第六話 彼女の描く絵
家に着いた頃には既に雨は止んでいた。
ごく普通の住宅街にある、ごく普通の一軒家。それが僕の家だ。
しかし、そんな家は僕にはとても広く感じられた。
「ただいま」
返事はない。誰もいないのだから当たり前だ。
暗く静かな廊下を進み、リビングに入ると照明をつける。
濡れたバッグを肩からおろし、習慣と化した日課をこなしていく。風呂の湯を沸かし、シャツを脱ぎ、簡単な物だが気持ち多めに夕食を作る。
そうして日課を終えると、畳部屋にある仏壇の前の座布団に正座し少量に盛った夕食を置く。こうすることで一人暮らしの悲しさを紛らわそうとしているのかもしれない。
「ただいま、母さん」
僕は一枚の写真に向かい挨拶した。
「遅くなってごめんね。今日は楽しいことがあったんだ。どんな理由があるのかはわからないけど、二ヶ月半も遅れて今日が初登校だった水無瀬さんって人が僕の隣の席になってね、なぜか放課後一緒に絵を描いたんだ。でもそれが楽しくって、しかも水無瀬さんの絵が素敵でさ…………」
これも日課の一つだ。亡くなった母に近況報告。
僕の人生の幸福最盛期といえば小学校低学年の頃だった。理想的な母に、お茶目な父、血縁上はいとこという立ち位置ではあるのだけれど家庭の事情ということで引き取った僕よりも年が一つ下の妹がいた。そんな四人家族だった。
しかし、幸と辛の漢字を表すかのように、家族の内の誰か一人が抜け落ちてしまえば、幸福が不幸に変わるのは一瞬だった。
僕が小学四年生だった夏に母は病気で他界した。そしてその悲しみに耐えられなかった父は僕と妹を置いて家から出て行き二年後に消息不明となり、その後すぐに祖父母に妹は引き取られた。
僕も祖父母に引き取られるはずであったのだけれど、母のいない現実を突き付けられることに恐怖し、一人この家に残った。この家になら母の、家族のいた痕跡が残っているからだ。
だから一人暮らし。資金は父の残した貯金で今はまだどうにかなっている。
ちなみに、別れてからは父にも妹にも祖父母にも会っていない。
そんな僕のことを近所の人は悪魔だ、疫病神だ、と囁いているみたいだった。母さんが亡くなった時こそ親切にしてくれていた人達も、今では挨拶を交わすどころか、目すら合わせてくれない。
でも、僕が言い返せる言葉は何もなかった。事実、僕と深く関わった人は誰もが不幸になってしまっている。
だから僕は必要以上に他者と関わることを避けて生活している。せめて誰の迷惑にもならないように。
「さあ、夕飯でも食べるか」
一人暮らしの経験がある人には共感してもらえるかもしれないが、一人でいる時間が多いと自然と独り言が多くなってしまう。
僕は立ち上がりキッチンへと足を運ぶ。簡素な味噌汁に、インスタント式の白米、冷蔵庫に残っていた野菜や肉で作った炒め物を各皿へとよそい、自身の食事の準備をする。僕一人だけのために凝った物を作ろうとは思わない。ただ、自炊しているだけいいと思うようにしている。
「それにしても綺麗だけど不思議な絵だ」
一口味噌汁を啜り、味が少し薄いなと思いながらも、目の前の絵にそんな感想を漏らす。
僕と水無瀬さんは、警備員に注意され仕方なく帰りの支度をしている時に、描き途中ではあるのだが、記念にと描いていた絵を交換したのだ。それを眼前で広げて独特な絵に見入る。
白と黒だけで描かれた僕の絵とは対照的に、水無瀬さんの絵は色鮮やかだ。色鉛筆のみで描かれたそれは美術品さながらといった出来で、彼女しか描けない世界を持っている。
だが、不気味にも思えた。
僕と水無瀬さんが今日描いた絵はクラスから見た校庭を模写した物なのだが、水無瀬さんの絵は僕らの通う学校の校庭には到底見えなかった。
黒い空から降りつぐ雨に強く打ちつけられているような見たままの校庭を僕は描いたのだが、彼女の絵はそもそも雨など降ってはいなかった。黒いはずの空は群青色からアジュールブルーに変わっていくようにグラデーションのかかった青空で、校庭には彩り豊かな草花が咲いている。それは花畑のように見えた。周りの住宅街から灯る明かりには家庭的な暖かみを感じる。そして、そんな世界には薄く輝く雪が降っていた。
それは、真夏に降った雪景色のような、真冬に咲いた花畑のような、そんな表現し難い世界が広がっていた。校庭の周りの建造物などは見覚えがあるもので、学校から見た景色だということはわかるようにはなっていた。
絵もそうなのだが、それ以上に、お世辞にも綺麗とは言えない黒の景色を見て、幻想的と言えるような絵を描いてしまう彼女自身に、言い方は悪いが不気味さを感じた。
――私、あなたの絵が好きです。
水無瀬さんのこの言葉が脳裏を掠める。
色に溢れた絵を描く彼女が何を思い僕の色の無い絵を好きと言ったのか。なぜ模写と言いながら実際とは全く異なった絵を描いたのか。何か特別な理由があるのではないだろうか。
「考え過ぎか」
ピピッと風呂の湯が沸いたことを知らせる機械音が僕の思考を中断させる。
とりあえず今は休息を優先しよう。今日は精神的に消耗しすぎた。人とコミュニケーションをとることがこんなにも疲れるものだとは知らなかった。昔の僕はこんなにも高度なことを容易くこなしていたのか。
それにしても、僕が他者に興味を持つなんて事は独りになってからは初めてのことだった。
風呂から上がると、二階にある自室で日記をつける。これも僕の習慣の一つだ。日記にはその日描いた絵を挟んでいる。
五月、六月と代わり映えしない日記を捲っていき、七月一日と書かれたページを開く。そこに今日の出来事を綴る。クラスの空席が埋まったこと、みずきさんの対応に困っていること、そして水無瀬さんのこと。
日記を書き終えると、自分で描いた絵の代わりに水無瀬さんから貰った絵を挟み日記を閉じる。七月に入ってようやく僕の日記は色を望めた。水無瀬さんがくれた色だった。それは、僕の日常も彼女が色鮮やかにしてくれるのではないかと思えた。
気が抜けた僕は大きなあくびをしてしまう。睡魔に逆らう気は起きなかった為、流れるような動作でベッドに潜り込み目を閉じる。
「帽子いつか返さなきゃな」
水無瀬さんと初めて会った時、忘れていった物だ。タイミングのいい時があったらその時に返そう。
睡魔の手はそれ以降も緩まることはなく、僕を微睡みの世界の更に奥にある夢の世界へと誘っていった。
こうして僕の一日は終えていく。
無為に日々を消費する僕の日常の中では変化の大きい一日だった。
高校最初の七月。何かが変わるかもしれない、そんな気がした。




