第二十一話 月と太陽
目が覚めると、僕の視界には見覚えのある天井が映った。
僕は自分の家の自分の部屋の自分のベッドで寝ていたらしい。しかし、僕は確か病院で月と一緒にクリスマスを過ごしていたはずだ。
机に置いてある携帯電話が点滅していた。
僕は起き上がり、ふらつく体を引きずって机まで移動した。
メッセージ一件。葵からだった。
《疲れきって眠っちゃってたお兄ちゃんを向井先生に頼んで家まで送ってもらいました。お兄ちゃん風邪ひいて熱があるみたいだからちゃんと寝ててね。葵より》
どうやら僕は熱があるみたいだ。言われてみれば、体はとにかく重い。
僕は《ありがとう》と返信して画面を閉じる……と、その時。
携帯の画面を閉じようと思ってホーム画面に移った時、時間と日付が目に入った。
時間は午後二時。そして、日付は十二月三十一日だった。
「え、どうして⁉」
僕は急いで病院に向かう準備をする。体がふらつくが構ってはいられない。
月末だ。何が起こるかわからない。
僕は家を飛び出しながら、立て続けに二本電話をかけた。最初はタクシーを呼ぶためだ。次は葵に電話をかけた。
「葵!」
『お、お兄ちゃん大丈夫?ここ五日間ほとんど寝てたけど……』
「月の様子はどうなってる⁉」
『ゆえ?誰それ?』
…………どういうことだ。
『なら、葵今どこにいる?』
『今は友達の家だよ。今日泊めてもらうんだ。友達と年を越せるなんて楽しみだなあ』
『病院はどうした?』
『病院?さっきからお兄ちゃん何言ってるの?ずっと寝てたから寝ぼけてるの?』
…………冗談だろ?
『ごめん、お兄ちゃんもう切るね。これから出掛けに行くみたいだから。ちゃんとご飯食べなよ。明日の夕方頃、様子見に家行くからね』
『あ、ああ…………』
どうなっているのだ。とにかく病院に行くのが先決だ。
僕はタクシーに揺らされ三十分程で病院に着いた。
いつものように、いつも通りに階段を上り、3030号室に向かう。
病室に着くと二回ノックして、僕が来たことを知らせる。
月が声を失ってからは声をかける代わりに、僕が二回、葵が三回、病院の人が一回と、ノックで誰が来たのかをわかるようにしていたのだ。
そして僕は眼前のスライド式のドアを開けた。
「…………どうして」
いつも月が座っている303号室のベッドはもぬけの殻だった。布団は新品のようにきちんと畳まれていて、生活感など皆無だった。
「すみません!」
僕は月を担当していたナースに声をかけた。僕のことも覚えていてくれて、よく茶化してきた人だ。
「はい、どうされましたか?」
「303号室に入院しているはずの水無瀬月さんは、どこにいったんですか?」
「水無瀬月さん?申し訳ありませんが、そのような名前の患者さんはこの病院にはいないと思いますよ」
「いや、あなたが担当していた患者ですよ!」
「私の担当する患者さんにそのような方はいませんよ。あと病院内では静かにお願いしますね」
しかし、それはいつもからかってくるような調子のナースとは考えられないほどに素っ気ない返答だった。どうやら僕のことも覚えてないみたいだ。
僕は逃げるようにして病院から出た。
幸せになりたいという月の願いが叶えば代償として月は消える。その消えるという言葉の意味を僕は今更になって理解した。消えるというのは死を意味するわけではない。その存在の消失を意味するのだ。
病院の人も、そして友達である葵でさえも月のことを覚えていない、というより知らないみたいだった。月という存在がこの世界から消えていこうと、いなかったことになろうとしている。その事実は覆し難いほどに本当だった。
ただ僕は、僕だけは、まだ彼女のことを覚えている。だとしたらまだ消えてはいないはずだ。
僕は月を見つけるべく、街中を駆け回った。最初に向かったのは月がよく行っていたという高台。しかし月の姿はなかった。それから思い当たる場所にはすべて行った。ショッピングモール、カラオケ、ゲームセンター、それから月の両親のお墓や、月の家にも探しに行った。迷路のような住宅街も時間をかけて探し回った。閉まっている学校の中にも、一緒に相合傘をして帰った駅までの道も、月と一緒にいた場所すべてに行った。
でも、どこにも彼女はいなかった。
ただ、彼女と一緒に歩いた場所を通るたびに、僕の中の思い出のフィルターから彼女だけが消えていってしまうようだった。
「このままじゃだめだ」
このままでは、マスターと同じ道を辿ってしまう。記憶がなくなるから後悔は残らないと彼は言ったが、要はそういう問題ではないのだ。マスターが、いや僕が望んだ最後は笑顔の最後だ。言いたいことを伝え合って、笑顔でさよならをするのだ。
携帯で時間を確認する。今年が終わるまで、あと一時間を切っていた。
もう月は消えてしまったのだろうか。
――月はここにいますよ。
ふと、マスターの言葉が浮かんだ。
マスターが僕に、僕である証の絵を見せた時の言葉だ。その絵は僕が高台で描いた月のポートレートだった。
これはかつての、あるいは未来の僕が託してくれた最初で最後の願い事、なのだろう。
――さあ、行こう。
どこからか、そんな声が聞こえた。
「今、行くよ」
僕は満月が見下ろす夜の街を、再び走り出した。
「はあ……はあ……」
肩で息をしている。風邪がまだ治っていない体には、冬の寒空の下を走り回るのは毒だったみたいだ。更に熱が上がってしまっていた。もう倒れてもおかしくはない。
「はあ……。月、ここにいるんでしょう?」
僕は無人の高台に、出せる限りの声で想い人の名前を何度も、何度も呼んだ。
ベンチが二つ置かれただけの高台には僕の声だけが響いた。返事はない。
辺りをぐるりと歩き回りながら、名前を呼び続けた。
そして、高台の中央付近、絵の中の月が立って街の景色を眺めていた場所の辺りに、他の場所とは異なる違和感を覚えた。それは温かみのある違和感だった。僕はその違和感を覚えたところにゆっくりと手を持っていき、その違和感をしっかりと握った。すると、僕が何かを握った指と指の間に、確かな感触があった。
「月、ここに、いるの?」
しかし返事は無い。ただ、僕の手は誰かの手によって握り返されている。
僕はその手の位置を頼りに、握り返す相手がどこにいるか見当をつけた。
そして、僕は眼前の空間を、思い切り抱きしめた。
「うわっ」
懐かしい声だった。それは僕がずっと待ち望んでいた声。その声を聞いたのはいつぶりだっただろうか。
「月」
次第に腕の中にいる人物は、姿を現した。抱きしめる僕の左手には髪の毛の感触が、右手には薄い腰が、あばらの辺りには女の子特有の柔らかな感触が、あった。
「はい、保志さん」
「遅くなってごめんね」
「本当ですよ。私ずっとここで待っていたんですから」
いつかも交わしたそんなやり取りだった。
抱きしめる力を緩め、月の顔を見ようとした。しかしそんな僕の行動を月は許さなかった。
「離れないでください。寒いんですから」
病衣のままの姿の月はわざとらしく体を震わせた。
「でも、僕は月の顔が見たい」
「嫌です」
「どうして?」
「泣いてしまいますよ。きっと」
「泣けることはいいことだよ」
「でも、最後の時間くらい笑顔でいたいんです」
泣いていても、気持ちが笑っていればそれでいい。そう思った。笑顔でさよならとはそういうことだ。
「このままじゃ笑顔も見えないって」
「……そうですね」
月は僕から一歩離れ、僕に姿を見せた。
――もう既に泣いていた。
でも涙は地に落ちる前に満月の輝きが反射して光って消えた。空中で流れ落ちる涙は消えた。涙の跡さえも残させまいと、世界が月の涙を消していた。
「私、全部思い出したんです。自分がどうしてこんな状況になったのか、どうして保志さんに出会えたのかを、思い出したんです」
月はそう言った。もうこれ以上にないほど幸せだからもうすぐに消えてしまうと。
「私はもう幸せなんです」
「でも、それでも、やり残したことはいくつだってあるはずだよ。何か、やり残したことはない?」
僕は惨めだとしても、月がこの世界に残れるように、彼女の悔いを探してしまう。
「そうですね。やっぱり人間として、私が生きた証として、子孫を残したかったかな」
月は悪戯をするように、陽気に笑った。
「え、あ、いや、それは……」
「冗談です。ちょっとからかってみたくなっただけです」
「びっくりしたよ」
「ふふ。ナイスリアクションです」
僕はこの笑顔でさえも忘れてしまうのだろうか。もうすぐ、僕の記憶からも、月のことが消えてしまうのだろうか。
「保志さんは、私と何かしておきたいことはありますか?あと数分しか私はここにはいられません。なので何でもしたい放題ですよ?誰に知られることもないですし、今なら私何されても許しちゃいます」
月は僕をおちょくるのが楽しいみたいだった。
「なら僕の名前を呼んでよ」
「保志さん」
「いや下の名前をだよ」
「保志さんの下の名前って……?」
「僕の名前は、太陽、だよ」
「では、太陽」
「うん」
「太陽」
「うん」
「ふふ、月と太陽だったんですね。私達」
それから月は覚悟したように、凛とした表情で言った。
「もう、年が明けます。私ともさようならです」
「そっか」
「はい」
僕はまだちゃんと伝えていないことがある。言わなくちゃ。たった二文字の言葉がこれほど重いなんて。
「太陽、私はあなたと出会えたことで幸せになれました。だから、太陽も幸せになってくださいね。これが私の最後のお願いです」
突如、月の体が光った。淡い光を纏って、空へと少しずつ消えていく。
最後のお願い。それは月の家で月の過去を聞いた時に、彼女が話をする為に提示した約束だった。破ってはならない約束。
でも、僕は君がいないと幸せになんかなれない……
「待って!」
僕は再び月を思い切り抱きしめた。
どこにも行かせないと言うように、ここにいてくれと言うように、思い切り、抱きしめた。
早く言うんだ。後悔の無いように、想いを伝えるんだ。
「僕は君のことが……っ!」
月の存在が薄くなっていることが嫌でもわかる。その存在は徐々に光へと変わって消えていく。
僕は、僕は、僕はっ。
――月のことが好きです。
次の瞬間、僕の腕は空をかいた。
僕から離れ、空に舞っていく光は、僕を笑顔で見守っていた気がした。
今日の満月は強い輝きを放ち、美しく見えた。
でも、君は、満月よりももっと美しかった。美しく生きた。
「月が綺麗だ」
僕はもう一度、君のことが好きだという意味の言葉を呟いた。
君は僕の心に立ち込める闇を、月の光であるかのように照らしてくれた。
僕は君の曇った心の中に、陽の光を射しこむことができたかな?
できてたら、いいな。




