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第二話 クラスの委員長

「また明日ね」

「うん、バイバイ」


 帰りのホームルームが終わってから、約一時間。

 教室が僕だけの空間になった瞬間だった。


 クラスメイトであろう女子二人は長い雑談を終え、ようやく教室から出て行った。

 はて、一時間余りも雑談が続くなんてどれだけの情報を持ち話題提供力があるのだろうか。何か面接でもやらせておけば必中に違いない。


 しかしながら、先程の二人を僕は知らない。本当に友達同士なのかということも知らない。ただ、教室で別れて帰り道を一緒にしないあたり、実はあまり仲良くないのではないかと愚考してみただけだ。

 まあ、きっとお互いに部活なりアルバイトなり何かしらの予定があるのだとは思うが。


 そもそも僕は、クラスメイトのほとんどを把握していないのだから他人の交友関係など知っているはずがない。


 入学してから二ヶ月半。既にクラス内では慣れ合うグループみたいなものができ、カースト制のように教室という一つの格差社会が形成され始めている。

 一部の人間は自身を良く魅せようと身なりを派手にし僕には理解の及ばない威厳を保とうとする。また他の一部は派手な人達に支配されぬようにと気の弱い者同士で群れ、これもまた僕には理解の及ばない自信を保とうとする。

 こうして、入学してから着々と格差は広がっていく。学校とは実際、とても厳しい世界だったのだ。恐怖すら感じる。


 しかし、酷く他人事ではあるが、僕にとってそんなことはどうでもよかった。

 なぜなら僕はそのカースト制から例外に位置するからである。僕は他人に干渉しないし、他人も僕に関わろうとしない。

 いわゆる、ぼっちと呼ばれる人種だ。いや、厳密にはぼっちと言うよりは孤独と言った方が正しいかもしれない。それに、わけあって僕には中学生から高校生になる間に一年間の空白がある。周りのクラスメイトと比べると年齢的には一つ年上なのだ。そのこともあり僕の孤立具合には拍車がかかっていた。また、僕の趣味である絵を描くという行為が、周囲の人間と壁を作ってもいた。


 ただ、そんな僕でも存在を認識している人物くらいはいる。クラスの委員長である『みずきさん』とか、美術室の鍵を借りる際に接することのある担任の向井先生とか。

 でも今までがその人らとほとんど関わらずにいただけに、これからもそうなのだろう。


 さて、教室がやっと僕だけの空間になったのだ、早く絵を完成させよう。

 休み時間や授業中の空いた時間だけでは描き終えられなかったから、こうして放課後も居残り、趣味に興じる。

 これは、学生が帰り道で友人と遊んだりすることと何ら変わりないことだ。

 今日描いている絵は、慣れない日本の授業に真剣に取り組む金髪の留学生という設定だ。しかし金髪と言っても鉛筆のみで描いているのだ、果たして金髪だとわかってくれる人がどれだけいるだろうか。まあ誰に見せるわけでもないのだから気にする必要はないかもしれないが。




「んーっ」


 同じ体勢で長時間座っていたせいで固まってしまった体を伸ばしていると、そんな抜けた声が出た。

 絵の出来は上々。もう完成だと言ってもいいくらいまで進んでいる。

 あとは、濃い鉛筆で全体の色の強弱をつければ完成である。


 先程のクラスメイトが教室から出て行ってから三十分が経過し、教室の時計の短針は地面と垂直に、真下を指している。

 念のために携帯電話でも時間を確認するが、六月三十日の午後六時の表示。


 ああ、またやってしまった。

 この時間帯からはドーナツ化現象故の帰宅ラッシュがあり、帰りの電車が満員状態になってしまう。その為いつもはもう少し早く帰路に着くようにしているのだが、絵に集中していると偶にこうなってしまう。

 満員電車となると、帰るのが億劫だ。いっそこのまま学校に泊まってしまいたい。どうせ帰宅しても誰もいないのだから。


 窓の外に窺える西日と同じように、気持ちを沈ませながらそんな思いに耽っていると、教室のドアが唐突に開かれた。

 黒髪を高い位置に一つに結わえた少女が息を切らしながら教室に入ってきたのだ。


 その少女は黒板を見るや否や、開口一番に「はぁはぁ、やっぱり忘れてたー」と言い、白のチョークで多量の文字が書かれた黒板へと向かっていった。

 きっと日直かなにかの、黒板を綺麗にしておくという仕事を忘れていたのだろう。

 僕はてっきり放課後だというのに黒板が文字で埋め尽くされているのは、今日の日直がサボタージュでもしたのかと思っていた。

 そんな想像とは違い、最終下校時刻間近であるのにも関わらず、忘れていた仕事をするために教室に戻って来るなんて律儀なものである。


 そして、僕は目の前のポニーテールに見覚えがあるみたいだった。

 ぱっちりとした瞳が印象的で、健康そうでいて少し発達の進んでいる体つき、そしてはじける笑顔が見える度に揺れ動く黒のポニーテール。彼女こそが『みずきさん』のはずだ。

 その名前が下の名前なのか、上の名前なのかは知らないが、僕のクラスで委員長を務めているということは知っている。律儀でありながらも、仕事を忘れているあたり、まさにおっちょこちょい委員長である。


 みずきさんはそそくさと黒板に向かっていくが、その途中、視界の端に何か捉えたのか僕の方へ振り向いてきた。どうやら僕の存在に気づいたようだ。


「あ……えーっと、まだ残ってたんだね」


 前言撤回。僕の予想とは裏腹にさっそく他人との関わりを持ってしまいそうだった。

 しかし、まさか僕に業務連絡以外でコミュニケーションを試みるとは、驚いた。

 僕に話しかけてくるなんてどこまでも気さくな人だ。律儀でおっちょこちょいで気さくな委員長。なんて忙しい人なのだろう。


「うん、まあね」

「そっか。ところでさ、さっきの見てた……?」


 しかし、みずきさんの様子は少しおかしい。学校指定のバッグで顔の下半分を隠し、妙にモジモジしている。


「さっきのって、急いで教室に入ってきたときのこと?」


 そう訊いてみると、隠れていないみずきさんの丸い大きな瞳はかなり泳いだ。少し覗く頬は夕日の光も相俟ってかなり紅い。

 きっと羞恥からの紅潮だろうが、恥ずかしがる理由が僕には見当たらなかった。


「見なかったことにしてね、保志くん」

「何を見なかったことにすればいいんだ?」

「わたし、かなり急いで走ってきたから、そのー、スカートとか捲れてたんじゃないかなぁって。はしたない姿見せちゃってごめんね。まさかまだ誰か教室に残ってるとは思ってなくて……」


 ああ、そういうことか。残念ながらそんな姿は見られていない。


「大丈夫、下着とか見えてなかったと思うから」

「なっ!バカ、下着とか言わないでっ!」


 さらに顔を赤くして、今度は少しの怒気もこもっている。持っているバッグでも投げてきそうな勢いだ。

 デリカシーの欠片もないことは謝罪する。

 しかし、人と会話すること自体が久し振りなのだから勘弁してほしい。


 ……ちょっと待てよ。さっき、みずきさん、僕の名前を呼ばなかったか。

 確か、保志くん、と。


「さっき、僕の名前呼ばなかった?」

「え、うん、保志くんでしょ?それがどうしたの」

「なんで僕の名前知っているんだ?」


 僕の名前といったら、入学当初の自己紹介のときくらいでしか名乗っていないはずだ。


「なんでって、そりゃクラスメイトだし当たり前だよ」


 みずきさんは口元に手を当てながら優しい苦笑を見せ、そう言った。

 それが当たり前なら、僕はどうなるのだろう。


「保志くんってみんなと全然話さないから、どんな人なんだろってずっと気になってたんだよね。まあ今日が話すの初めてってわけじゃないんだけど……」


 正直な話、僕のことを少しでも気にしてくれている人がいたなんて驚きだった。なんというか、いちクラスメイトとして冥利に尽きる。

 でも、過去にみずきさんと話した記憶は僕には無かった。


「僕はつまらない人だよ。気にかけてもらう程の人間じゃない。友達もいないし、根暗だし。それに、僕と関わると不幸になるんだ」


 僕は疫病神だから。だから僕には関わっちゃいけないんだ。語尾に小さくそう付け足した。

 僕の言葉を聞いたみずきさんは、苦虫でも噛み潰したような渋い表情をした。どこか、悲しむような表情でもあった。

 しかし、即座に表情を一変させ、何事もなかったかのように、次には真面目な面持ちで僕にとっては予想外な言葉を放った。


「でも絵は上手」

「は?」

「いつも休み時間とか描いてるでしょ。前に、机の上に置いてあった絵を見ちゃってね、とてもびっくりしたよ。凄く綺麗な絵を描くんだなぁって」


 いつの間にか見られていたらしい。人に自分の絵が見られるというのは言いようのない恥ずかしさがあった


「今描いてるのも絵だよね?良ければ見せてよ!」


 そんな笑顔で迫られると断れるものも断れない。コミュニケーションに慣れている女性はこれだから怖いのだ。


 一番後ろの席に座っている僕と、黒板の前に立つみずきさん。かなりの距離間で会話していたことに今更気づいたが、きっとこの距離があったからこそ、僕は彼女とまともに会話できたのだろう。

 何せ僕は人と関わらずにいるのだ。もちろん異性への免疫なんて毛ほどもない。それに、彼女の魅力には破壊力がありすぎる。大勢の人に支持され、クラスの委員長になったことも頷ける。委員長らしからぬドジなところは愛嬌として、さらに人気を呼ぶのだろう。


 そんなみずきさんは僕の返事など聞かずにこちらへ近づき、僕の前にある席の背もたれを抱えるようにして座った。

 どうせ断れないのだから絵を見せるのはいいが、こう近づかれると困ってしまう。


「人に見せるような物でもないけど、それでも良ければ」


 僕の返答を聞いたみずきさんはさらに笑顔を咲かせる。


「まだ完成してないから、そこは目を瞑ってほしいかな」


 そう注釈して保険をかけ、目の前で手を伸ばし待っているクラスの委員長に描いた絵を渡す。

 手を出して待っている姿が小動物のように可愛らしく思えたから、少し焦らそうかと考えたことは内緒にしておこう。


「おお!すっごい綺麗な絵!これで完成じゃないの?この金髪の女性は誰がモデル?背景はこの教室だよね?」


 途端、質問攻めに遭った。

 しかし、その中に僕にとっては聞き捨てならない言葉が含まれていた。

 みずきさんは、この鉛筆だけで描かれた絵の中の人物を見て、即座に金髪だと言ったのだ。

 僕は金髪をイメージして描いたのだから、そう見えているというのは思わしいことだ。だが、僕の絵を見て色がわかる人は、絵画に通ずる人間が大半である。


「今、金髪って……」

「ん?ああ私にはなぜかそう見えたんだよね。なんでだろ、鉛筆で描かれた絵なのに不思議だね。ねぇ、それより何をモデルにして描いたの?」


 やはり、みずきさんは僕の絵の『色』が見えたみたいだ。

 みずきさんが絵を描く人なのか、それとも絵画に関しての才能を秘めているのかはわからない。しかし、どちらにしろ僕はお天道様に苦言を呈したくなる。天は二物を与えず、なのではないかと。容姿に、交友関係、才能、それらをすべて備えている人間がいるということはこの世界は全く以て平等にできていないものだなと思ってしまう。


「モデルはこの空席だよ」

「あ!保志くんの隣の席の!でも、この女性は誰?まさか、隣にいる保志くんにしか見えないオバケのクラスメイトとか!」


 オバケとは、あながち間違いではないのかもしれない。


「まあそんな感じ。さすがにオバケってわけではないんだけど、クラスに空席があるなんて不自然だと思ったから、本当は誰か座るべき人がいるんじゃないかなって、空想して『透明のクラスメイト』を描いているんだよ」


 勢いでつい口走っていらぬ事を言ってしまった感は否めないが、我ながら透明のクラスメイトとは言い得て妙だ。


「へぇ、なんかロマンチックだね。でも、確かに転校生とか来てくれたら楽しそうかも!」


 みずきさんは感心しながら、まだ見ぬクラスメイトに思いを膨らませる。

 しかし、


「でも、絵描いてるだけじゃ友達できないよー」


 僕のクラスの委員長はそんなことも言ってきた。いらぬお節介である。


「端から友達なんて僕にはできないよ。こんなに人を避けているのに」


 そうだ、僕はここ三年間、人と関わらずに生きてきたんだ。

 いや、正しくは人と関わらないように生きてきた。

 だって僕と深く関わった人はみんな――


「なら、私が保志くんに関わる。友達になるよ」


 真剣な眼差しで彼女は僕に言った。


 どうして彼女はこんなにも僕に関わってこようとするのだろう。ただのお節介か?それとも僕が自意識過剰なのだろうか。

 クラスの人気者からの甘美な誘いであっても、しかしそれが、僕が他人に関わるという内容であるなら素直には頷けない。


 僕に面と向かっていたみずきさんは放った言葉に今更恥ずかしくなったらしく、視線を逸らしながら僕の言葉を待っている。

 おそらく、みずきさんは思考よりも行動や言葉が先に出るタイプのようだ。


「僕みたいに孤立している人が珍しいとかいう好奇心で言っているなら安易に近づかない方がいいよ」

「そんなんじゃないもん」

「好奇心が殺すのは猫だけじゃ済まないって話」

「むぅー。まあ今日のところは時間が遅いし、勘弁してやる。でも私は諦めないぞ!」


 どうやらクラスの委員長は、クラスメイトが孤立しているのを容認してはくれないらしい。


「はいはい、帰り道は気をつけて」


 僕は適当にあしらっておく。


「え、あ、うん。ありがとう」

「あと、本来の仕事を忘れずに」

「あぁ!黒板!」


 みずきさんは駆け足で黒板に向かうと、早々に白チョークの文字の羅列を消していった。


「私はそろそろ帰るね。保志くんは絵を完成させてから帰るんでしょ?」

「そうだけど」


 なぜ僕のスケジュールを知っているのだろう。


「そっかー、ならお絵描きガンバレ」


 なっ。僕の今までの努力が『お絵描き』という、あたかも児童が描いた絵みたいに言われてしまった。屈辱だ。みずきさん、さっき僕の絵を見て綺麗な絵と言っただろうに。


「あ、あともう一つだけ!」


 教室から出ていきかけていたみずきさんは再び戻ってくる。

 まだ何かあるというのか。僕の絵を馬鹿にしておいて……


「保志くん、そんなんだから、クラスメイトの名前なんて覚えてないでしょ?だから、最初の友達になる子の名前くらい覚えて帰ってよ」


 それは果たして誰のことだろう?僕に友達?

 もしその僕の友達になるという人がみずきさんの事なら、僕は既にクラスの委員長として名前を覚えてしまっている。

 だから、こう言ってやろう。


「私の名前は――」

「さよなら、みずきさん」


 そう名前を呼んでやった。これで下の名前だったらと考えると……いや、やめておこう。

 教室の入り口に佇むみずきさんは驚愕の表情を顔に張り付け硬直してしまっている。そんなに驚くことだったのだろうか。

 それから数秒後。短い沈黙を経てみずきさんは満開の笑顔を咲かせてみせた。


「うん!また明日ね!」


 みずきさんはそう言うと、とても満足気に、とても嬉しそうに、リズミカルな足音をたてながら教室を離れていった。


「台風みたいな人だ」


 一言、みずきさんに抱いた印象を口にしてみる。


 突然現れ、僕の感情を荒らしてすぐさま去っていく。まさに台風ではないか。

 常に話題の中心にいて、周りの人間に影響を与えている様は、台風の目といったところか。

 ただ、他人と関わる際にはいつも挙動不審になってしまう僕でも、みずきさんとはそれほど気兼ねなく会話ができていたと思う。それこそが彼女の最大の魅力、人徳というものなのかもしれない。


 尤も、他人と極力関わらずに生活していく、という僕のポリシーからすると、警戒対象であることは、間違いなかった。これから更に関わってこようとするものなら、接し方を考えねばならなくなってくるかもしれない。


 ――キーンコーン


 聞き慣れた鐘の音で僕の思考は途切れた。

 午後六時、最終下校時刻を知らせる鐘だ。

 そろそろ絵を完成させないと。学校の警備員の見回りが始まるまでには帰りたい。

 そう思い、再び机に向かう。


 再度僕一人となった教室内に立ち込める静寂に、いつもは気にならなくとも、さっきまでみずきさんと話していたという事実のせいで寂寥感を覚えてしまう。

 数年もの歳月を経て麻痺していた僕の感情は、久々の他者とのコミュニケーションを介して寂しさという感情を思い出す。

 いらない感情だった。そんなものは数年前に置いてきたはずなのに。


 気持ちを切り替えようと頬を一度叩く。パシッという乾いた音とともに刺すような痛みが頬を刺激し、気持ちの切り替えに一役買う。

 やる気スイッチを押したことで、鉛筆を手に取ろうと……


「あれ?」


 しかし、絵を完成させるために必要な柔らかく濃いめの鉛筆が一向に見当たらなかった。

 筆記用具入れにも、バッグの中にも、机の中にもない。

 絵を描く時以外には使用しない鉛筆なだけに失くすことなどないと思っていたが、どうやらどこかに置いてきてしまったようだ。自宅にあるといいのだが。


 しかし、無い物は使えない。借りに行こう。

 借りると言っても友達のいない僕にはその線はない。だから学校に借りるのだ。尤も、仮に友達がいたとしても、最終下校時間を過ぎてすら居残っている友達や、普段使うことのないような濃さの鉛筆を持っている友達がいることに期待するのは、些か厳しいものがあっただろう。


 再びバッグの中をあさり、鉛筆とは違うお目当ての物を発見すると、それを取り出して席を立つ。

 僕以外の生徒は既に下校しているはずだから、荷物などはすべて置いたままでも平気だろう。僕は教室のドアを開け放ち、早足で目的地を目指すべく教室を出た。


 僕の教室である一年三組は校舎の二階だから階段を経由して三階にある目的地まで行く。

 この時間帯の学校を移動するのはなぜかワクワクしてしまう。警備員に見つからないようにしなくてはならないという軽い危機感や、放課後特有の廊下の暗がりが良い緊張感を出しているからなのかもしれない。


 そんな冒険気分を味わっていると、程なくして三階の端にひっそりと佇む教室の前についた。

 僕は教室から持ってきた物を使い、施錠された眼前のドアを開ける。

 自身のバッグから取り出し持ってきた目当ての物とは、この美術室の鍵だ。


 何かと美術室を利用している僕は、美術の先生でもある担任教師の向井先生に毎度毎度鍵を貸してもらっていると、いつの日か美術室ごと鍵を預けられてしまった。

 本校は美術部がないらしく、鍵はマスターキーがあるから大丈夫とのことだった。

 僕からしてみれば便利なことではあるのだが、果たして生徒に教室の鍵を預けることは許されることなのだろうか。


 美術室に入ると、心地よい油絵の具の匂いが鼻腔を掠める。

 早速、目的の鉛筆が置かれている場所へ行きたいのだが、室内に散乱する美術の専門用具が足場を無くし、移動を困難にする。

 一見ゴミの山に見えるそれは、人によっては宝の山に見えることだろう。ほとんどが向井先生の私物らしい。

 美術の授業は各教室で行われる為、この美術室は用途を失い物置と化している。逆に言えば、物置と化したせいで美術室としての役割を全うできなくなったのかもしれないが。


 やっとの思いで絵画に使う用具が置かれた机に移動し、必要な濃さの鉛筆を取り出す。

 そこで、その鉛筆の芯が折れていることに気づき、鉛筆削りを探すも、夕陽の明かりだけが頼りのこの空間では場所を把握していない物を探すのは難しい。この多量な物が置かれた美術室から探し物をするなんて事は骨が折れるどころの話ではない。


 そういう時は即座に見切りをつけ、時間を有効に使うべきだ。

 教室に戻ったら鋏で鉛筆を削ろう、おそらく鉛筆削りを見つけるよりはそちらのほうがずっと早い。そう思い立った僕は早足で教室へと戻った。


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