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第四話 隣席のクラスメイト

 七月一日、昨日とは打って変わって今日は豪雨に見舞われた。梅雨は終わったのではなかったのだろうか。

 教室の窓の外は矢でも降っているかのように激しく雨が地を打ち付けている

 連日の雨の中、昨日の一日だけが晴れた事も相俟って、昨日のことが夢のように思われた。だが左隣を見ると、一応夢ではないことがわかる。


 綺麗な姿勢を保ちながら黒板を真っ直ぐと見据える少女。

 爽やかなワンピース姿ではなく、もう見慣れた彩陽高校の制服を着ている為、多少の親近感を覚えるが、彼女が着る制服はいつも見ている制服とは違って見えた。改めて見ても、少女の姿は美しいの一言に尽きる。

 しかし、僕の目を引いた白色の髪は、茶色に染まっていて残念にも思えた。本校の校則的に髪色は原則として黒か茶と決まっているから仕方ないことではある。


「保志くん、そんなに(ゆえ)ちゃんのこと見つめちゃだめだよ。困ってるでしょ?」


 左隣のクラスメイトに意識をほとんど向けていたせいで、反対側からの人物の接近に気がつかなかった。僕に話しかけてきたのはみずきさんだ。


「み、見つめてなんていないよ!」


 声が上ずってしまった。人に話しかけられることが普段ないため、驚きを隠せなかったのだ。

 もう一度左向くと、例の少女は朝のホームルームでの板書を書き終えたのか、こちらに体勢を向けて薄い困惑の表情を浮かべていた。


「……ごめん」


 困らせてしまった事に対しては、無意識だとしても僕に非があっただけに素直に謝罪した。


 水無瀬月みなせゆえ。それが彼女の名前だそうだ。

 月を『ゆえ』と読むのは確か中国語だったか。


 朝のホームルームが始まる前に、数分程度の自己紹介が行われた。もちろん例の如く彼女の席は僕の隣の空席にあてられた。ホームルーム後は少女のもとに沢山の生徒達が詰め寄り、かなり戸惑っていた様子が少し気の毒に思えた。とにかく僕の予想は的中したみたいだった。


 それからというもの、水無瀬さんとは言葉を交わしていないのだけれど、チラチラと視線を感じ続けているのだ。だからこそ、何か僕に用があるのなら話しかけやすいようにと彼女の方へ意識を向けていたのだ。決して見つめていたとか、見惚れていたとかではない。


「授業始めるぞー」


 数学担当の教師が教室に入ってきたことにより、クラス内の雰囲気は即座に切り替わる。各々が自分の席に着き、授業に臨む準備をする。

 こうして、クラスの穴が漸く埋まった最初の一日がスタートした。


「おっと、ん?」


 そんなプロローグ的な事を考えている一瞬の間に、僕の机の左端に小さな紙切れが置かれた。


『今日の放課後、この教室に残っていてください』


 昨日の書置きと同じ端正な文字は水無瀬さんのものだろう。今日も今日とて放課後は学校に残って絵を描くつもりでいたから問題はない。

 問題はないのだが、僕は今日から一体全体何を描けばいいのだろう?空席は埋まったわけだから水無瀬さんをモデルにすればいいのだろうか?

 描くものが決まらないのは大問題であった。




「また明日ね」

「うん、バイバイ」


 昨日と同様に最後まで残っていたクラスメイトの別れの挨拶を耳にしたのは、帰りのホームルームを終えてから二十分と経たない頃だった。今日は深夜にかけてさらに雨脚が強まるとの予報だったからか、互いの意見が瞬時に一致し早めの帰宅を選択したのだろう。聡明な判断と言える。


 ただ、僕から言わせてみれば、雨なんて一定の雨量を超えた時点でそれから幾ら強まろうと変わりないのだ。傘は本来の仕事を全うできずにくたばり、バックの中身はお釈迦だ。そして、現時点での雨量は既にそのボーダーラインを越えていた。


 そんな雨がばちばちと窓を打ち付ける中、僕は一人の少女を待っていた。

 結局のところ今日は描くものが定まらずに絵を描けずにいた。だから今は絵を描く為ではなく、一人の少女の為に放課後の教室に残っている。


 それにしても、今日は実に疲れた。

 一日中、頻繁に声をかけてくるみずきさんをどうにか躱していたのだ。

 いきなりクラスの人気者と、クラスの置き物みたいなのが会話しだしたらおかしいではないか。

いらぬ火の粉は浴びたくない。僕は安静に日々を消費したいだけなのだから。


 それに、水無瀬さんの視線も気にはなった。一日中感じた視線はなんだったのだろう。

 今だってその視線の理由を訊く為ということもあって待っているのだ。


 ――ガラッ

 唐突に扉が開いた。

 黒板は綺麗に消されているから、みずきさんではないはずだ。


「すみません。お待たせしました」


 教室の端から、落ち着きのあるソプラノの声が聞こえた。

 そこには全身ずぶ濡れの水無瀬さんがいた。


「え、どうしたの!」


 思わず大きい声が出た。ここ数年で一番の声量だった。


 水無瀬さんはいろいろと目の置き場所に困る格好になっていた。

 ビショビショになったベストは既に脱いで抱えている為、学校指定のワイシャツに学校指定のチェック柄のスカートという姿なのだが、質素なワイシャツに飾られたリボンの裏、そのシャツの下には薄っすらとピンク色の何かが浮かび上がるように見えてしまっている。


「どうってことではないのですが、道に迷ってしまって。職員室まで授業で使うプリントなどを貰いに行ったんですけど、戻りは一人だったので教室まで辿り着けなかったんです」

「そうじゃなくて、どうしてそんなに濡れているんだ?」


 それに、学校で道に迷うことなどあるのだろうか。職員室からこの教室までの道は一つ階段を登ればすぐのはずだ。まだ校内の構造を把握していないからだろうか。


「迷っていうるちに外に出てしまい、いつの間にかこんなにも濡れていました」


 とのことらしい。方向音痴を極めても辿り着けない領域に彼女はいるのかもしれない。


「着替えは持って……ないよね」

「はい」

「なら風邪ひくといけないし、僕のジャージでよければ貸すよ?」


 この言葉に対しては、決して、断じて、邪な気持ちはない。無いのだが、言葉にすることで、それが邪な風に乗せられて発したことのように思えてきてしまう。

 なるほど、風邪という文字の語源はこんなものだったのか。


「いえ、だめですよ。ジャージが濡れてしまいます」

「大丈夫だよ。次の体育の授業までに返してくれればいいから。濡れた制服のままいるのは気持ちが悪いだろう」


 そう言って、ロッカーから一つの袋を取り出す。いつも僕は、体育の授業があった次の日にはジャージを洗濯して学校のロッカーにこうしてしまっているのだ。その習慣がこんなふうに役立つとは思ってもいなかったが。

 それに、着替えてもらわないと僕の目のやり場に困るというのもある。


「あ、ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきます」

「うん、そうするといい」

「あの、えっと」


 いきなりの沈黙。なにかあったのだろうか。まさかつい先程考えていた事を悟られてしまったというのか。再び言うように僕は邪なことなど考えていないのだ。それこそ、僕への疑いこそが邪推である。と、そんなことを考えている場合ではない。

 目の前にいる女の子が困惑顔で僕に何かを訴えかけている。


「どうかした?」

「着替えるので、少しの間だけ後ろを向いていただけませんか?」


 なるほど、そういうことか。確かに見られたまま着替えることはできない。させられない。


「あ、ああ。わかった」


 着替えを貸すまでは気をきかせられたのに、最後で配慮に欠けるのは僕の悪いところだ。

 こういうときだって、本当は後ろを向くのではなく、教室から出て行った方が、彼女としては気が楽だろう。

 しかし、僕のお粗末な頭の中にはそんな選択肢は存在しなかったし、彼女は申し訳なさで「教室から出てほしい」とは言い出せなかったのだろう。


 布と肌が擦れ合う音が教室中に響く度に、僕の理性は剥がれ落ちていく。

 そして、今更ながら最大の失態に気づいてしまった。それは水無瀬さんが僕のジャージを素肌の上から着るということだ。それが僕にも彼女にとってもどれだけ恥ずかしいことなのか考えるだけで蒸発してしまいそうである。

 これから僕は自分のジャージを着る度にいちいち顔を赤らめることになるだろう。そんな光景が容易に想像できた。


 ファスナーの上がる音と共に「もう大丈夫ですよ」という声が聞こえた為、僕は水無瀬さんの方へと振り返る。

 そこで、二つ目の失態に気づく。濡れた身体や髪を拭くものが無い為、そのままジャージを着てしまっているのだ。水分でジャージは身体に張り付き、濡れた制服姿とはまた違う意味で目のやり場に困る姿になっている。髪から滴る雫は首を伝ってジャージの中に侵入していく。それを無意識に目で追ってしまっていたことに気づくと、僕の視線は宙を彷徨った。


「ところで僕に何か用でもあるの?」


 閑話休題。わざとらしい咳を一つ入れ、放課後の学校に残った理由を尋ねる。


「はい。謝罪をしなければいけないと思いまして」

「謝罪って、水無瀬さんが何か悪いことでもしたの?」


 思い当たることは確かにある。というより鮮明に記憶されている。昨日の今日で忘れることは無いだろう。

 ただ、昨日会ったのは水無瀬さんではなくて、僕が会ったのはあの儚い白い髪の『透明のクラスメイト』なのだ。あれは水無瀬さんで間違いは無いはずだが、しかしそれでも僕の前から逃げるように姿を消したことから、昨日偶然にもあったことは水無瀬さんにとって都合の悪いことだったのかもしれない。そう思いしらを切ったのだ。彼女がなかったことにしたいと望むのならそうするべきなのだから。


「この絵、持って帰ってしまってごめんなさい。今日ずっと気にしていて……」


 今日一日中感じていた視線の理由はこれだったらしい。

 差し出されたのは綺麗にファイリングされた僕の絵だった。雨にぬれていることはなく、昨日の絵の状態よりも良く見えた。

 どうやら水無瀬さんは昨日のことを無かったことにはしないようだった。


「昨日会ったのは水無瀬さんだったのか。でも髪が……」

「やはり見られてしまいましたか。その、他の人には内緒にしておいてもらえますか?」

「それは、別にいいけど」


 昨日偶然にも僕と出会ってしまったことは、やはり彼女にとって都合の悪いことのようだ。できれば記憶ごと消した方がいいのかもしれないけど、残念なことに僕の頭は鳥頭ではない。

 皮肉にも僕の記憶力は常人よりも優れているように思える。いつまでも物事を忘れられないのだ。良いことも、もちろん悪いことも。


「これは二人の秘密ということで」


 水無瀬さんは微笑むでもなく、羞恥するでもなく、さらりとそんなことを言ってきた。

 二人の秘密、なんと甘美な響きなんだろう。


「私、あなたの絵が好きです」


 いきなりの言葉にどきりとした。好きという単語に耐性のない僕としては未だかつて無いくらいに心臓が飛び跳ねた。それは昨日見た書置きと同じ言葉だった。


「昨日、本当は絵を持って帰るつもりはなかったんです。ただ、返すのが惜しくなってしまって。人が来たことに驚いて咄嗟に持ったまま飛び出しちゃったんです」

「いやでも、僕の絵なんて色が欠落していて、そんな価値はないよ。いくら練習しても色を付けれらないんだ」

「いえ、保志さんの絵には色がありますよ。この絵の中の女性は金髪で、雲ひとつない青空が背景になっていてその金の髪がキラキラ輝いて見えるんです。そう見えたことが嬉しくて」


 驚いた。僕のイメージをそのまま言い当てた。いや、当てたのではない。彼女は本当に色が見えているのだ。はっきりと見えているのだ。絵を描いた僕自身よりも、おそらくは見えているのだろう。

 

「本当に綺麗な絵」


 水無瀬さんはそう呟きながら、未だ絵を食い入るように見ている。その表情は切なげで、悲しげで、そんな彼女の表情が僕の記憶へと沁み込んでいった。ただ、人の絵を見るときの表情には思えなかったが。


「そんな絵で良ければ、あげるよ」

「えっ、いや、もらえないですよ。こんなにも綺麗な絵を私なんかに勿体無いです」


 実際、一人で描いて一人で満足しているだけなのだ。誰かに必要とされれば喜んで譲る。


「では、今から一緒に絵を描きませんか?お互いに絵を描いて最後に交換するんです。それなら私も素直に貰うことができますし。お近づきの印にどうですか?」


 意外な提案だった。でも、彼女の絵には興味があった。僕の絵の色が見える人がどんな絵を描くのか。


「いいけど、きっと帰るのが遅くなるよ」

「保志さんが良ければ構いません」

「家族が心配するんじゃない?」

「大丈夫です。気にしないでください」


 家族と言った瞬間、心なしか彼女の表情は曇ったように見えた。家族の話を口に出すのは軽率だったのかもしれない。僕だって聞かれて気持のいい家庭環境とは言い難い。


「なら始めようか。学校の警備員が見回りに来るまでには帰れるようにしよう」

「はい」


 その返事と共に水無瀬さんの顔には微かな笑顔が咲いたように見えた。

 今日一日、水無瀬さんは感情の起伏が少ないと感じていた。おそらく感情表現が苦手なのだろう。今見た微笑は学校に来て彼女が見せた最初の笑顔だったと思う。それが僕だけに向けられたものだと思うと、どこかくすぐったいような気持ちになった。それは、不快なものなどでは決してなかった。


 しかし、そんな感情の希薄な水無瀬さんが目を腫らしてまで涙を流していた昨日のことを、『異常なことだ』と感じなかったことは、それこそが僕にとっての最大の失態だったのだろう。


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