一八 飛んだ事件~黒髪姫と悪魔憑きの娘
フローレンス・ジャックアップ・ナージスはミハ市では非常に有名な娘だった。
ミハ市の名門都市貴族ナージス家の一員にして、副市長の娘であれば町で名が通るのは当然どころか自然なことであり、必然であろう。
ただ、それだけではなく、ナージス嬢は大変可憐で美しいことでも有名であった。金細工のように美しく長い金髪に、白磁かミルクのように白く滑らかな肌。きらきらと輝く金色の瞳と小さな鼻、桃色のぷっくりしたかわいらしい唇を持っていた。まだまだ幼さとあどけなさを感じさせるが、あと数年もすれば、非常に魅力的な女性になるだろう。
美少女な上に、彼女は大変聡明であるという点でも評判であった。幼少の頃から大学の教授や教会の上級聖職者から学問を学び、この年にして、無意味に難解極まりないと評判で主に教会の公文書や聖書に用いられている神聖文字を読み書きし、いくつもの聖典を諳んじ、古代の偉人の哲学を解する才女との噂であった。
「要するに綺麗で頭の良い万能美少女ってことですな」
「はぁ、素敵な方なんですねぇ」
クレディアが集めた情報を聞いたキスはぼんやりと呟く。
「そんなに素敵で頭も良いお嬢様が悪霊に取り憑かれて、さぁ、大変と」
クレディアの言葉には妙に棘があった。昔、綺麗で頭の良いお嬢様にいやな目に遭わされたことでもあるんだろうか?
「いいですか? 殿下」
クレディアはこれでもかというくらいにしかめ面を近づけて、忠告みたいなことを言い出した。
「この手の頭のよく動くませたガキには要注意です。ガキだからといって、決して油断してはなりません。ガキなだけに、下手すりゃ大人よりも面倒くさいことがありますからね!」
彼女はその後も酸っぱいくらいに、耳にタコやらイカやらができるくらいに、延々と頭のよく動くませたガキがどれほど社会にとって害悪であり、腹が立つ存在かという問題について延々とキスに言って聞かせたのだった。本当に、過去に、頭のよく動くませたガキと何かあったんだろうかとキスはぼんやり思ったりした。
クレディアとナージス嬢に関する予習をしたり、頭のよく動くませたガキについてクレディアが一方的に説明した翌日、委員会の場に現れた彼女を見て、キスはなるほど、確かに綺麗で聡明そうだと納得した。
ミハ市のお歴々や多くの民衆に注目されながら、証言台に立つナージス嬢はわずか一〇歳にも関わらず大変落ち着いているようだった。この間の、魔女容疑をかけられた老女を見た後だと尚更だ。まぁ、魔女容疑をかけられた百姓女とは立場が違うというのもあるが。
ナージス嬢は委員席を見上げて、穏やかに微笑んで、丁寧にお辞儀して見せた。その微笑にしても、公式で厳格な場でも不真面目に思われない絶妙な具合で、しかも、悪霊に憑かれた少女らしく溌剌さや明るさは影を潜め、どこか悲しみ、疲れ、健気に無理をしているような微笑であった。
少女の表情を見て、自分の表情を操作して己の感情を隠す技術に劣るキスは結構感心した。キスときたら、自分の表情を操作するとしたら、なんとか固い無表情を取り繕うしか術がないのだから。
ナージス嬢の脇には白い聖職者の衣服を着た初老の痩せた男が立った。キスは「このおっさんは一体どこの誰なのか?」と首を傾げる。
「祓魔師ですよ」
隣席の法学者コーゾン博士がキスに耳打ちしてくれた。
「祓魔師、ですか?」
「ええ。あれも一種の聖職者です。基本的には洗礼の際に悪霊を祓う役割を担う者ですが、中には、悪魔やら悪霊に憑かれたという者に悪魔祓いをする者がおるのです。彼のようにね」
「あの祓魔師は有名なのですか?」
「ミハでは一番腕利きと称される祓魔師ですな」
コーゾン博士に礼を言って、キスは祓魔師を見つめた。痩せていて、尖った顎の先にこれまた尖った白い髭を生やしている。細長い小枝のような指をせわしなく絡み合わせたり解いたりしていた。なんとも神経質そうな男だ。
「あー。ゴホン。皆様、お静かに」
シュペー参事会顧問官が咳払いをして見せてざわつく場を鎮めた。
「で、あー、こちらのナージス嬢が悪霊に憑かれている、という、えー、証言をして頂きます」
シュペー顧問官の後を糾問官補佐が引き継いだ。
「では、ナージス嬢。証言を」
糾問官補佐に促され、ナージス嬢が立ち上がり、鈴の鳴るような涼やかな声で証言を始めた。
「えーと、私は、眠っていて、よく覚えていないのですけれども。三日前の夜。床に就いて眠っていたところ、夢に黒い影のようなものが現れて私の体の中に入ってきたんです。それから、記憶がなくなったり、意識が遠のいたりするようになりました。それに、急に、その、吐き気がして、えっと、吐いたら、髪や釘が口から、出てきて……」
そこまで言うと、彼女は青い顔で黙り込んでしまった。微かに震え、涙さえ出そうであった。
「そこまででよいだろう。こんな幼い少女にこれ以上辛い思いをさせてはならんだろう」
カートリア主任司祭が片手を挙げて言い、少女に優しげな口調で「そこまででよいぞ。よく頑張った」と声をかけた。
会議場にいる多くの者は、哀れにも悪霊に憑かれた少女に大変同情的な顔をしていた。委員も上の回廊にいる高位の方々も、傍聴している民衆たちもだ。
その後、ナージス嬢の悪魔祓いをしたという祓魔師が証言を行ったが、その証言の内容というのは、前日、糾問官補佐が説明したのと、ほぼ同じであった。つまりは、三日前の深夜、ナージス嬢が部屋で就寝しているところを、女中が見ると、宙に浮き上がっており、その体は黒い霧のようなものに包まれていたという。女中が慌てて家の者を呼び集めて、再び、見たところ、ナージス嬢はベッドの上に戻っていたものの、彼女は眠ったまま、神を冒涜する言葉を呟きはじめ、自分はベアトリスと契約した悪魔であり、ベアトリスの命により、この少女の体を乗っ取ったと放言した。その後、祓魔師である自分が呼び出され、夜通しの祈祷の末に、なんとか悪霊が表面に出ないように封じ込めることに成功した。
「ということは、悪霊はまだ彼女の中にいるということか?」
「如何にもそのとおりでございます」
委員の一人の質問に祓魔師は早口で答えた。彼は妙に喋るのが早口で、その喋り方がキスには妙に不快だった。
「悪霊を完全に祓うには、その悪霊を放った魔女が呪いを解くか、その魔女が死なない限り無理なのです」
つまり、ベアトリスを処刑するか、ベアトリスが己を魔女であると自白して呪いを解いてやらねばならないということらしい。自身を魔女であると自白した場合、悪魔を裏切ったものとして死刑は回避されるが、ほぼ永久に牢獄などに閉じ込められたままになる。
ベアトリスは魔女ではなく、単なる女学生に過ぎないという立場を取る委員やベアトリスの擁護者たちは、当然、反論を行った。
その反論の内容を要約すれば、つまり、ナージス嬢の証言は、第三者の証言ではなく、その証言を実証できない。彼女をはじめとする証人たちが虚偽の証言をしている可能性を排除できない。或いは彼女が幻覚を見ている可能性もある。
つまり、彼女が本当に悪霊にとり憑かれているか確認できない。もし、実際に、悪霊に憑かれているとしても、その悪霊をベアトリスが放ったという物的な証拠もない。
以上のような乏しい証拠で容疑者を処刑するのは、論理的に誤りであるばかりか、帝国の訴訟法に反する。
「では、諸君らは、このナージス嬢が嘘を吐いているというのかね?」
擁護派の反論に、カートリア主任司祭は不機嫌そうに言った。と、それを言われると、擁護派は弱い。何とも反論できず、ごにょごにょと曖昧なことを言って、返事を誤魔化す。
彼らとてミハ市民なのだ。役人である糾問官やその助手たちの言葉には明確に否と言うことができても、市でも有数の貴族であるナージス家の人間の言葉には反論し難いのだ。
ここで真っ向からナージス嬢の言葉を嘘と決めつけるのはかなり度胸のいることだ。この委員会は正式な裁判ではないが、証人は正しきことのみを述べるように義務付けられているし、証人たちは聖典に手を置いて宣誓している。
聖典に手を置き宣誓するということは、神に誓うことだ。嘘を吐いているならば地獄へ落ちても良いという宣言なのである。世の人々の多くは、神や地獄の存在を純粋に信じているし、また、真面目に恐れているのだ。神の怒りに触れ、地獄へ落とされることに現実的な恐怖を感じている。だから、彼らは安息日には教会へ通って私財を寄付し、聖地に巡礼し、教会の発行する免罪符を買い求め、貧しき者に施しを与える。
神に誓うと宣言しておきながら、偽証する行為は神への裏切りに等しい。ナージス嬢の証言を彼女の嘘であると指摘することは、彼女を神に背いた者と糾弾することに繋がるのだ。
ナージス家はミハでも有数の一族だ。そこの当主の娘を、そのように糾弾することは、ナージス家そのものを敵に回すに等しい行為なのだ。そんなリスクの高い言動を軽々しく取れる者などこの場にはいなかった。ただ一人を除いて。
「まぁ、そうでしょうね」
委員席からポツリと投げかけられた平凡な言葉に、場は一瞬にして静まり返った。
発言者はぼんやりとした顔(少なくとも傍からはそう見える)でナージス嬢を見つめながら続ける。
「先ほど、先生方が仰ったとおり、彼女の証言は、著しく信頼性に欠けると思います。こんな証言によって委員会の判断が左右されることはあってはならないと、私は思いますけど」
発言の内容は、先の擁護派の反論を支持するという、普通の議論であればかき消されるような凡庸な中身である。
しかし、ここで彼女は、カートリア主任司祭の問いの後にその発言をしたのである。
つまり、ナージス嬢が偽証しているか? との問いに、勅任断罪官キスはのんびりと肯定したのだった。
議場は、最初は静かに、徐々に大きくざわめき始めた。
夕方の街のニュースは「勅任断罪官、ナージス家に喧嘩を売る」で決定である。
更新間隔が物凄く空いてしまい大変申し訳ありません。
大変非常に反省しております。次回はなんとか早めに更新し、今月中に「飛んだ事件」編を終結させたいと思います。