序 勅任断罪官とは何たるか?
黒髪姫征戦記の続編でありますが、前編を読まなくても、別個の物語として大丈夫なようにしております。
西方大陸の東部一帯を治める大国神聖帝国宮廷の一官職たる勅任断罪官という役職はさほど頻繁に任じられるものではない。
そもそも、断罪官とは何か? この点について何も触れずに話を進めることは不可能ではないが、説明があった方がいいのではないだろうか?
ゆえに、いささか長々しくなるかもしれないが、断罪官とは何たるか説明することとする。
断罪官とは書いて字の如く、罪を裁く役人のことである。
この時代、現代ほど世界は平和ではなく、治安は安定せず、犯罪は世に溢れ返っていた。
貧困は犯罪の温床であるとはよく言われることで、これは大きな割合で真理といえる。
そして、この時代、貧民街に人は溢れ、何らかの原因で作物の実りが悪ければ百姓はすぐに餓えた。そういった貧しい人々を救う為の仕組みなどこの国どころかどこの社会にも存在しない。本格的な社会保障が生まれるのはこれよりもいくらか時を経なければならない。よって、貧困や餓えに苦しんだ人々は教会や領主に救いを求めたが、生憎と神の救いにも、領主の慈悲にも恵まれなければ、已む無く、或いは進んで、容易に犯罪に手を染めた。
万引き、引ったくり、泥棒、強盗といった貧しさを原因とする犯罪が貧しさゆえ日に何十何百という件数で起きている。
また、犯罪は貧者の特権ではない。貧しくもない者も、様々な感情的な理由、己の欲望等で、簡単に罪を犯す。前述した犯罪の他、詐欺、傷害、殺人、強姦といった犯罪も毎日どこかで起きている。人を傷つけたい、殺めたい、犯したいといったサディスティックな心理は何も最近になって人々の心に生まれたわけではない。猿ですらしなくてもいい殺生をすることがあるのだからサディズムは原始的本能的な心理であるともいえるのかもしれない。
更には犯罪を生業にする不届きな輩も世には多い。街には強盗団や盗賊団、窃盗団といった輩が潜んでいたし、山には山賊、海には海賊がのさばっていた。犯罪による利益は時に一般に合法的に稼げる利益の数倍、数十倍に上るゆえ、刑罰というリスクを負ってでもハイリターンを求めて手を染める者は少なくなかった。
普通の商業活動にしても、現代から見れば、詐欺とされてもおかしくないような商法、或いは当時の法律でも非合法な商売も多く、それらは騙された方が悪いとして済まされることが多かった。
少々寄り道したが、つまり、犯罪は現頻繁に発生するもので、ありふれたものであり、最早、日常ですらあった。どこそこの家に泥棒が入ったとか、どこそこで誰かが殺されただの、ということは、泥棒に入られた家の住人や殺された人物が身分ある人物であればニュースにもなるが、泥棒に入られた家が貧しいあばら家であったり、殺された者が乞食だのであれば、大したニュースにもならない。
また、その犯罪を処断する仕組みというものにも事欠いていた。犯罪を禁止する法律と一応の裁判機構は存在したものの、そもそも、警察機構というものが存在しないのだ。犯罪を防止し、発生した犯罪を調べ、犯罪人を逮捕することを専門の任務とする組織もこれまた世にはまだ存在しない。
王宮や城壁を警備する衛兵や関所や市場の番人、領主の家来などがしばしば警察活動を行ったが、彼らとて専門に犯罪を防止し、調査し、探してまで罪人を逮捕することに専念することは稀だ。彼らは外敵や民衆から高貴な人々の生命と財産を守り、民衆を政府の命令に従わせることを本来の職務としているのだ。警察活動は副次的な役割に過ぎず、その働きも不十分であったし、彼らの活動範囲と権限は大きく制限されていた。
被害者が身分ある人、或いは資産のある人であれば、自分の手(つまり、自分が雇った者によって)で犯人を捕らえ、処罰を求めることも、賠償を要求することも可能ではあるが、当然、貧乏人にはそんな金も時間も力もない。結局、泣き寝入りすることも少なくはない。
これではいつまでも犯罪が根絶されず、犯罪が横行し、罪人が跋扈するのも当然といえる。
施政者もこのような現状を遺憾と思うことはあった。何しろ、犯罪者は納税をしないからだ。商店から物が盗まれ或いは奪われると、その商品が売買されたときに発生するはずの税金が納められないことになるし、人が殺されれば、その人が寿命まで生きて収めるはずだった税金も失われる。納められるはずの税金が一銭でも失われることは施政者にとっては由々しき事態だ。
そんなわけで、帝国の治安維持を担う(彼らの職務である治安維持とは当然、庶民にとっての治安維持ではなく、政府と身分ある人々のための治安維持だ)内務大臣や治安総監、公安長官、その配下の役人たちは考えた。犯罪を専門に取り締まる役人がいればいくらか犯罪を減じられるのではないか? そうすれば庶民の不満をいくらか減じ、納税額を減らすこともなく、また身分ある者のうち、品行の宜しくない連中の綱紀粛正もできるのではないか。
そういったわけで断罪官という役職は設置された。
断罪官の職務は犯罪を取り締まり処断することである。
例を述べるならば、まず、何らかの犯罪が発生したとする。とすると、断罪官はその犯罪を調査し、被害、犯行状況、犯人の人相・特徴等を聴取し、犯人を探し出し、容疑者を取り調べ、犯人であることが確実であるとされた場合、逮捕する。その後、その犯行に応じた処罰を下すことを任務としている。
つまり、彼らは一人で犯罪を調査し、犯人を逮捕し、容疑者を訴追し、求刑し、判決を下すことができる。一人で警察官と検察官と裁判官を兼ねているようなものだ。
というのも、裁判所というものは、領主の主催する裁判か帝都にある高等法院、教会の裁判があるのだが、これらの裁判所で主に審理される事柄は主に重犯罪や貴族や騎士、教会、修道院のトラブル、宗教関連である。庶民の軽犯罪が審理されることは稀であり、そもそも、庶民には裁判に際して必要な資金を拠出することができない。
故に、基本的に軽犯罪は大した審理もなく、領主か領主の代理人の判断により即決で判決が下される。それならば、領主の代行として断罪官が即決で判決を下したところで全く問題がない。領主に報告は為されるし、領主も煩雑な事務の一つが減って楽になるので文句を言うことは少ない。犯罪に対する罰金は領主の重要な現金収入の一つではあったが、断罪官は罰金刑を下した場合、その罰金は領主の裁判所へ収められることになっていたので、これまた文句は出ない。
そんなわけで、断罪官はかなりの権限を有しているが、これは庶民の軽犯罪に限られ、重犯罪の判決は領主の裁判所に委託され(その裁判に断罪官は参加しない)、貴族や騎士の犯罪は捜査と逮捕には特別の許可を必要とし、審理は領主の裁判所か高等法院に委託されることとなっている。つまりは、貴族に対して断罪官は無力に近い。
かなりの権限があるように見えるが、実際には貴族に対しては犯罪捜査を行う許可を高等法院に求めるくらいのことしかできない。その上、主たる職務である庶民の軽犯罪捜査は業務多忙で面倒くさく、利得といえば犯罪を見逃す際、或いは刑罰を軽くしてやる際に懐に入る賄賂くらいしかない為、小貴族にとってすら役不足な官職である。よって、断罪官に就く者は主に中級以下の役人が主であった。
ただし、その例外が存在する。その例外こそが勅任断罪官である。
通常、断罪官は治安総監か公安長官によって任じられるが、勅任断罪官だけは特別に皇帝直々に任命されることとなっている。皇帝に直接任命されることとは名誉的な意味もさることながら、その権限にも大きな箔が付く。皇帝直々に治安維持を命じられているという大きな名目が立つ。
その為、勅任断罪官は領主の裁判に参加する権利を有し、貴族や騎士の犯罪を捜査し、場合によっては相手が公爵であろうが皇族であろうが事情を聴取する権限まで持っている。さすがに逮捕には皇帝か高等法院の許可を必要とするが、貴族にとっては警戒するに値する職務であり、政敵を陥れるには絶好の職務でもある。ただし、やっぱり、その業務は面倒くさいし、利益も少ないので、なりたがる者は多くは無かった。
その上、定数もなく、皇帝が直々に任命しない限り、空席でも全く構わない非常任な役職な為、その職に就いた者は少ない。数ある官職の中ではあまり有名ではない職務である。
神聖帝国に従属的な同盟国である島国銀猫王国の第四王女、通称「黒髪姫」ことキスレーヌ・レギアン・ダークラウン男爵が、帝国における反乱騒動の鎮圧にひとかどならぬ活躍を見せたことの褒賞として勅任断罪官という職務を望んだのは、特段、陥れたい政敵がいるわけでも、犯罪を見逃す賄賂をあてにしたわけでも、この世の犯罪を根絶し、弱者を守りたいという正義感を持っていたからでもない。
彼女が勅任断罪官という職務に魅力を感じたのは、断罪官の設置を定めた法令「断罪官規則」に記述されている「断罪官は犯罪を取り締まる為、帝国国内を内務大臣が定める範囲において自由に移動する権利を有する」という条文であった。
彼女はさる宗教的・政治的な理由によって長らく教会の施設に幽閉に近い暮らしを強いられたきた為、世界の姿を本や書類の文字としてのみでしか知らなかった。世界の姿を直接己の目で見て回りたいと望んだ彼女にとって断罪官の自由に帝国国内を移動できる権利は大変魅力的に見えたのだ。
しかも、勅任断罪官は、何かトラブルがあれば「捜査」を理由に自由に首を突っ込む権利を持っている。これもまたあちこちを見て回り、興味深い出来事を見知るには大変都合が良い。
そのような理由で彼女は勅任断罪官という職務を得て、辞令を受け取ってから、幾日もせぬうちに帝都を発した。
キスは勅任断罪官である前に、帝国男爵であり、銀猫王国第四王女である。人並み以上の剣術や馬術を持つキスではあるが、一人でそこら辺を自由に歩き回ることは危険極まりない。そのような事由により、彼女には護衛と世話のための四人の従者が付いていた。
一人は生真面目でキスに忠実でいささか頑固なカロン人(銀猫王国の主要民族)騎士クレディア・フレンシア・オブコット卿。
残りの三人は傭兵であるが、誰もが先の反乱騒動においてキスと戦いを共にした仲であって、親しい関係を持っている。
天真爛漫で無邪気なフェリス人傭兵モン。飄々(ひょうひょう)としていて面倒見のいいラクリア人傭兵カルボット。あとの一人は謎なムールド人傭兵。
まるでバラバラな個性を持っている上に、互いのことをさして知り合っているわけでもないが、まぁ仲はいいという、チームワークがいいのか悪いのか全く不明な五人組は、とりあえず帝国のあちこちを見て回るという曖昧模糊とした理由の旅をするのであった。