第七話 僕の新たな日常
翌日、学校での時間は何事もなく過ぎていった。
みずきさんが時々話しかけてくることはあったが、昨日意気投合したようにも思えた水無瀬さんが話しかけてくることはなかった。僕もこれといった用があったわけでもないから話しかけることはなかった。強いて言えば、朝に昨日借りた傘を返したことくらいだった。
そして、僕は今日も絵を描けずにいた。空席が埋まったことによって僕の絵のモデルとなるべき対象は水無瀬さんに移ったわけだが、無断で他人をモデルにするのはどうかと思ったし、だからといってモデルをお願いする気にはなれなかった。
そのままダラダラと授業内容を半ば機械的に板書する作業を六回程繰り返し、気づけば放課後になっていた。
今日は絵を描いてない為、放課後に居残る理由は特にない。だから偶には早く帰宅してのんびりしながら手の凝った夕食でも作ろうかと考えながら帰りの支度をしていた。
「んん、まずは和食にするか洋食にするか中華にするかを決めないと。仕込みに時間の掛かる物は作れないな……」
久しぶりのちゃんとした料理とだけあって献立決めから力が入る。
と、そんな時、左隣から消えるような声がした。
「ちょっとまってください……」
「どうしたの?」
「…………」
僕の問いに対する返事は無かった。長い沈黙。その間にも僕らを除くクラスメイトは教室から出ていく。毎日のように遅くまで残り、雑談に花を咲かせる女子達も今日はどうやら早めのご帰宅のようだ。
時間が過ぎていくにつれて僕の脳内では時間的に調理可能なメニューが次々と消えていった。
「バイバイ保志くん、月ちゃん!」
元気よく挨拶してくれたのは言わずともわかるようにみずきさんだ。水無瀬さんも僕と同様に人から声を掛けられることに慣れてないらしく、たじろいでしまっている。僕と水無瀬さんは全く同じ動作で全く同じタイミングで手を軽く左右に振ることでその挨拶に応えた。
数分と経たないうちに教室は僕と水無瀬さんの二人になっていた。
ようやく水無瀬さんは口を開いた。
「どうやら私は、人の多い場所で声を出すのが恥ずかしいみたいです」
「ああ、それは僕もよく思うことだよ」
普段一人でいる者特有の感覚に互いの理解が一致したことにより一つの笑いが生まれる。
水無瀬さんは、既に孤立気味だった。最初こそ転校生に似た扱いをされ男女共に水無瀬さんにあれこれ構っていたのだが、今日の放課後になる頃には水無瀬さんのリアクションの薄さのせいで近づく者は次々と減っていった。
今となっては、感情の乏しさと常人離れした美貌が相俟って、男子には高嶺の花の深窓の令嬢だと言われ、女子には顔だけがいい無愛想な子と妬まれていた。
学校内でのカースト制上位に位置するであろうみずきさんのグループが昼食を一緒にと、水無瀬さんを誘っているのを見かけたが、丁重に断られていたみたいだった。
「ところで何か用でもあった?」
「用と言うほどのことではないんですけど、呼び止めてすみません」
「別にいいよ。帰ってもやることなんてそんにないし。それでどうしたの?」
「今日は絵描かないのかなと思いまして。いつも放課後まで残って描いていると言っていたので、その様子が見たいなと」
「そういうことか。でも今日は描いていないんだよ。というか描けなくなってしまったんだ」
「どうしてですか?」
「僕の描く絵のモデルは、一昨日まで空席だった水無瀬さんの席なんだ。教室に一つだけ空席があるなんて変だと思ってね。きっと何か意味があるはずだと思って、その席に座る人を空想して描いていたんだ」
そして、君が空席を埋めてくれたんだけどね。僕はそう心の中で呟いた。
「でも、私がこの席を埋めたせいで想像は現実となり、実際に人がいると描けなくなった、ということですね」
「あ、ああ。そういうことになるね」
やけに察しの良い水無瀬さんだった。
「なるほどなるほど。金髪で西洋系の顔の女性が保志さんのタイプなんですね。空席を埋めたのが私ですみません」
「えっ、いや!そういうわけでは……」
水無瀬さんが持って帰っていたあの時の絵のことを言っているのだろう。そんなこと言ってしまえば、今まで様々な人を描いてきている僕の異性のタイプは凄まじいことになってしまうではないか。
「冗談です。ふふ」
悪戯っぽく水無瀬さんは笑った。いつものように薄い表情ではあったが確かに笑った。
やっぱり、水無瀬さんも年相応の女の子なのだと、遅まきながらに理解した僕だった。
「でも絵が描けないのは困りましたね」
「そうだね。習慣でもあったから学校での時間を持て余してしまうよ。休み時間とか、暇な授業中とか」
「授業中は勉強してください。でもそうですね、確かに一人でいる学校というものは暇ですね」
「水無瀬さんはもっと愛想よくしていれば、友達なんてすぐにできると思うけどね」
そう言った直後、それは失言だということに気づいた。
逆にいえば、今が無愛想だと言っていることになる。
「いえいえ、保志さんには言われたくありません。保志さんこそ私に負けないくらい無愛想ですよ?私はいいんです。私はぼっちのプロですから。プロフェッショナルですから。それこそぼっち歴はきっと保志さんより長いと思いますよ」
そんな事を言って彼女は僕の失言を気にも留めていないようだった。
ほんと、どうしてこれで友達がいないのだろうか。
「それに」
「ん?」
「それに私は、同い年の女の子と最近の流行の話をするより、無言でも保志さんと絵を描いている方が楽しいということに気づいてしまったんです」
「そんな評価、僕には勿体ない。身に余る思いだよ」
これが、素直な感想だった。照れて恥ずかしくて、ぶっきらぼうになってしまったことは否めないが。
「なら、その余った思いと時間を使って、絵を描きましょう」
「でも、何を描けばいいのかわからないんだ」
「そんなの、今まで通りに隣の空席だったこの席を描けばいいんですよ。私をポートレートのモデルにしちゃえばいいんです」
「え?」
「だから、私の姿を絵という形で残してくださいと言っているんです。今まで想像でい描いていた人物を私に置き換えて描けばいいんですよ」
「それはわかるけど、いいの?」
「私から言ったことなんですから、いいんですよ。むしろ描いてほしいです」
「わかった。なら明日、水無瀬さんをモデルに描いてみるよ」
「いえ、今から描くんです」
「今からって、本気?また昨日みたいに帰るの遅くなるよ」
「本気も本気です。今日は雨は降っていないので、帰りの心配はありません。もし雨が降っていても私の傘をお貸しするので安心してください」
朝のうちに返していた折り畳み傘を、水無瀬さんはチラチラ見せてくる。
「雨の心配なんてしてないんだけどな……」
僕の夕食は、巻き寿司でも、アラビアータでも、麻婆豆腐でもなく、昨日のような質素な物になることが決定された。そして、満員電車で潰されて帰ることもまた決定された。
「それにしても水無瀬さん、だいぶ砕けたよね。遠慮がなくなったというか」
苦笑してしまう。最初は落ち着いた子かと思っていたけれど、その実頑固な一面があったり、そう思っていると時折薄くはあるものの笑顔と呼べる表情を見せる。
「ふふ、そうかもしれないですね。ぼっち同士だからですかね。すみません」
ほら、今も微笑んだ。そんな顔して笑えるんだなと、ついつい見蕩れてしまう。
「どうしたんですか?さあ、早く描いてください」
「まだ了承していないんだけど」
なんて言いながらも僕は画用紙と絵画用の鉛筆を用意している。
「でも、保志さんはきっと描いてくれると思っていますので」
彼女の喜ぶ姿を、笑顔を見たいという理由で、僕はこうして絵を描く準備をしてしまっている。僕は案外単純な人間なのかもしれなかった。
「わかったよ。じゃあ特に何も意識しないで、リラックスして読書していてもらえる?」
「読書、ですか。はいわかりました」
読書と言ったのはモデル側が退屈しないようにという僕なりの配慮だったのだが、もしかしたら杞憂だったかもしれない。水無瀬さんは僕が絵を描いているのを見たがっているようだった。しかし、それだと僕が集中できないのでやはり読書をしていてもらうことにした。
「絵は出来てからのお楽しみだよ。だから気にせず読書していて」
二度目のはい、という返事で水無瀬さんは物語の世界へと入っていったようだ。しかし、予想はしていたが本を持つだけで彼女は絵になるものだ。まあそれこそ、文字通りにこれから絵にするわけだが。
こうして僕らの最初の描画会が始まった。
終始「モデルになるのってこんなにも恥ずかしいものなんですね」などと言っていたが、終わる頃には楽しんでもいたようで、絵は二時間もしないうちに完成した。
お試しといった感じで手軽に描いたものだったが、水無瀬さんは喜んでくれたようだった。
「私の髪って茶色なんですね」
僕の白黒で描かれた絵から当然のように色が見える見える水無瀬さんはそんな感想を漏らした。
「何か変だったかな」
「そんなことありません。ただ、保志さんの目から見て私はこんなにも綺麗に映っているんだなと思ったら嬉しかったんです。綺麗な茶色になってて良かった」
なんだか、凄まじく恥ずかしいことを言われた気がした。
全く気にしていなかったが、ポートレートというのは描き手がモデルをどう見ているかということが筒抜けになってしまう。それは相手に直接綺麗だね、なんて言葉をかけるよりも嫌な羞恥心があった。まあそんなことを言ったことはないのだけれど。
「髪染めたのはつい最近だろ?それなら自分の髪がどんな色に染まっているかわかっているよね?」
「それはそうなんですけど、でも自分の髪色はこの絵を見て初めて知りましたよ」
「それはどういうこと?」
「言葉のまんまの意味です」
どういうことを言っているのだろう。
自分が見ているものと、他者から見ているものでは、同じものでも違って見える。故に容姿という他者からどう見えているかが重要であるものを、僕という他者の視点からどう見えているか、ということを知りたかったのだろうか?
確かにそういった意味では僕の描いた絵というのは、完全に他者の視線と言えよう。だが、果たして水無瀬さんの言葉はそんなことを気にしての発言だったのだろうか。
「それにしても、いつもその色鉛筆を持ち歩いているよね」
モデルを終え、絵を描く僕の姿を見て創作意欲が湧いたのか、今は絵を描いている水無瀬さんにそう訊ねる。
「はい、私にとってこれはお守りみたいなものなんです」
「お守り?」
「はい、お守りです。これは私が初めて手にした絵画用品なんですよ。どこにでも売っているような、市販の色鉛筆なんですけどね。当時の私が我が儘を言って買ってもらったもので、それ以来手離せなくなってしまったんです」
水無瀬さんは懐かしむように、次々と言葉を紡ぐ。
「もちろん色鉛筆自体は使えば減ってしまうので、なくなり次第同じ物を買って、この箱に補充しているんですけどね」
「そんなに大切なものなのか」
年季の入った色鉛筆の箱は無数の傷が付き、元々描いてあったのだろう虹のイラストがほとんど見えなくなっている。それが長年使われ続けている何よりもの証だった。
「大切、なんでしょうね。きっと。これを手離すと不安になってしまうんです。夜も抱えて寝てしまうくらいです。こんなのおかしいですよね」
何か物に執着することで安心感を得ようとすることをライナスの毛布と言ったりする。でも、そんなこと誰にだってあると思うのだ。安心を得ようとして何かに執着することくらい。
「おかしくなんかないよ。誰だって毛布を持っているものだ。僕だって、そうだから」
僕の習慣と化している母さんの仏壇に話しかけることは、ライナスの毛布に似ているようなものだろう。水無瀬さんはそれが色鉛筆だったというだけだ。
「そうです、よね。保志さんも一人暮らしで不安も大きいですよね。やっぱり一緒なんですね。私たち」
悲しく笑っていた。
一緒だと、水無瀬さんは言ったけれど、それは違うように思った。
水無瀬さんの不安は、きっと僕よりも大きいものなのだと感じた。
ライナスの毛布への執着が、その人の不安に比例するとすれば、常に色鉛筆を持ち歩き、寝る間も離さない水無瀬さんの不安はとても計り知れたものではない。
どんな事を経験すれば、それほどまでに不安になるというのか。
僕だって、この年では人生経験の豊かな方であると自負しているけれど、彼女はその比じゃない。
水無瀬さんは、どのようにして今までを生きてきたというのだ。
「水無瀬さん、君は…………」
――キーンコーン。
君は、どうしてそんな顔をするんだ。そう言った僕の声は最終下校時刻を告げる鐘の音に隠れて消えた。
「さて、保志さん、そろそろ帰りましょう」
水無瀬さんは今見せていた涙の無い泣き顔を、穏やかな表情で覆い隠し、いつも通りを演じる。
僕に追及させる隙を与えてはくれないみたいだ。
「……そうだね、帰ろうか」
水無瀬さんのお陰で僕の日々が豊かになっていることはどうしようもない事実で、また僕の人と極力関わらないというポリシーにも反している。だが、彼女を気にしてしまうのも事実であり、共有する時間を心地いいとも感じていた。だから今はまだ、この穏和な時間を享受しておこうと思う。自ら亀裂を生む必要はないだろうと。
帰る準備をしている水無瀬さん方へ視線を向けると、先程話題として挙げた色鉛筆を片づけている最中だった。よく見ると、色鉛筆一本一本には、あお、あか、とその鉛筆毎の色名が記されたテープが貼られていた。まるで幼稚園児の使う色鉛筆のようだった。幼いころから使っている色鉛筆と言っていただけに、初めて手にした時の喜びを忘れないように昔の形をそのまま再現しているのかもしれない。
「雲行きが怪しくなってきてる。一雨来るかもしれないよ」
「あれ、気づきませんでした。急がなきゃ」
水無瀬さんが準備を終えたことを確認すると、僕は立ち上がり、右肩にバッグを掛ける。
「さあ、雨が降る前に帰ろう」
「はい」
昨日のように、二人肩を並べて帰路に着く。そんなことが当たり前になってきていることが僕にとっては嬉しかった。その反面、僕なんかが幸せだと感じてしまっていいのかという罪悪感と不安があったこともまた事実だった。
その日、結局雨は降らなかった。
翌日もその翌日も雨が降ることはなく、相当に早い梅雨の終わりだった。
これからは蝉が鳴き出す季節だ。向日葵は空を見上げ、逆に人は熱さ故に下を向く、そんな季節が目前に控えていた。また、夏休みというどうも僕は時間を持て余してしまう長期休暇も迫ってきていた。
夏休み開始の四日前、それまでは比較的平凡に穏和な日々を謳歌していた。
度々、水無瀬さんとの描画会は開かれ、彼女の姿を絵として残した。偶にみずきさんも興味本位で参加してくることがあり、そんな時は二人を描くこともあった。
人と関わることを禁じていた僕だったが、頭でわかっていても、気持ちはわかってくれなかった。だから僕は、今のこの心地いい時間だけは人生の休み時間だとし、それを容認していた。これから先も独りで頑張るから今くらい良いだろうと。
こうして高校最初の七月も、半ばまで過ぎていく。
その間には期末考査があり、テストの結果は散々だった。勉強なんかお構いなしに絵を描いていた僕は夏休みに行われる補習を義務付けられた。水無瀬さんはテストの結果云々依然に七月からしか学校に来ていないから、それ以前の授業内容の補習があるみたいだった。
どんな形であれ、夏休みも水無瀬さんに会えることとなった。これなら描画会はまた行われるだろう、そう思うと柄にもなく喜んだ。




