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第二十話 最期の灯

 僕は約二ヶ月振りに病室の扉を開けた。


 水無瀬さんは相変わらずベッドにいたが、以前僕が来たときとは違って、横たわっているわけではなく、背を壁に預け座っている状態だった。そして手元にはスケッチブックがあり、水無瀬さんは僕が病室に入ってきたことに目を丸くしながらも、そのスケッチブックを僕に見せてきた。


『こんにちは。保志さん』


 そう書かれた文字が見えた。

 僕が来ていなかった間に、現実はさらに彼女を消そうとしていたのだと痛感した。


「こんにちは。水無瀬さん」

『呼び方は月で定着させてください』


 僕は水無瀬さんが、いや月が望むのならと、これからは下の名前で呼ぶことにした。


「遅くなってごめんね、月」

『本当ですよ。ずっと待っていたんですから』


 二ヶ月振りの月の笑顔だった。

 この笑顔がこんなにも愛おしいものだということを僕は知らなかった。

 きっと僕はそんな彼女の笑顔が大好きなのだろう。

 月の最期の時までこの笑顔を咲かせ続けようと僕は自分自身に誓った。


 そして十一月三十日。月はとうとう体の感覚をほとんど失った。




 ――パリンッ

 病室の床に割れたコップの破片が飛散した。

 僕の渡したコップをうまく握れずに月が落としてしまったのだ。


「気にしないでいいよ。ほうきとちりとり借りてくるからちょっと待ってて」


 そう言うと月は眉を八の字にして、困ったように笑った。手は酷く震えていた。

 僕はそんな笑顔が見たいわけではなかった。前みたいに自然と笑う姿が見たいのだ。


 病室から出た僕は何もかもを諦めたかのように笑う月を見て、溢れだす悔しさを抑えきれなかった。その悔しさのあまり、唇を強く噛み締めた。

 痛い。

 僕の感覚は痛覚を持ってして警鐘を鳴らす。しかし、僕は力を緩めない。もしも月が僕と同じことをしても、彼女は痛いと思わないのではないか、そう思ってしまったから。たとえ痛覚だとしても月が人として存在している証拠が欲しかった。僕は一番近くにいながら月のことを何も知らない。どれだけ辛い思いをしているのか、今何を望んで息をしているのかを、何も、知らない。その事実が何よりも悔しかった。


 色を失い、声を失い、感覚までもを失った。そんな彼女は、あまりにも儚い。

 存在が儚すぎた。


「お兄ちゃん!口から血が出てるよ!どうしたの」

「ああ、大丈夫だよ。ちょっと切っただけだから」

「ならいいんだけど……。でも顔色も悪いよ?月ちゃんのことは私が看とくから、お兄ちゃんは帰って一度しっかり休みなよ」


 僕は十二月に入ってから、学校にも行かずに月の傍に居続けた。病院の人は月には手の施しようがないから、居たいだけ一緒に居てあげてと言ってくれた。誰もがもう月には時間がないことを分かっていた。きっと今年の最後、十二月三十一日を過ぎた頃には、月はもう……


「いや明日はクリスマスイブだから、一緒に祝いたいんだ。休むにしてもクリスマスが過ぎてからだよ」


 そして僕は三週間もの間、病院で寝泊まりをしていた。月に何かあってからでは遅いから、なるべく一緒にいるようにした。その為、まともな睡眠を今月一度も取っていなかった。


「……じゃあ、クリスマスが終わったらちゃんと家に帰ってしっかり休息を取ってね。月ちゃんも心配してるみたいだからさ。その間は私がずっとここにいるから安心して」

「わかった。いつもごめんね、葵」

「ごめんじゃなくて、ありがとうって言ってよ」

「うん、いつもありがとう」

「それでよし。あと、ちゃんと切ったところ消毒してきなよ。何か取りに行こうとしてたんでしょ?私が行くから、お兄ちゃんは消毒してきて」


 いつの間にか姉のように僕を支えてくれている妹みたいになっていた。

 葵がいなかったら僕はここまで頑張ることができなかっただろう。


「じゃあ任せるよ。コップ割っちゃったから、その片付けをお願いしてもいい?」

「了解。任せておいて」


 そう言う葵の顔も、疲労を隠し切れていないことを僕は知っていた。

 本当にいつもありがとう。




 十二月二十五日。クリスマスがやってきた。

 昨日のクリスマスイブは葵も含めた僕と月と葵の三人で軽いパーティーを病室でやったが、葵はクラスの友人との付き合いもあって、今日は僕と月の二人だけだった。


「今日はなにしたい?クリスマスパーティーは昨日やったけど、今日も二人でやる?」

『今日はゆっくりしていたいです』


 月は時間をかけて、握るペンを何度も落としながら、スケッチブックにそう書いた。その拙い文字を見ると毎回胸が苦しくなる。


「わかった。そうしよう」


 僕は月の手を握る。小さな手には確かな熱を感じることができた。


『私、幸せなんです』


 突然そんなことを書いた紙を僕に見せた。


「いきなりどうしたの?」

『もう思い残すことはありません』

「え…………」

『私にはもう少しで終わりが来ます』

「…………」

『だから、保志さん、ありがとうございました』


 月は笑っていた。涙の無い泣き顔を浮かべて笑っていた。

 そうか、君はもう涙も流せないんだね。

 なぜか僕が泣きたくて堪らなくなった。

 もう、泣いてしまおう、彼女がいてくれる今この瞬間に。


「……っ」


 みっともない声を聞かれないように、僕は声を殺しながら泣いた。

 我慢してきた物を思い切り流した。

 その間、月はぎこちない手つきで僕の頭を優しく撫でた。


 頭から伝って来る温もりが耐え難いほどに気持ちが良くて、僕の意識は遠のいていった。

 睡眠不足の限界だった。

 視界は黒に包まれ、意識は微睡みの中へ。




 ――夢を見た。


 僕の記憶であって、僕の記憶には無い、そんな夢を見た。

 ある一人の少年が、ある一人の少女に出会って、恋に落ちる、そんな話だった。


 少年は、思いを寄せていた少女が治らない病にかかったことを知る。その少女を救う方法はただ一つ。少女を幸せにすることだった。しかし、現実は残酷なもので少女は幸せになるにつれて病状は悪化していくばかりだった。救うとことと病気を治すことは違うことだったのだ。


 死して幸せにすることが唯一残された、少女が救われる方法だった。

 結局少年は、病気で不自由を強いられた彼女を、幸せにすることを選んだ。

 そして、その少女は、少年の腕の中で息を引き取った。

 そんな話だった。




 ふと目を開けると、そこは見覚えのある場所だった。

 コーヒーの香りが漂う、落ち着いた場所だった。


「お久しぶりです。保志さん」


 マスターは僕の名前を呼んだ。


「マスター、ここは?」

「もちろんカフェですよ」

「でも、いつもと雰囲気が違うような気がして」


 いつも嫌なほど感じていた不気味さというものを微塵も感じない。店の内装は変わっていないのだが、照明は点いておらず、窓から射し込む朝日だけがその場での明かりの頼りで、店内を温かく照らしていた。客は相変わらず僕一人で、でもそんな状況だからか、どこかノスタルジックな気持ちになった。


「ここは私の記憶の中であり、保志さんの夢の中でもあります」

「よくわかりません」


 夢の中というのはわかる。でも、他人の記憶の中というのは理解し難かった。


「ここに来る前に何か他の夢をみませんでしたか?」

「あ、はい。報われない恋愛ドラマみたいなものを」

「恋愛ドラマ、ですか。それは笑ってしまいますね」

「それがどうかしたんですか?」

「ここはその夢の続きのようなものです。あなた前にいる私こそが、その恋愛ドラマの少年役を務めていた人間のなれの果ての姿なのです」


 マスターはそう言った。さっきの夢にいた、報われなかった少年。


「でも僕がなんでそんな夢を?」

「はい。それはデジャヴみたいなものだと考えていただければいいかと。夢のようでいて現実的、これから起こるかもしれない可能性です」


 漠然とした夢だったのは確かだ。

 しかし、その夢には確かに覚えがあった。最後少女が息を引き取る場面以外は僕が体験したこととほとんど同じだった。


「それって……」

「私という存在は、保志さん、あなたがこれから歩むかもしれない可能性なんです。私はあなたで、あなたは私。そして、夢の中で息を引き取っていたのは月なのです」


 それは理解したくない領域の話だった。


「私は月の友達です。思いも告げられずに、何もできなかったただの友達です」

「でも月は今も生きています」

「言いましたよね、これから起こるかもしれない可能性だと。そして、僕は保志さんが先程見てきた夢の結末を辿ってしまった」

「それじゃあ、月が一度消えてしまった事実があるかのような話ではないですか」


 この人が僕の未来の姿とでも言うのか。


「あったのですよ。実際に。私の前で月は死にました」

「じゃあどうして彼女は今も生きているんですか。それに、マスターが僕だというのなら、なぜ僕がいるんですか」


 未来だろうと過去だろうと現在だろうと、同一の人物が二人いるということは世界に矛盾が生じてしまう。タイムパラドックスとか、そういう話のことだ。


「私は、月に何もしてあげられなかったことや、思いを伝えられなかったことなどの後悔をずっと引きずったままでいて、生きている意味を見いだせなかったんです。私にはあなたと違って妹もいないのですから。そして、このカフェに辿り着き、願った。後悔を無くしたいと。その願いによって生まれたものが、もう一人の私であるあなたと、生きて再び出会うことになる月、その二人が生きていて矛盾が生じない新しい世界だったのです。私はそんな禁忌を犯し、この世界の理とは隔離されたここに幽閉された。というわけです。ここは世界とは隔離されていて、常識というものには囚われない。なので同じ人間が二人いても問題はありません」


 言っていることがめちゃくちゃだ。わけがわからない。


「信じられない話だということは重々承知です。だから、これを見てください」


 マスターは、一枚の絵を僕に見せた。

 その絵には見覚えがあった。初めてここに来た時に飾ってあって印象的だった絵。そして、それは僕が描いた絵でもあった。

 絵の中には平凡な街並みを眺めている一人の少女が描かれていた。


「これが、私があなたである証拠です。この少女は月。月はここにいますよ」


 信じないわけにはいかなかった。描かれていた少女は紛れもなく月だったから。僕が描いた絵と全く同じものだったから。


「保志さん、おそらくはじめてこの店に訪れたとき、コーヒーを飲まなかったのではありませんか?」

「はい。飲まなかったです」

「はは、やはりそうでしたか。あなたが私だとわかった時、まさかとは思っていたのですよ。もちろん私もコーヒーが苦手ですから」

「でも僕、コーヒー飲まずにあのメニュー表が見えましたよ」

「それは私が一度ここで願いを叶えているからでしょう。何と言っても同一人物ですからね」


 マスターは愉快そうに笑った。


「尤も、私は既に名も捨てた、人ではない人ですから。ここに幽閉されたとき、全ての記憶が元に戻りましたけどね」


 彼は後悔を作らない為に人であることをやめた。世界というものを作り変えまでして。

 僕が同じ状況だったとしたら、やはり彼である僕は同じ選択をしたのだろうか?


「私の場合は、保志さんと似通った人生を送りましたが、少し違います。妹はおらず一人っ子でしたし、月も願いの代償ではなく、病気で亡くなった。僕のときとは違って、願いの代償で消える月は、消えてしまえば保志さんの記憶からも消えてなくなります。だから僕のように後悔を抱えることはないでしょう。結末はどうあれ私の果たされなかった願いはどうであれ叶うことになる。でも、やるべきことはわかっているのでしょう?」

「…………」


 僕は水無瀬さん笑顔にさせることを選んだ。そして、もう一人の僕が言えなかったことを僕が、僕の気持で言うんだ。


「さあ、もう夢から覚める頃合いです。後はあなた次第ですよ」

「うん。願いを叶えてくるよ」


 僕が願った世界越しの願いを。

 僕の望む最高の結末を叶えに。

 ――さあ、行こう。


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