第十八話 失われていく存在
あの日から、僕はずっと水無瀬さんとの距離について考えていた。お見舞いには未だ行っているし、連絡も取っている。しかし、僕が理由で消えてしまうと言われれば、距離を置こうと思わずにはいられなかった。
けれど、水無瀬さんが一緒にいることを望んでいるということも僕は知っていたから、どうすることもできずにいた。
「保志さん、今日はありがとうございます。沢山楽しみましょう」
そんな中途半端な気持ちを抱えたまま、僕は水無瀬さんとショッピングモールに来ていた。
外出許可を得た水無瀬さんと二人きりでのお出掛けだった。と言っても、病院側からは県を越えてはいけないと釘を刺されていたので、遠出とまではいかなかったが、水無瀬さんは満足しているみたいだった。
とりあえず、今日は僕も楽しもう。そう思い、水無瀬さんが訪れたいと言った場所に次々と行く予定を立てたのだった。
「それにしても広いね」
「はい、いくつお店があるんでしょうか。日曜日だからか人も多いですね」
「はぐれないように気をつけてね」
「子供扱いしないでください」
「でも、水無瀬さん方向音痴だし」
「なら、はい」
水無瀬さんは僕の方へ左手を差し出してきた。
「私、こういう人の多い場所で、迷子になるからという理由で手を繋いでもらうことに憧れていたんです。だから、はい」
ご存じの通り私ってバカみたいに方向音痴ですから。なんて言って水無瀬さんは笑った。
「そうだね、それは否めないかな」
僕は差し出された小さな手を優しく握りしめた。
「んん、そうやって何の迷いも無しに認められると、素直に頷きたくないですけど、でも、私の憧れの一つが叶いました。まあ迷子になるからというのも口実なんですけどね」
「要は手を繋ぎたかったと?」
「はい、そういうことです。わざわざ混んでる時間に来て正解でした」
そう言う彼女の笑顔は自然でいて愛らしかった。やっと自然と表に出せるようになったこの笑顔を失いたくないと僕は心底思った。
「ちょっと、走ると転ぶよ」
僕の手を引っ張りながら先導する水無瀬さんだが、僕が注意した傍から足を踏み外した。
「ほら、もっとゆっくり歩こう。最近はずっと寝たっきりだったんだから、脚が鈍ってるんだよ」
「ふふ、すみません、嬉しくてつい。でも手を繋いでいる意味がありましたね。受け止めてくれてありがとうございました。さすが男の子です」
悪びれる様子の無い彼女を見て、こんな笑顔がずっと見れたらいいのにと思った。
それからも、僕は水無瀬さんに引っ張られ続け、ショッピングモール以外にも、カラオケやゲームセンターなどに行って遊び回った。水無瀬さんは高校生が行くような場所で遊んでみたかったらしい。
当たり前を失った僕らの求めるものは、いつだって当たり前の幸せなのだ。
陽が傾き、空が陰りを見せ始めた頃、僕らは娯楽施設から少し離れた場所に来ていた。
「お父さんとお母さんのお墓がここにあるんです。実は私初めて来たんですよね。今までずっとここに来る勇気が持てなくて。でも、保志さんがいれば大丈夫だと思ったんです」
そこはずらりと墓石が立ち並ぶ墓地だった。
「でも、僕も一緒に来て良かったの?」
「一緒に来てほしかったんです。私の両親に会ってあげてください」
比較的新しい墓石には水無瀬海人、水無瀬空と名前が端正な文字で彫られていた。
海に空に月。綺麗な名前の家族だというのが僕の一番の感想だった。
隣にいる水無瀬さんは両手を合わせてずっと目を瞑っている。きっと話したいことが沢山あるのだろう。僕も静かに両手を合わせて目を閉じた。一言だけ『月さんと出会えて本当に良かったです』と心の内で唱えた。水無瀬さんを生んでくれてありがとう、育ててくれてありがとうといった言葉はどこか違う気がしたのだ。
服装は私服、お供え物は無し。ただ、水無瀬さんは会いたくて両親に会いに来たのだ。だからそれでいい。変に畏まらずに、子が親に甘えるように、伝えたいことがあったから訪れただけ。また伝えたいことができたら再び訪れればいい。そんな家族の本来あるべき形を見た気がした。
僕も近いうちに葵と一緒に父さんと母さんの墓参りに行こうと思った。
「もういいの?」
水無瀬さんが目を開けたことを確認すると、僕は訊いた。
「はい。言いたいことは全部言えました」
「そっか。それは良かったよ」
「一緒に来てくれてありがとうございました。保志さんがいなければずっと来られなかったと思います」
「僕の方こそありがとう。こんな大切なことに同行させてもらえて」
水無瀬さんの表情は澄んでいて、出会った頃に感じた言いようのない毒素が抜かれたようだった。ずっと抱えていた水無瀬さんの両親へのやるせない思いに答えを出せたのかもしれない。
「次の場所が最後です。消灯時間には病院に戻らないといけないので、早く行きましょう」
僕と水無瀬さんは飲食店で早めの夕食を済まし、最後の目的地へと向かった。
電車を経由して、僕らは学校の近くへと戻ってきていた。
学校を越えて、さらに進んだ場所にある高台。そこが最後の目的地だった。
「こんな場所があったんだ……」
それは、僕らを出会わせたこの町全体を見渡せる高台だった。
夜の帳が下りた街では各々の住宅が家庭の光を灯し、人々の営みを感じさせた。
「私、この夜景が好きなんです。私の住んでいる町を見ていると、自分は一人じゃないんだと思えるんです。確かに私はここにいるんだと、そう思えたんです。そして、この景色を誰かと一緒に見たいとずっと思っていました」
大きな建造物はなく、だからといって広い畑があるわけでもない。都会から少し離れた中途半端な町。でもだからこそ、町には温かな明かりが満ち溢れていた。人口的すぎずに、自然的すぎない町だから見られる大量の家庭の光。そんな光景は僕の琴線を揺さぶるには十分すぎる輝きを放っていた。だから僕は思った。
「思いませんか?この景色を絵にしたいって」
「今思ってる。というか描くよ。描かずにはいられない」
僕の返事に水無瀬さんは満足そうに頷いた。
今の水無瀬さんの目にはこの町の光がどう映っているのだろうか。
ただ、僕の絵を介して、その光をまた見てほしいと思った。
「水無瀬さんのことも描こうかな。最近描いてなかったし」
「わかりました。久々の描画会ですね」
僕はベンチに座りバッグからスケッチブックと鉛筆を取り出す。水無瀬さんは高台から町を眺めるようにして立っていた。
それから僕と水無瀬さんは今日一日の思い出話をしたり、病院のこと、学校のことを話し合っていた。それは病院へ戻らなければいけない時間間近まで続き、その頃になってようやく絵は完成した。
「描き終わったよ」
そこには、平凡な街並みを背景に、一人の少女が描かれていた。
「またこの景色を見られると思っていませんでした」
「そう言ってもらえて何よりだよ」
「それに保志さん、絵が上達しましたね」
元天才画家と謳われた人からのお褒めの言葉だった。
「その絵、水無瀬さんにプレゼントするよ」
「いいんですか?」
「うん。僕はこの景色を水無瀬さんにもう一度見てもらいたくて描いたというのも理由の一つだから」
「ありがとうございます……」
そろそろ病院に戻らなければいけない時間だ。しかし、僕はまだ水無瀬さんに伝えなければならないことがあった。
「水無瀬さん」
「はい、なんですか?」
「あの……」
「はい?」
言葉がなかなか切り出せない。今日一日中ずっと考えて、覚悟したことなのに。
でも言わないといけないことだ。
「僕は……」
「はい」
「僕はもう水無瀬さんとは会えない。今日で会うのは最後にしたい」
これが僕の選択だった。何があっても、水無瀬さんを失いたくなかった。
たとえ会えなくても、今も水無瀬さんは精一杯生きているんだと後でそう思えればそれで良かったから。
「……わかりました」
「ごめん」
「そう、暗い顔をしないでくださいよ。気が向いたときまた病院に会いに来てくれればいいんですから」
「…………」
もう一生会えない。とまでは言えなかった。泣きだしそうなのに無理して笑う水無瀬さんを見たら、僕はもう何も言えない。
「私の病気治らないんですよね?だから、いずれいなくなる人の傍いるのは辛いから離れていってしまうんですよね?」
「そんなんじゃ……っ!」
いや、でもそういうことなのかもしれない。
僕が一緒にいると水無瀬さんは消えてしまう。でも、消えてほしくないからではなくて、消えていく彼女を見たくないという気持ちも確かにあった。
「今まで一緒にいてくれて、ありがとうございました」
「…………」
「保志さん、最後に、私の名前を呼んでくれませんか?」
「……水無瀬さん」
「違いますよ。下の名前です。みずきさんが下の前で呼ばれていることにずっと羨ましいと思っていたんです。だから、最後に、呼んでくれませんか?」
「…………月さん」
「さんを付けないでください」
「…………月」
「ふふ、なんか照れくさいですね。でも嬉しいです」
水無瀬さんは懸命に下手くそな笑顔を浮かべて言った。
「私、今とっても幸せです」
その後、僕らは終始無言で病院に戻った。
病院に入っていく水無瀬さんの背中はいつもよりずっと小さく見えた。
翌日も、その翌日も、僕は水無瀬さんのお見舞いには行かなかった。
出かけたのを最後に、彼女と会わなくなれば、これ以上悪くなることはないだろうと思っていたからだ。しかし、そんな僕の考えは甘かった。
九月三十日。水無瀬さんは、声を失った。




