第三話 透明のクラスメイト
美術室から鉛筆を借りた僕は、来た道を戻り自身の通う教室の前に着いたのだが、そこで些細な違和感を覚えた。
普段の僕なら何にも気づかず教室に入っていたと思う。
ただ、今日の僕はいつもより少しだけ冴えていたのかもしれない。
違和感の正体は教室のドアにあった。隙間無く閉められたドア。それが違和感の正体だった。
僕は美術室に向かおうと教室を出て行く時、確かにドアを開けっ放しにしていったはずなのだ。だが、目の前のドアは僕の行く手を阻むようにしてきっちりしっかり閉まっている。
警備員の見回りの際に閉められたものかと考えたが、見回りにしては時間が早すぎる。
先程のみずきさんみたいに教室に戻ってきた人がいたのだろうか。
「…………っ」
と、その時、教室内から蚊の声ほどの嗚咽のようなものが、微かに聞こえてきた。
ドアにつけられた四角の窓から室内を覗き込むと、机に腰を掛け俯く一つの影が見えた。夕陽のせいで逆光となり、表情は窺えないが、何かを手にしている。
よく目を凝らして見ると、それは僕の描きかけの絵だとわかった。
それからの行動は早かった。
僕は無意識にドアを開け、その人物と対峙するように教室内へ一歩踏み入ったのだ。
二人の間にはドアから窓際までの距離がある。
僕は一歩二歩と引き寄せられるかのように、その距離を埋めていった。
すると、今まで見えていなかった相手の表情が露わになった。
眼前の、僕より頭一つ分小さい影も僕の存在に気づき、俯いて絵を見ていた端正な顔を僕へと向けた。
それは見事なまでに美しい少女だった。
白地にサルビアブルーの花が装飾されたノースリーブワンピースに身を包み、リボンのようなものでウエストを締めているため、体のラインがはっきりと見て取れる。細く伸びた手足や形の良い腰、さほど主張は強くない慎ましやかな胸元の膨らみは、逆光でシルエットのようになり、その女性的な曲線美に妖艶さを感じてしまう。
その少女が腰を掛けているのは、例の、あの空席だ。
大きく見開かれ驚愕の色を浮かべる綺麗な瞳の目尻からは、大粒の雫が溢れ出していて、質感の良さそうな頬を流れ、流麗な頤を伝って先から落ちた。それはループするみたいに乾くことはなく少女の顔を濡らし続けている。
少女は状況を理解できていないらしく、その場で呆然と固まっている。
それは僕も同様で、目の前で見知らぬ少女が泣いているところに遭遇して戸惑ってしまっている。
しかし、その沈黙は長くは続かなかった。
次の瞬間、少女は持っていた僕の絵を抱えてその場から足早に立ち去ったのだ。
「ちょっと、待っ……」
僕の無意識の呼び掛けは虚しく、少女は肩口に切り揃えられた絹のような髪をふわりと揺らしながら僕の横を通り過ぎていった。
通り過ぎる際に少女が零した涙は、夕陽のせいでオレンジ色に輝いて舞い、数秒の間床に跡を残す。仄かに漂った爽やかなシャンプーの香りは夏の訪れを感じさせた。
× × ×
一人取り残された僕は、ただただ立ち尽くしていた。
今の僅かな時間で起きたことが頭から離れない。
凛とした大きな瞳に、それ以上には整えようのないほどの目鼻立ち。少し幼さが残っているものの同年代の子と考えると現実味溢れる理想的なプロポーション。今日までの人生の中でこれほどまでに綺麗な人間を見たことがなかった。故に頭から離れない。しかし、特筆すべき彼女の美しさの根源は物質的なのもではなく、その身に纏った雰囲気だ。
儚い。一目見た瞬間にそう感じたのだ。
そして僕を最も驚かせたのは、少女の『白銀の髪』だ。それは文字通りに白色の髪であり、人工的に染めた色でも、老化した際に生えるそれとも違うように思われた。
だが、そんなにも美しく珍しい髪ですら、少女の儚さを引き立てる為のものにしか思えないのだ。それは異質な美しさと言えた。まるでこの世界のモノではないような。
感覚的には長い間、僕は立ち尽くしていた。
先程起きた出来事は夢のように思えたが、僕の机の上を見ると出来事への現実味が増す。
今日描いていた絵は姿を消し、そのかわりに見覚えの無い麦わら帽子が置いてあるのだ。
これはきっと少女の忘れ物だろう。しかし僕は、次会った時に渡せばいい。なぜかそんな風に考えていた。初めて会ったはずであるし、制服を着ていなかったから生徒でもないと考えられる。さすがに職員ということもないだろう。なのに、理由は分からないが、また会えるだろうと確信を抱いている。
いや、詳しくはあの子がこのクラスの空席に座るべき人なのだと、そう確信したのだ。
「もう帰るか」
絵がなくなった今、学校に残る理由はない。ひとりでにそう呟くと、帰りの支度をする。
教科書の類は学校のロッカーに置いていき、筆記具などは学校指定のバックに入れる。
「一応これも持って帰った方がいいかな」
僕はその麦わら帽子を変な折れ跡がつかないように慎重にバックへと詰める。
すると、帽子が置いてあった机の端に、鉛筆で書かれた落書きのようなものを見つけた。
机に書いた落書きにしては丁寧すぎる文字で記されたメッセージが、そこにはあった。
『私、あなたの絵が好きです。透明のクラスメイトより』
落書き、というよりは書置きと言える。なんとも謹直な泥棒だ。
これが少女からの初めての言葉だった。
そして、最後に書かれた『透明のクラスメイトより』の文字。きっと、僕とみずきさんの会話を聞いていたのだろう。これで僕の脳内ではあの子が今まで描いてきた空席に座るべき人なのだということが合致した。
これも僕の妄想や願望なのだろうか?
だとしたら、僕はあの少女が空席を埋めることを素直に望む。
もう一度あの子に会ってみたい。確かにそう思ったから。
それになぜ、僕の絵を見て涙したのかを知りたいから。
僕は呆然と、六月三十日の文字だけ消されていない黒板を眺めた。
「明日から七月か」
意味のない呟きは、虚しさの残る教室に弾けて消えた。
× × ×
そして翌日。僕の望み通りに、クラスの空席は埋まった。




