を感じ給え。主に従い給え。主に抗うことなく、主を疑うことなく、主の愛を信じ給え』ですかな。主への絶対の忠誠を求める言葉だ。諸君、悪魔に魅入られそうになった場合は、こう唱えなさい。そして、神の愛を信じ、神に忠誠を尽くすのです。さすれば、神は諸君の愛に応え、諸君を救うであろう」
カートリア主任司祭の言葉を民衆はありがたそうに聞いていた。
尋ねた本人はといえば、なるほどなるほどとしたり顔で頷いてから、ふと言った。
「あー、でも、その言葉は実際に悪魔に対して聞くのでしょうか?」
「殿下。神の言葉を疑いなさるつもりか?」
キスの疑問に主任司祭は鋭い目で彼女を睨んだ。神の言葉を疑うことなど、教会からすれば許し難いことだ。異教・異端と告発されかねない危険な発言ですらある。
「いいえ。滅相もありません。ただ、少し、私はちょっとだけ疑い深い性格でして」
そう言ってから彼女はナージス嬢を見つめ、そして、祓魔師を見つめた。
「そこで、どうでしょうか? 聖典の文句がどれほど悪魔に効くか試してみるのは。実際に行えば、どれほどの効果があるものかここにる誰もが理解することとなりましょう」
「つまり、どういうことですかな?」
委員の一人が尋ね、キスは無表情で答えた。
「ナージス嬢にとり憑いている悪霊の封印を解き、その悪霊に聖典の文句を聞かせるのです。そうして、悪霊が苦しめば真の証明となりましょう」
「ちょっと待って下さいっ!」
キスの言葉に糾問官が叫んだ。
「それは今の尋問には何の関係もないことでは?」
「関係ないことではありません。神の言葉によって悪霊を苦しめ、真実を吐かせます。悪霊そのものからの証言がなければ私はナージス嬢の今までの証言を信用することはできません」
「既に先の尋問で行ったことです」
「既にしていることならば、もう一度したところで、何か問題はありますか?」
キスの反問に糾問官は言葉に詰まった。
「……同じ行為を繰り返すことは無意味であり、時間の浪費です」
「ここで、こうして論議していることの方が時間の浪費ではないかね」
糾問官の苦しい言い訳に他の委員が声を上げた。
「そもそも、最初の尋問を、最初から公開して行うべきだったのだ」
「公開が不可能であるならば、せめて委員全員の面前でやらねば意味がなかったのだ」
「委員の大多数の見えないところで行われた尋問による証言なぞ証拠として価値を持たないだろう」
委員たちから、次々とキスを擁護する発言が相次いだ。
場の流れは完全に黒髪姫の方向へ向かっていた。
「では、やってみましょう」
キスはあっさりと言った。ちょっとお茶でも飲みに行きましょうというくらいの気軽さだった。
「ちょ、ちょっと待って下さいっ!」
先に糾問官が言ったのと殆ど同じ台詞を言ったのは、祓魔師だった。
「なんでしょう?」
これまた、キスはあっさりと反問する。基本、彼女は反応が薄いのだ。
「ここでナージス嬢についている悪霊を解き放てとのことですが、それには非常に危険が伴います! というのも、悪霊は完全に力を失っているわけではなく、一時的に力を封じているだけだからです!」
祓魔師は早口で捲くし立てるように言い立てた。
「こんなところで悪霊の力を解放しては、悪霊がどこへ行くかわかったものではありません! 誰か他の人間にとり憑くとも限りませぬ!」
祓魔師の言葉に、場の人々が大きくざわめいた。誰も悪霊なんかにとり憑かれて苦しみたいなどとは思わない。不安と恐怖があっという間に大衆の心に押し寄せる。
「では、悪霊がナージス嬢の体から飛び出していくようでしたら、私が斬りましょう」
何でもないことのようにキスは言う。その言葉を聞いた途端、誰もが耳を疑った。そして、皆が怪訝な顔をする。何を言っているんだ。こいつは。
「恐れながら、悪霊という存在は常人には姿も見えず、触れることもできぬ存在でありまして」
「常人にできなくても、聖人にはできるはずです」
祓魔師の言葉を遮るようにキスは言った。
人々の怪訝な表情は更に深くなる。この断罪官殿は自分を聖人とでも思っているのか?
「我が、レギアン家は、あー。クレディアさん」
キスは説明しようとして、途中で配下の騎士であるクレディア・オブコット卿に振った。
回廊の一角にいたクレディアは突然の指名に、一瞬、顔を強張らせたが、すぐにしゃんと背筋を伸ばし、深呼吸をしてから声を張り上げた。
「我が主君、勅任断罪官キスレーヌ・レギアン・ダークラウン男爵殿下の御血統、レギアン家の、その祖はかつて西方大陸のほぼ全域を支配下に治めたという古代西方帝国において最も優れた賢帝と謳われたカッセンデルム帝の第二子であられた聖ブリアヌスがカロン島に渡り、カロン島にて騎士や戦士、先カロン王国の当時の国王を含む一〇〇〇人もの人間を食い尽くした銀毛の大化け猫を討伐し、先カロン王家の生き残りであった姫と結婚して興した家であり、その名は大化け猫の呼び名に由来いたします。歴史は過ぎ行き、今を去ること一〇〇年前、神聖帝国の始祖の曾孫に当たり、レギアン王家の姫を妃としていた自由公ことジュリニア公フィール陛下は、東方大陸のセルド国の侵略に屈し、その支配下にあったカロン王国をセルド人の支配から救い、第二ブリアヌスと称せられ、レギアン王家を継承し、新たに銀猫王国を建国なされました。この歴史からも分かるとおり、殿下は先カロン王家のみならず古代西方皇帝家、神聖皇帝家の血も受け継いでいるという血筋のお方であらせられます」
クレディアはそれだけのことを淀みなくすらすらと言ってのけた。さすがは貴族といったところか。それとも、単に、クレディアの絶対ともいえる忠義心の発露か。
クレディアはキスの意図を察して更に続ける。
「殿下の祖たる聖ブリアヌスは一〇〇〇人の人間を食い殺す化け猫を殺した聖人であります。その聖人の血を受け継いだ殿下が低俗な悪霊の一匹や二匹を相手にできぬわけがありません」
聖ブリアヌスはカロン島の守護聖人とされるほど崇められる有名な聖人であり、カロン島の最高聖職者であるカロン大司教がいるのは聖ブリアヌス教会であるし、カロンでは聖ブリアヌスが化け猫を討伐した日を祝日としており、また、帝国の一部でも聖ブリアヌスの聖誕祭を祝っている地域もある。
一口に聖人といっても、人気も知名度もそれぞれであるが、聖ブリアヌスは聖人の中でも屈指の人気株だった。それはもう巷の庶民が知るほどにである。聖ブリアヌスの化け猫退治は童謡として歌われたりもしたし、子供に聞かせる御伽噺でもあった。
それでも、祓魔師は承服しない。
「し、しかし」
まごまごと揉み手しながら何事かぶつぶつと言いたげな様子だった。
「祓魔師殿は聖ブリアヌスの加護と殿下の血統をお疑いになられるのですかっ!?」
そこへ、クレディアが一喝する。
祓魔師はびくりと震え、慌てて首を左右に振った。
祓魔師なんていう悪魔や悪霊を相手にする仕事のくせに、中々小心者であるようだ。
ともあれ、祓魔師は聖職者の中でも階級が低い方である為、貴族の一員である騎士に強く言われれば、従わざるを得ないのも道理だ。神や悪魔を相手にする仕事であっても、人間の社会で生きる一員であるのだから。更に言うなれば、教会という巨大な組織の歯車の一つなのだから。教会ほど権威や身分、階級にこだわる社会もそうそうないものだ。
やかましい糾問官と祓魔師を黙らせた委員会は早速ナージス嬢にとり憑く悪霊の封印とやらを一旦解除して尋問を行うこととした。尋問官は勅任断罪官こと黒髪姫キスが直接務めることとなった。言い出しっぺが責任を取れっていうことなのだろうか。