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第五話 二人きりの帰り道

「くしゅんっ」


 愛らしいくしゃみが廊下に響き渡る。

 絵を描き始めてから約三時間、僕ら二人は時間を忘れて机に向かっていた。

 言葉を交わすことは殆ど無く、互いに自分の世界に入っていた。自分の世界を描いていた。

 しかし、時計の短針が西南西の方向を指したところで教室の扉が開かれた。

 教室に入ってきた青の作業着を着た中年の男に注意を受け、絵を描ききることを諦めざるおえなかったのだ。

 そして今は、帰路に着こうと学校の廊下を歩いているところだった。


「描き終わらなかったね」

「そうですね。絵を描くのが半年振りくらいだったので鈍っていました」

「あれで鈍っていたのか。凄くうまかったと思うけど」


 そう。水無瀬さんの描く絵はうまかったのだ。それは僕とは比べ物にならないくらいに。

 高校生という年齢で、あれ程の絵を描ける人はまずいないだろう。僕の尺度では測りきれない領域の絵なのだ。きっと美術館に展示されていたとしても、その群を抜いた芸術的センスは、名声高い芸術家の作品を抑え、頭角を現すことだろう。


 少なくとも、僕は今までの人生で彼女の描く絵よりも美しいと感じた絵を見たことがない。

 彼女は美の体現者なのだろうか。

 描く絵も、描く本人も、見事なまでに美しい。酷く陳腐な表現だが、美しいとしか言いようがないのだ。


「今までに絵画の習い事でもしていたことがあるの?」

「そんなようなものはしていました」


 妙に歯切れの悪い返事だった。


「そんな保志さんこそ絵の習い事していたんですか?」

「いいや、僕の絵は独学だよ。家族が絵描くのが好きだったからそれの影響だよ。ちゃんと描き始めたのは中学生の頃だったかな」


 詳しくは独学というよりは自己流だ。


「私もそんな感じですよ。両親が美術関係の仕事をしていたので」


 なるほど。幼少期から絵画の技術を親に仕込まれていたのかもしれない。それなら彼女の絵の凄さには合点がいく。元々の才能も相俟って開花したのだろう。


「でも半年も絵描いていなかったって言っていたよね」

「はい、半年程前から一人暮らしなんですよ。それからは両親の目がなくて、無理に描かなくていいかなって」


 そう言う水無瀬さんの声は無機質に聞こえ、顔にはおおよそ表情と呼べるものが無くなっていた。家族のことが話題に出ると水無瀬さんの雰囲気は一変して悪くなってしまう。

 きっと触れられたくない領域があるのだろう。誰にだってそういうものはある。


「そうだったんだね。僕も一人暮らしだけど高校生では珍しいよね」


 そう言うと、水無瀬さんは少し驚いたようにこちらを見上げてきた。


 僕は一人暮らしなのだ。だが、それは好きで一人暮らしをしているわけではない。そうしなければならない理由があったからだ。高校生の一人暮らしというのは生活するだけでもかなりの苦労を強いられることなのだが、それでも一人暮らしをしなければならなかった。

 だからきっと、水無瀬さんも一人暮らしをしている理由には特別な意味があって、そこに踏み入ることは軽率なことだと言う他ない。それを知るには、僕らが共有している時間はあまりにも短すぎるからだ。何と言ったって、僕と水無瀬さんは今日が初めて言葉を交わした日なのだから。


「なら、一緒なんですね」


 一緒。その言葉は的を射ているようでいて、少し違う。でもなんとなくしっくりくる言葉でもあった。

 きっと僕は水無瀬さんに、水無瀬さんは僕に、似ている空気を感じたのだろう。


「ああ、僕らは独りでいて、一人ではない。そんな人間なんだろう」


 この時代、一人きりになることなど基本的にはできない。しかし、僕も水無瀬さんも心では独りきりなんだと思っている、ということだ。


 互いに曖昧な会話を交わして、曖昧な時間が流れる。

 雨が地を打つ音は僕らが独りぼっちなんかじゃないんだと励ましてくれているように思えた。

 その雨音が大きくなっていくにつれて学校の出口は近づいていき、気がつくと昇降口についていた。

 学校の外に広がる、夏を目前に控えた黒い空は、梅雨の最後の悪足掻きだと言わんばかりに強く激しく雨音をたてている。

 そんな中、僕の帰路への雲行きも怪しくなっていた。


「……僕の傘がない」


 朝も使用していた筈の傘は、学校の傘立てから消えていた。

 おそらく誰かに使われてしまったのだろう。こういう場合は盗った側ではなく、きちんと管理していない側に非があるという結論に至るのが学校という教育機関での常だ。

 どうしよう、とこれからの帰り道に不安で頭を抱えていると、一つの小さく纏まった何かが目の前に差し出された。


「使いますか?折り畳みなのでかなり小さいですが」


 それは黄色の折り畳み傘だった。水無瀬さんはそれを広げると、僕に手渡してくる。

 一般の傘よりも一回りは小さい傘を持つ水無瀬さんは、その傘の大きさのせいかどこか幼く見えた。


「いやいや、僕が借りたら水無瀬さんどうするのさ。他に傘があるならまだしも、無いなら駄目だよ。水無瀬さんが濡れてしまう」

「ジャージのお礼ですから遠慮しないでください」


 遠慮するなと言われても、ジャージ姿で濡れると問題があることを僕は知っているだけに、これは引き下がれない。食い下がるしかない。


「いいや、水無瀬さんが濡れちゃ意味がない。この傘を僕は使えない」

「なら、捨ててしまって大丈夫です。安物ですから」


 この反応を見るに、水無瀬さんはもしかすると頑固なのかもしれない。


「わかった。もう、じゃあこうしよう」

「なんですか?」




 自身の胸に傘を持っていない方の手を当てる。

 一定の間隔で手のひらに生きている証拠である震動が伝わる。鼓動が伝わる。しかし、今だけその証拠は自己主張が激しすぎるように思えた。

 心臓が元気に躍動してしまっている。今の状況に僕の心臓は喜びを表しているのだろうか。


「「あっ」」


 右肩に伝う軽い感触。トンと当たる互いの肩。長い沈黙に時々聞こえる二人の漏れる声。

 そんなこんなで、ドキドキもといドギマギしながらも、僕と水無瀬さんは一応雨を凌ぎながら最寄りの駅へと向かって歩いていた。俗に言う相合傘というやつをしながら。


「やっぱり保志さん一人で傘を使ってください。左肩が濡れてしまっています」

「それはお互い様だよ。むしろ、水無瀬さんが使うべきだって。自分の傘なんだし。それに、二人で傘に入るなんて嫌だろう?」


 また始まってしまった。先も、二人で傘を使うという僕の提案が承諾されたのはいいものの、どちらが傘を持つかというこの上なく不毛な議論でかなりの時間を要してしまった。最終的には水無瀬さんより背が高い僕が持った方が雨を凌ぐのに適しているというそれっぽい理由で落ち着いたが、やはり納得はしていなかったようだ。華奢な女の子に傘を差される男など面目が保たれない。


「そんなことは気にしません。ただ、私のせいで保志さんが濡れてしまっているのが嫌なんです。だから私の為だと思って一人で使ってください」


 私の為とはよく言ったものだ。そんなことをしてしまえば、僕の罪悪感が許さない。

 ほんとに、水無瀬さんはその敬語口調に似合わず頑固な人だった。


「なら、僕のジャージを濡らさないようにちゃんと傘に入ってよ」

「……ずるいです」


 ならば、その罪悪感を逆手にとってやろうと、思い切って意地の悪いことを言ってみたが、効果は覿面だったようだ。

 そのまま調子に乗って雨に濡れないようにと傘を水無瀬さんの方に寄せると「駄目です、それは違います」と言ってきたが、言葉だけで拒まれることはなかった。


「初めての高校はどうだった?」


 思えば、今日は水無瀬さんにとって初めての高校だったのだ。今でこそ、こうして普通に会話しているが、話すのは今日が初めてである。初対面(詳しくは昨日会っているが)でここまで気安く会話できることはもしかしたら僕の中では快挙なことなのかもしれない。それはきっと先程も言ったように僕らは互いに近しいものを感じているからなのだろう。


「そうですね、少し戸惑ってしまいましたが、楽しかったです。私は小学校も中学校も満足には通えていないので、知らないことだらけで新鮮でした」


 その言葉に嘘はなさそうに思えたが、どこか哀しげな声音だった。


「わからない事があったら、委員長のみずきさんに色々と聞いてみるといいよ。あの人なら、快く教えてくれると思うから」

「保志さんは教えてくれないんですか?」

「僕とはあまり関わらない方がいいからね。他人からも良い印象は持たれないと思うし。せっかくの高校生活のスタートなんだから」

「なんでですか?」

「僕ってクラスで孤立しているから、僕と関わると水無瀬さんまで孤立してしまう」


 自分で言っていて耳が痛いが、でもそういうことなのだ。


「だったら私も孤立します」

「どうしてそうなるんだ」

「あなたの絵が見たいからです」

「そんなの、隣の席なんだからいつでも見れるよ。だから、孤立しないように友達作りなよ」

「そんなこと保志さんに言われたくありません」


 ぐさっと僕の心に何かが刺さった。しかし、ごもっともで返す言葉もない。


「僕はいいんだよ。作れないんじゃなくて、作らないんだ」


『れ』と『ら』の部分にアクセントを置いて言った。


「往々にして、そういうことを言っている人ほど友達が少ないものなんです」


 水無瀬さんの僕への当たりが徐々に強くなってきていないだろうか。薄い表情で言うものだから、言葉がそのまま、無防備な心にくるのだ。


「正直な話、僕はあまり人と関わりたくないんだ」

「……その気持ちはわかります。でも、そう言っているだけでは何も変われません。そうでなければ、私は学校に来なかったと思いますから」

「うん、確かにそうかもしれない」


 変わらないといけない。それは僕がずっと抱き続けている思いでもあった。


「私が保障しますよ」

「なにを?」

「変わろうとすれば、いいことがあるってことをです」

「そう思う根拠を聞いても?」

「私は勇気を出して学校に行ったら、あなた、保志さんに会えましたから」

「…………」


 その言葉を発する水無瀬さんの穏やかな表情を見て、言葉を失ってしまった。


「駅に着きましたね。それではまた明日です」


 いつの間にか駅に着いていたみたいだ。


「ん?水無瀬さん、電車は?」

「いえ、私は乗りません。ですのでまた明日学校で。あ、ジャージありがとうございました」


 ぺこりと一礼すると、水無瀬さんは早足で来た道を戻って行った。


「あれ」


 僕は黄色の小さな傘を持ったまま呆然としていた。

 要約すると、学校の近くに住む水無瀬さんは雨が降っているからと、僕に傘を使わせる為に貸すと申し出てくれたのに、僕はそれを受け入れず、結果無駄足を踏んで駅まで同行してくれたということになる。

 最初から素直に傘を借りていた方が良かったということは言わずもがなだ。


「明日、お礼言わなくちゃな」


 空を見上げると先程よりは雨脚は弱まっていた。深夜にかけて強まる予報はどうやら外れてくれそうだ。

 傘を畳み、僕は満員電車への覚悟を決め、駅構内へ歩を進めた。


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