一四 飛んだ事件〜罪無き者に罪を与える罰
結局、調査委員会の初会合は空転しまくった。委員長カップエルン卿の制止も、委員会事務局である参事会顧問官シュペーの言葉も全く効果はなく、聖職者二人+神学博士一人の「あの気違い女を火炙りにしちまえ」チームと参事会員、法学博士、神学博士の各一名の「あれは実験であり魔術じゃないよ」チームは激しい討論を戦わせた。法律集や聖典を取り出し、過去の人物の発言や判例を引用し、理論を唱え、相手の矛盾を突き、まさに言葉による戦いといった様相であった。残りの法学博士とキスはただただおろおろと狼狽し、困惑するばかり。まるで役立たず。こんな状況で会議が進むわけもない。カラカラカラカラと空しく空回る音が聞こえてきそうだった。
空転する会議を委員の一人であるはずのキスはただただ眺めるばかり。
「ひとまず休会とします! 休会です! 次回開催の日時は追って連絡いたします!」
委員長と事務局は匙を投げたらしい。シュペー顧問官が声を張り上げる。
休会宣言を聞いた委員たちは議論していた者たちは不満そうに顔をしかめ、沈黙を守っていたか、或いは場を収めようとしていた者たちはほっと安堵の息を漏らした。キスはバリバリの後者で、一際、深い吐息を漏らした。
「殿下。参りましょう」
ろくすっぽ言葉を発してもいないくせに、なんだか疲れた顔をしているキスに、しかめ面をしたクレディアは小さく声をかけた。
「ここに残っていると、委員や関係者の話に付き合わされ、余計に時間を食うことになりますよ」
彼女の言葉を聞いたキスは嫌そうな顔をしてそそくさと素早く席を立ち、委員たちや事務局のシュペーらに会釈をしてから、足早に退出した。
「まったくもって、大変面倒くさいことに巻き込まれましたね」
黒髪姫一行が宿にしている白鷺館の一室に戻ったクレディアは開口一番に呟き、キスもそれに同意するように頷いた。
「カートリア主任司祭殿らにとっては、あの実験は魔術に思えるんでしょうか?」
「実際にそー思ってるか、思ってねーかは知らんが、少なくとも、連中にとっちゃああの実験は愉快なことじゃなかったんだろうなぁ」
キスがぼんやりと呟くと、事情を聞いたカルボットがぼやいた。
「昔っから教会ってとこは科学ってのが嫌いだからなー。何百年か前に地球が回ってるっつー説を最初に言い出した科学者だって、教会に迫害されちまって、大学を追い出されたじゃねーか。今回のもそれと同じなんだろうよ。教会にとっちゃあ、人間が空を飛ぼうとする行為は神への冒涜なんだろうよ」
「空を飛ぼうとすることが神への冒涜になるんですか?」
キスは首を傾げる。どーも、空を飛ぶ為の実験が教会を不愉快にさせる理由が思い至らないようだった。
「ほら、昔っから神様っつのは、空の上にいるもんじゃねーか」
カルボットは上を指差しながら説明する。
「だから、まぁ、神の玉座に近づくような不届きもんは許せねーっつーこっちゃねーか?」
「おそらく、彼の申す通りでしょう」
クレディアもカルボットの言葉に同意した。
「聖典にも神に近付くという罪を犯し、天罰が下されたという話がいくつもあります。卑しきものは地を這い、神に忠実なる者は翼を持ち、神の庭たる空を飛ぶことを許される。鳥が教会で聖なる生物とされるのはそれ故にです」
「なるほど」
キスは騎士と老練な傭兵の言葉に納得したようで、こくこくと頷いた。キスの膝に座って一緒に聞いていたモンは言葉を意味を理解できなかったようで、変な顔で首を傾げていた。ムールド人傭兵は扉の側に黙って突っ立っていた。
「教会にとってあの女学生は神への接近という罪を犯した咎人であり、あの実験は魔術か悪魔の業か何かなんでしょう。事実はどうであれ。彼らはそう信じて疑わないでしょう。それはそれでいいのです。彼らの思想信条など我々には何の関わりもありませんから」
クレディアがまとめるように言い、キスは頷いてから、呟いた。
「その上で、私たちがしなければいけないことは、ベアトリスさんの身柄の安全を確保し、また、委員会をなるべく穏便に収めることです」
「あの女学生の身柄の安全ですか?」
「そうです」
キスの言葉を確認したクレディアは顔をしかめる。
「我々に彼女を救う理由も義理も利益もないと思いますが」
「確かにそうですね」
部下の言葉に素直に頷いてから勅任断罪官は静かに言葉を紡ぐ。
「罪無き者に罰を与えることは罪です。その罪が犯されるのを罪を裁く断罪官が看過してよいはずがありません。冤罪を作り出すことは重大な罪であり、冤罪を見過ごすことも、また、罪なのです。それを罪を裁く身である私が見過ごすことはできません」
そう言って、キスはちょっと満足そうに微笑むのだった。
黒髪姫一行が現状及び目的の確認を行っている頃、ミハ市郊外のミハ市の影響下にある村へ向かう人々の列があった。
数人の聖職者、数人の村の有力者、数人のミハ市裁判所の役人、そして、多数の教会の兵士。
時刻は夕闇近く、町の人々も村の人々も多くの者が今日の仕事を終え、家に帰っているか、酒場や食堂、風呂屋などで一日の疲れを癒していることだろう。
一行はいずれも険しい表情のまま無言で、人気のない村を通り抜け、村外れへ向かう。
彼らの目指す先には一軒の小屋といってもいいほどの小さな家があった。その周囲にはささやかな大きさの麦畑と小さな菜園。そして、数匹の豚が飼われていている厩舎があった。戸口にはぼさぼさの長い茶色い毛の犬がいて一行の姿を見るなり、ぎゃんぎゃんと狂ったように吼え始め、先頭を歩いていた聖職者とミハ市糾問官の助手らは顔をしかめ、足を止めた。
「誰かこの犬を何とかしろ」
狂犬病が犬や野生動物の唾液から感染することはよく知られていることで、更に言えば、狂犬病に罹患した者の生存率が非常に低いこともこれまたよく知られていることだった。
「あんたら、一体、何の用さ?」
飼い犬の騒がしい鳴き声を聞いて、小屋の持ち主が現れた。がりがりに痩せた中年の、容姿はお世辞にも美しいとは言えぬ女だった。
「あやつですかな?」
行列の先頭にいた糾問官助手は村の有力者へ確認するように尋ね、有力者は黙って頷いた。
糾問官助手は吼え続ける犬を横目に見ながら、一歩踏み出し、恭しく羊皮紙を取り出して、これが市参事会の承認を得た上で糾問官が命じたことであることを宣言した後、村はずれに一人きりで住む哀れで寂しい女に対してかけられている罪状及びその措置を高らかと読み上げた。
「マルガレータ・ツィツマン。貴様には家畜や村の麦に呪いをかけて病気にし、また、フェルディナント・コーター男爵の后の赤子を流産させる呪いをかけ、更には赤子の死体を盗んで魔女の軟膏を作り、飼い犬の背に乗って魔女の集会に参加した疑いがある。つまりは、貴様には魔女であるとの疑いがある。よって、これより、貴様の家と持ち物を調べ、また、貴様を拘束し、魔女であるか否かを取り調べることとする」
糾問官助手が目配せすると、槍で武装した教会の兵士たちとミハ市裁判所の役人たちが進み出た。
兵士たちは自身の無罪を訴えて喚き泣き叫ぶ女を乱暴に縄で縛って拘束し、引き摺るようにして連れ去っていった。途中、飼い主を守ろうとしたのか兵士に噛み付かんばかりに吼え続けていた犬は斬殺され、捨て置かれた。
裁判所の役人たちは小屋といっても差し支えない女の家の中に踏み入った。
竈では今日の夕食であっただろう山菜と木の実のスープが煮えていて、机代わりの長持の上にはライ麦の黒いパンが一欠片置かれていた。その長持には皿やコップなどのささやかな食器が入っていた。ベッドの下にも長持があり、そこには衣類や貴重品が納められていた。
役人たちは主に二つの長持の中を漁り、いくつかの薬や軟膏を押収した。
この出来事は西方大陸中で、西方教会を信仰する殆ど全ての国で広く行われていることで、ミハ市近郊においても過去に何例かあることであった。が、しかし、この事件は、先の、後に気球実験事件と称される事件と繋がることとなるのであった。
翌日以降も数日の間、調査委員会は空しい空転を続け、委員たちの殆どは激しい論争を繰り広げ、キスはただただ議論を見守り、どこに上手く着陸させたものかと委員長のカップエルン卿やシュペー参事会顧問官らと頭を悩ませた。
一方で、ミハ市糾問官の命令により逮捕された哀れな女は市裁判所の地下牢に押し込められ、厳しい尋問を受けた。
魔女には体のどこかに「魔女のしるし」というものがあり、そこから悪魔が力を入れるとのことで、そこは針で突いても痛みを感じないという話であった。よって、魔女と疑わしき女が捕まえられると必ず「魔女のしるし」が探される。体中の毛を剃り落とされ、あちこちを針で突かれるのだ。この針には手元のスイッチで針を引っ込めることができるような道具もあったが、大抵の人間には体のどこかには痣やおできなどの感覚の鈍いところがあるものだ。
今回、逮捕された女も「魔女のしるし」を見つけられ、魔女と断定された。その上、家にあった軟膏を赤子の屍から作るという「魔女の軟膏」であるとされ、また、更には教会の兵士に噛み付こうとした犬は使い魔に違いないと決め付けられた。
女は独り者で、親戚縁者もなく、彼女を好き好んで擁護しようとするような者もいなかった。もっとも、大抵の魔女裁判ではそういう者ばかりが最初に訴えられるのがお決まりのパターンなのだ。
また、魔女と疑われた女は拷問にかけられることになる。刑法においては犯人と断定されない者を拷問にかけることは厳しく禁止されていた。何故ならば、拷問によって得られた証言は全く信憑性がないからである。しかし、何故だか、魔女裁判に関してはその刑法の規定は適用されず、殆ど無制限に拷問が行われた。というのも、魔女という存在は身も魂も悪魔に売り渡した教会世界全体の敵であり、なんとしても正体を暴き、厳しく罰しなければならないという理念があったからである。その為ならば、特別の措置を取らなければならず、通常の犯罪と同じような措置ではならないとされていたのだ。
女は家畜を打つための革の鞭で激しく打たれ、焼いた鉄を押し当てられ、水をかけられ、何日も飲まず食わずで、しかも、一睡の睡眠も許されない状態に置かれ「自身は魔女である」と自白することと魔女の仲間を告発することを強要された。
結局、女は焼いた鉄の釘で手足を打つと脅されたところで自白し、魔女集会で何人か村の女を見たと証言した。
そこで、糾問官助手は問うのだった。
「ベアトリスという女学生を見なかったか? 見たであろう? そうであろう? どうなのだ?」
女は「ベアトリスという女学生」と会ったことはなかったし、一体、それが誰かなど全く分からなかったが、ただただ痛みと苦しみと悲しみで朦朧とする意識の中、糾問官助手や尋問官の言葉に頷き、肯定し続けた。