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第八話 嵐の前の静けさ

夏休みまであと四日と迫った七月十五日。その日はテスト明けで、久々に僕の唯一好きな教科である美術の授業があった。

 美術の担当教師である向井先生は基本的に自由である為、授業は言ってしまえば緩い。その為、美術の授業は生徒から人気があり、テスト明けということも相俟ってみんな足が地についていない様子だった。


「保志くんは何描くの?」

「んー、どうしようかな。みずきさんこそ何を描くか決めた?」


 今日の美術の授業で出された課題は『一学期の集大成。入学してから今まで、この学校で最も印象に残っている事を絵にしなさい』というものらしい。注釈を付けると、絵の具を用いて描かなくてはいけないという制限はある。

 ちらほらと授業中だというのに教室から出ていくクラスメイトがいるのを見ると、どうやら自由行動らしい。この上なく自由な授業だ。


「私は自分たちの教室を描こうかな。やっぱり、思い入れが一番深いから」

「そっか、まあそうだよね。印象に残った事と言われても、ずっと教室にいるような一学期を過ごしていたから、僕も教室を描くよ。と言っても、いつも通り教室から見た景色を描くだけなんだけどね」


 そう言って僕は授業開始時に配られた画用紙に、今から描こうとしている絵の完成像をイメージする。

 左隣を窺うと、水無瀬さんは描く絵を決めかねているようだった。


「月ちゃんは何を描くの?」


 さすが委員長。困っていそうな人がいるとすかさずフォローを入れる。


「えっと、では私はみずきさんと保志さんが会話している姿をモチーフにします。ですので、絵を描きながら話していてもらえますか?」

「あ、うん!わかった!」


 いや、僕はまだ了承していないのだが。

 まあしかし、僕はみずきさんと会話を交わすことにも随分慣れてしまったみたいだ。


 元気よく返事したみずきさんは、早速僕と他愛のない会話をするべく、様々な話題を振ってきた。

 僕らはまるで三角形の頂点を結ぶかのように、互いの事を見つめて絵を描いていた。僕はいつものように窓からの風景を描くべく水無瀬さんの方を見ながら絵を描き、水無瀬さんは僕と会話しているみずきさんを見て絵を描き、みずきさんは教室を描くと言いながらも水無瀬さんのリクエストに応じるべく僕と話す為に必然的に僕の方を見て絵を描く。三者が一周するように互いを見つめて絵を描いている光景は、きっと傍から見たらかなりシュールな絵面になっていただろう。


「月ちゃん、緑色の絵の具貸してくれない?こっちの絵の具、何色か抜けちゃってるんだよね」


 学校から貸し出された絵の具を使っているのだが、やはり学校の用具は万全ではないらしい。


「あ、はい。どうぞ」

「それ赤色だよ月ちゃん!間違えてる間違えてる」


 苦笑混じりにみずきさんは水無瀬さんの間違えを指摘する。


「あ、すみません。寝ぼけていたみたいです」


 水無瀬さんは絵の具を箱ごとみずきさんに渡した。


「ありがと!って水無瀬さんのにも緑色無いじゃん!じゃあ保志くん貸してくれるかな?私と月ちゃんで使うから」


 みずきさんの言い草が僕のことを欠片も考慮されないことに文句の一つも言いたくはなるが、結局なにも言えないのが僕である。素直に手渡した。


「保志さんも使いたいとき言ってくださいね」

「ああ、そうするよ」


 優しい水無瀬さんだった。

 尤も、僕は絵の具を使っては満足に描けないのだ。使われていても問題はないだろう。課題には反してしまうが今回の絵も鉛筆のみで描くことにしよう。そう決めると、心なしか絵の進みは早くなった。

 かくして僕らは三者三様の絵を美術の時間をいっぱいに使って描き上げた。


 僕は鉛筆だけで仕上げたモノトーンの絵を、水無瀬さんは相変わらずの天才的な色彩豊かな絵を、そしてみずきさんは僕の絵の色が見えたことから予想はしていたが、才能溢れる個性的な絵を描いていた。


 絵を提出する際に、僕ら三人は互いの絵を見せあったが、それは三つの絵が繋がるようになっていて、むしろ三つを繋げて一つの絵にしてこそのものだと思えた。

 その繋げた絵を見ている僕らは自然と笑みをこぼした。それはまるで、絵の中の僕らが三角形に互いを見つめ笑みを交わし合っている様子そのもののように思えた。


 これは後で聞いた話だが、僕ら三人に交流があったことを知らなかった大半のクラスメイトは、笑い合っている三人を見て、狐につままれた様子だったらしい。

 普段は表情の乏しい水無瀬さんが僕に笑いかけていたり、クラスの人気者であるところのみずきさんが今までずっと孤立していた僕と馴れ馴れしく話していたりと、そんなところを見られてしまったせいで、残りの三日間の学校は嫉妬と羨望に満ちた眼差しが全方位から向けられ、僕にとって教室内が針の筵以外のなにものでもなくなってしまった。


「保志と水無瀬と蒼井は、今日の放課後美術室に寄るように」


 入学して以来、初めて教師から呼び出しをくらった。美術室といえば、向井先生専用の職員室みたいなものだ。


「先生、私今日用事があって残れないんですけど、後日じゃだめですか?」

「なら蒼井は明日の朝、職員室に寄るように」

「えー、職員室って苦手なんですよね」

「なに、心配せずとも説教ではないよ」


 なぜかとても嫌な予感がしてきた。蒼井って誰だ?


「保志さん、呼び出される理由って何でしょうね?」


 人がいる中で声を出すのが未だに恥ずかしいのか、水無瀬さんは僕の耳に片手を覆い耳打ちした。

 どう考えてもそっちの動作の方が確実に目立つのだが、水無瀬さんは気づいていないのだろうか?

 僕は男子の鋭い視線を全身に浴びていた。


「なんだろうね、僕ら三人が揃って似てる絵を描いたからかな?それより蒼井って……」

「ということだから、悪いんだけど今日の放課後は二人で美術室行ってね」


 目の前には両の手のひらを合わせてウインクをしているみずきさん……もとい蒼井さんがいる。


「えっと、みずきさんの名前って蒼井って言うの?」

「あはは、ばれちゃったね。今更だけど私の名前は蒼井みずきだよ」


 顔が火照っていくのがよくわかる。僕は今までクラスメイトの女子を下の名前で、ファーストネームで呼んでいたというのか。


「な、なんで教えてくれんかったんだよ、僕ずっと下の名前で……」

「だってさー、前に私から名乗ろうとした時、保志くん私のことみずきさんって呼んでくれたじゃん。だからそのままにしておいた方が楽しいかなって」


 クラス中の男子から鋭い視線を感じる。みずきさんを、いや蒼井さんを下の名前で呼んでいたことが余程羨ましいのだろう。改めて感じる彼女の人気の程。


「楽しいって、ただの嫌がらせじゃないか」

「嫌がらせって感じちゃった?私は実際楽しかったけどなー」

「嫌がらせだよ。今逃げ出したいくらい恥ずかしいさ」

「それはお互い様だよ。私だって最初いきなり名前で呼ばれた時恥ずかしかったんだから」


 嬉しかったけどね。と、そう小さく付け加えたのを聞き取ったのは、その場には水無瀬さんしかいなかった。


「あ、いや、それはごめん」

「それとも、保志くんは私のことを名前で呼ぶのがそんなに嫌だった?」

「別に嫌ってわけではないけど……」


 ますます強まる男子達の視線。その視線だけで僕の体が蜂の巣にでもなってしまいそうだ。


「ふーん、そんなに嫌だったんだぁ」


 ここは僕が折れるしかないようだった。いっそ吹っ切れてやろう。


「全然、これっぽっちも、全く以て嫌じゃなかった。むしろ今思えばご褒美のようなものだよ。これでいいでしょ、蒼井さん」

「みずき」

「……みずき、さん」


 僕が口を開く度に男子の視線は更に強化されていく。そろそろ僕の体から新鮮なトマトジュースが出てきてもおかしくはなさそうなくらいだ。


「んまあ、良し。それで許したげる」


 結局これからも下の名前で呼ばないとこの委員長は許してくれなさそうだった。

せめて、気づくことがなければ恥ずかしくなかったし、男子の目も気にしなくて済んだというのに。


「ふふ、保志さん大変そうですね」

「ああ、とてつもなく大変だよ」


 肩を竦めて、大変さをアピールする。

 今は水無瀬さんの暖かな視線だけが僕の唯一の救いだと思えた。


「え、まさか水無瀬って名前、下の名前じゃないよね?」

「さすがにないですよ。ふふ、私の名前は水無瀬月、月と書いてゆえと読むんですよ」


 水無瀬さんはからかうように言った。

 そして、なぜだかやけにファーストネームを主張する水無瀬さんでもあった。


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