一 キスレーヌ・レギアン・ダークラウン
神聖帝国の施政者にして国家元首であり、正式なる称号をもって呼べば「地上を統べる権利を神より代行せし偉大にして神聖なる皇帝陛下」の巨大にして華麗なる宮殿白亜城のある帝都は五十万という人口を抱える大陸でも有数の巨大都市である。
現代ほど多くの人を養うだけの食糧を生産できず、また、些細な病や怪我であっさりと人が死んでしまい、更には生まれた子もかなりの割合が成人する前に天に召されるこの時代であり、人口は今よりもだいぶ少ない。また、多くの人々は農村で農作業に従事することが当たり前で、農業などに従事する人が国民のかなりの割合を占める社会でもあって、五十万都市というのは、かなりの数の人口であるといえる。西方大陸には都市は数多あれど、神聖帝国の帝都ほどの人口を抱える都市は数えるほどしかない。
それほどの都市なれば、多くの物が必要となる。
都市は食糧を生産しないゆえ、近隣の農村、漁村、果ては遠くの産地より、毎日、多くの穀物、野菜、果実、肉、魚、乳製品が運び込まれる。生きたまま運ばれる家畜もいれば、乾物や塩漬け、蜂蜜漬けにしたようなものまで雑多諸々。あとは香辛料や砂糖、塩といった調味料、茶やコーヒーなども重要な商品である。
食糧の他にも、都市には市場で取引する為の商品が全国各地から集まり、そして、出て行く。衣服やその材料である木綿、羊毛、毛皮、絹、木材やそれらから作られる家具や紙、鉄、銅といった金属に金属製の武器や道具、王侯貴族の身を飾る金銀宝石の類、建物等の建材となる木材や石、セメント、レンガ。
以上にあげたような商品の殆ど全てが馬車で運び込まれる。荷車や人が担いで運び込まれる物もあるし、生きた家畜はそのまま歩かせるが、やはり、車も飛行機も鉄道もない時代にあって内陸交通の主役といえば、馬車なのだ。
日が昇ってからまだいくらも時間が経っていないにも関わらず、道は帝都に向かう馬車が幾台も幾台も行き交っていた。
通称黒髪姫ことキスレーヌ・レギアン・ダークラウン男爵こと愛称キスはそんなふうにすれ違う馬車を見かける度に、御者席に座る商人と会釈を交わしながら(かなりの割合で、彼女の黒い髪を見た商人は驚いた顔をした。或いはあからさまに怯えた)、馬車そのものとそれに積まれた商品を興味深そうに眺めていた。
黒髪姫キスはその通称のとおり、驚くほどに漆黒の長い髪の毛が印象的な少女である。が、その美しい黒絹のような髪は、不当にも彼女に十数年にも及ぶ不遇にして理不尽な幽閉生活を強いた。
神聖帝国の国教であり、西方大陸全土で広範に信仰されている西方教会において、黒という色は、その色そのものが忌まわしい悪魔の色であり、嫌悪し、忌避すべき忌まわしい色であった。帝国はじめ、西方大陸諸国の多くの人々にそれは幼い頃より安息日に通う教会の説教で教え込まれており、黒は避けるべき色というのは固定観念であったからだ。
そんな黒い髪の毛をしている者が平穏に暮らせるわけがない。
そーいった宗教的な理由と、もう一つ、彼女の父が治める銀猫王国は西方大陸と東方大陸の間の海に浮かぶ島国であり、東西交流の拠点である。王国は名目的には帝国の従属的同盟国という立場にあるが、実際、王国の帝国への忠誠は磐石ではない。東方大陸の異教の大国が海を渡ってきたとき、王国がどのような態度を示すか帝国には大きな懸案事項である。
つまり、帝国は王国を縛る首輪が欲しかった。宗教的な理由を持つキスは絶好の存在である。王国も娘一人で帝国からの服従を求める圧力の応えになるならば安いものと考えたらしい。
ゆえにキスは母国を離れ、長らく帝都に程近い教会の、しかも、鬱蒼とした森の中に一軒だけある離れに幽閉されていたのだ。
何の罪もないのに、格子のある窓が一つだけあって、扉を外から鍵をかけられるような石壁の部屋に閉じ込めて何もさせないでおくのはいくらなんでも不憫であろうと誰が配慮したのかは知らないが、彼女は部屋に閉じ込められる代わりに、教会の広い広い敷地の中にある森の中に建てられた質素ながら堅固な家に住まうこととなった。本当に幼い頃は身の回りの世話をする女中を付けられ、いくらか大きくなってからは家庭教師を付けられて、勉学と家事と食糧調達の方法を学び、数年前からは一人きりで生活していた。
そんな彼女は姫という身分にも関わらず、前述のような境遇ゆえ己の腹を満たす食物が実ることを何よりも喜びとしてきたためか、農作業に人並みならぬ楽しさを覚え、野生動物を狩り、家畜を殺し、己の手でもってそれらを解体することに何の苦も感じないという野性的な、貴族にしては奇妙奇天烈な人格を形成した。勿論、百姓や町娘としてならばさして珍しいものでもないが、彼女は国王の娘である。そんな姫は古今東西において多くはあるまい。
さて、そのような人生を送ってきたキスの生活は数週間前に激変した。
というのも、皇帝とその側近と普段帝都に駐在している多くの帝国軍が慣習である北方への遠征へ出ている隙に、帝国軍の将軍が謀反を起こし、多くの農民どもを扇動して帝都へと迫り、帝国を震撼させる重大事件が発生した際、彼女は反乱軍を迎え撃つ討伐軍に帝都に駐在していたカロン人騎士らを率いて参戦し、大きな功績を収めたのだった。
どのような理由があれ、帝国を守り救った英雄に今までと同じように幽閉生活を遅らせるわけにいくわけがない。
晴れてキスは自由の身と帝国男爵の地位、いくらかの財産(並みの貴族よりかはだいぶ見劣りするが、庶民からすれば羨むほどの財産)を手に入れた。
しかし、彼女はそのようなものにはさしたる興味を示さず、世界を見て回りたいという好奇心ゆえに断罪官という職務を得て旅を始めることにした。断罪官としての旅はつい数時間前から始まったばかりで、彼女が帝都から東へと行くのは十数年ぶりであった。というのも、彼女には知らぬことであったが、彼女がまだ乳飲み子も同然であった頃、彼女の母国から幽閉先である帝都まで今歩むこの道を進んだのである。
さて、その黒髪姫キスの外見はまったくもって王侯の娘らしからぬものであった。髪の毛は長く艶やかで美しく、これのみが気品の高さを感じさせたが、色が黒とあっては前述の理由どおり全く意味を成さない。目は切れ長だが、厳しい印象はなく、どちらかというと温和そうな印象を人に与えた。長らく日常的に畑仕事や狩りをしていたせいか肌は少し焼け、水汲みや薪割りなどの家事労働も自ら行っている為、体には程よく筋肉がついていて健康的な少女といえば聞こえはいいが、白い肌と華奢な体つきが尊ばれる貴族社会においてそれらの健やかな外見的特徴はマイナスの要素にしかなり得ない。いずれにせよ一国の姫にはまるで見えない。何処ぞの田舎娘のようだった。