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第十二話 彼女の正体

 水無瀬さんの両親は水無瀬さんが生まれる前から共働きで美術関連の仕事をしていたらしい。

 美術の世界で食べていくことの過酷さを知っていた両親は、娘に美術の道を歩ませる気はなく、美術から遠ざけられたまま内向的で物静かな女の子として育っていったみたいだった。今の水無瀬さんからもそんな幼い頃の彼女を想像できた。


 しかし小学校に上がる前に、水無瀬さんは文字通り生まれて初めて両親に我が儘を言ったという。水無瀬さんは自分の誕生日プレゼントに色鉛筆が欲しいと願ったのだ。両親は幼少期から美術関連の物にあまり触れてほしくなかったらしく、違うプレゼントを用意したのだが、当時の水無瀬さんは色鉛筆が欲しいと泣きながら駄々をこね、結局両親は初めての娘の我が儘に折れたらしかった。


 当時五歳だった水無瀬さんは貰った色鉛筆を握り、初めて絵を描いた。


 絵を描き始めてから一週間も経たないうちに水無瀬さんの絵は、お絵描きではなく絵画になっていた。それは五歳児描いたとは思えない絵だったという。ノートに挟まれていたその絵を見せてもらったのだが、僕も驚愕した。何が描いているのかはわからない。しかし、その絵には確かな芸術性があった。抽象絵画と呼ばれる分野の絵のようだった。


 その絵を見て確かな才能を感じた両親は、今までの育児と方向性を変え、絵画に関する英才教育を施した。

 小学二年生に上がる頃には、水無瀬さんは既に画家としての頭角を現していた。

 それからというもの、両親は水無瀬さんに絵を描くことを強いて技術の向上を促した。それは学校にも碌に通わせずに、だ。


 『私は小学校も中学校も満足には通えていないので、知らないことだらけで新鮮でした』


 初めて高校に登校した時に水無瀬さんが言ったことを思い出した。

 水無瀬さんの話に、才能が周囲の人々を変えてしまう恐ろしさに、僕は何も言えなかった。


「そして、私は画家になりました」


 水無瀬さんの話はこれからが佳境に入るらしかった。


「保志さん、こんな画家をご存じありませんか?多彩の六月という呼称の日本人画家を」

「ああ、もちろん知っているよ」


 知らない訳がなかった。僕が憧れ、僕の両親も大好きだった画家の愛称だ。いきなり絵画の世界に現れ数年間日本の美術界の一世を風靡した天才と呼ばれた画家。その人気さ故に六月派と呼ばれる色彩に富んだ絵のことを言う派閥すらあるのだと、まことしやかに囁かれていたりもした。しかし、今から一年程前にいきなり姿を消した画家でもあった。

 その画家の名は。


「水無月。それがその画家の名です」


 その画家がどうしたのと、訊こうとしたとき、僕は今更ながらに気づいてしまった。


「そして、その画家こそが私、水無瀬月の正体です」

「…………」

「安直なネーミングですけどね」


 名前の漢字を思い返してみると一目瞭然だった。それに水無瀬さんの絵を思い返しても色彩豊かだという特徴は一緒だったし、色が見えなくなったせいで美術の世界から姿を消したと考えれば理解できた。むしろ色が見えない中で絵を描いても、僕よりもずっと上手な絵を描けるのは水無月だったからだと思うと、納得さえできた。


「私が画家になったことで私の人生は崩れました。お父さんとお母さんに喜んでほしいという一心で描いていただけだったのに」


 そう話す水無瀬さんの表情はただ切なく嘆いているようだった。でも涙は流していなかった。

 しかし、有名画家になれたのに、人生が崩れたという言葉に僕の理解は及ばなかった。でも、簡単な話だった。才能は周囲の人を変えてしまうのだから。


「私の絵が世界的に評価され、価値が高騰しました。両親はお金に目がくらみ、私にたくさん絵を描けと言ってきました。私は両親の為だと思い、必死に応えました。そうして気づけば、両親の仕事は私が中心となっていました」


 まるで他人のことを説明するような口調だった。

 両親の気持ちは分からなくもない。それでも、容認できるものなどではなかった。

 水無瀬さんはノートを閉じ、続きは自分の記憶を頼りに、話を再開した。


「私の絵を売って相当な稼ぎを得た両親は、私に絵を描かせながらも好きに暮らしていました。私は変わり果ててしまったそんな家族が嫌でした。昔みたいに私の絵を褒めてくれて、笑い合える家族に戻りたかった。だから願ってしまったんです。絵なんて描けなくなればいいと」

「そっか……でも誰だって幸せだった日に戻りたいと思うものだよ」


 下手に共感しても、それは軽い同情になってしまう。そうなることがわかっていたから口を挟むことも相槌を入れることもしなかったが、これだけは言いたかった。僕だって常に思っている。幸せを返せと。


「そして、私の願いを叶えるかのようなタイミングで、私は色を失いました。視界から色を失っただけではありません。見てください」


そう言って水無瀬さんはパーカーのファスナーを下げると服を捲りあげ、ほっそりとした腹部を晒した。


「え、え、え」


 水無瀬さんのいきなりの行動に動揺を隠せない。

 僕は直視しないように片手で視界を塞ぐ。


「こっちに来てちゃんと見てください。私のことを」


何を考えているのか、何を言っているのか、理解に苦しんだ。


「私の色を見てください」


 彼女は続けて言った。

 僕は水無瀬さんに近づき羞恥心を抑え込みながら水無瀬さんを見た。


「お腹や腕や脚、顔の色を見てください」


 色と水無瀬さんは言った。僕は肌の色に注目する。


「わかりませんか?」


 どういうことだろう。僕の目の前には水無瀬さんの真っ白な肌があった。日焼けに気をつけているのであろうそのキメ細やかな肌に見蕩れつつも、水無瀬さんの言わんとすることを探る。

 腹部も脚も腕も顔も、全てが真っ白だった。


「あっ」

「わかりましたか?」


 腹部が真っ白なことには納得がいく。しかし、いくら気をつけていようと脚や腕、顔は日焼けするのではないか。


「私は色を失ったんです」


 それは言葉通りだったということだ。

 色素を失った人間は、日焼けするだけで肌の病気になるとどこかで聞いたことがある。それだけに水無瀬さんはそれこそ誰よりも日焼けというものに気をつけていたんだろう。


「私の体からはおおよそ色と呼べるものが抜け落ちてしまったんです。こっちも見てください」


 水無瀬さんは両手を使い短めの茶色の髪を後頭部の辺りに束ね、うなじを見せる。いちいち僕の心臓に悪い行動はやめてほしいが、今回の行動の意味はすぐに理解できた。


「髪が……」


 生え際の髪が白かったのだ。それは初めて水無瀬さんと会った時に見た髪色だった。


「病院では、視界が白黒にしか見えなくなってしまう全色盲という病気だとか様々な病名が挙げられましたが、結局原因も本当の病気もわからないまま、ストレスという言葉で片付けられてしまいました」


 病院ではお手上げ状態らしかった。


「私が二ヶ月高校に通えなかった理由はそれらの検査があったからなんです」

「そうだったんだね」

「まあ理由はわかりませんが、こうして私は色を失い、結果的には絵が描けなくなればいいという私の望みが叶った形になったわけなんです。でも」


 水無瀬さんの表情は先程よりも深刻に暗くなった。


「でも、私に色が見えなくなったと知った両親は、絶望していました。既に一生分は稼いでいたように思いましたが、仕事人だった両親は私の絵を失い、途方に暮れていました。仕事を失ったも同然だったんでしょうね。それからの両親の目には生気がなくて、私はそんな二人を見ていられなかった。神様を呪いましたよ」


 自分が楽になったらなったで両親が苦しみ、両親が幸せでいてくれることを望むなら自分が苦しむ。そんな運命を呪ったのだろう。


「それからは嫌な予感がずっとしていました。仕事もしなくなり堕落していく両親を見ていて。両親の喧嘩は日を追う毎に増え、次第に私にも手を出すようになりました。でも、ある日パタリと暴力が止まったんです。両親は仲良く笑っていましたし、とても冷静でいるように見えました」


 僕はその水無瀬さんの話の流れに嫌な予感を覚えた。この次の言葉を聞いてしまったらもう戻れないぞ、と。


「そして、その翌日。両親は私一人を残し、心中していました。私が絵を描くことを覚え、両親の仕事場にもなっていた部屋で首を吊って」


そう語る水無瀬さんの声は震えていて、涙の無い泣き顔のような表情をしていた。それはいつか見た切なげな表情とは比較するべくもなく痛々しかった。


「以上が私のつまらない過去話です。長くてすみません。初めて人に話しましたが結構辛いものがありますね。でも、聞いてくれてありがとうございました」


 無理して笑う彼女のことを見ていられず、僕は思わず水無瀬さんの手を握りしめ、無意識に口走っていた。


「僕が独りになんかさせない!僕は今ここに、水無瀬さんの前にいる!だから大丈夫。大丈夫。本当に大丈夫だから」


 何度も何度も大丈夫と続けた。黙っていると僕の方が泣いてしまいそうだったから。


「やめてください。優しくしないでください。保志さんはずるいです。やっと独りでいることに慣れてきたのに。そんなこと言われたら私……」

「大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫……」


 水無瀬さんはずっと溜め込んできた涙をゆっくりと、時間をかけて流していった。




「本当にすみません。私、保志さんの前で泣いてばかりいますね」


 落ち着きを取り戻した水無瀬さんは潤んだ目を手で拭いながら苦笑混じりに言った。


「ほんと、今日は泣いてばかりだね」

「ちょっと、そこは慰めてくださいよ」


 水無瀬さんに笑顔が戻り、僕は想像以上に安堵していた。


「保志さんがいてくれて本当に良かったです」

「これからは何かあればいつでも頼ってね」

「ありがとうございます。でも保志さんって他人と関わらない主義じゃありませんでした?」

「それは気にしないで」


 もう他人と思えないのだから仕方がないではないか。


「でも、一つだけ言っておくと、僕と一緒にいると不幸になるよ。僕は疫病神だからね」

「それは怖い神様です。でも私は最悪の不幸を知っています。これ以上どう不幸になれって言うんですか?」

「まあそれもそうだね」


 失うものがないキャラクターは最強。みたいな理論と同じようなものなのだろうか。


「それに、保志さんがいてくれるなら、独りじゃないので最悪にはなりませんよ」

「そっか。なら、僕といることを許可する」


 嬉しさと恥ずかしさの余り、照れ隠しのために変に上から物を言ってしまった。


「なんですかそれ、おかしいです。ふふ」


 笑顔にできるなら、失敗も悪くないと思ってしまう。


「ところで、条件に出した僕へのお願いって何?」

「それはまだ秘密です。そういうものはここぞという時の為に取っておくものなんです」


 そういうものらしかった。

 携帯電話で時間を確認すると、警察からの補導対象時間になっており、そろそろ終電が危ぶまれる時間だった。

 そろそろ帰りたいのだが、一人であの住宅街迷路を突破する自信がなかった。だから僕は意を決して言ってみる。


「水無瀬さん、僕はそろそろお暇させていただこうと思うんだけど、あの住宅街で迷ってしまったら笑えないんだよね」

「じゃあ私が学校まで送りますよ」

「いや、それじゃあ僕が水無瀬さんを家まで送った意味がない。それにこんな夜遅いんだから外出させられないよ」

「それなら、泊まっていきますか?明日も学校ですけど」

「い、いやそれはさすがにまずよ」


 特に僕の理性がまずかった。


「私はいいんですけど。むしろ泊まってほしいくらいです」

「いいや、泊まるのは駄目だ」

「……そうですか。残念です。ならどうします?」

「だから、えーと、あのー」

「はい」

「携帯電話の番号、交換しない?」


 不可解な沈黙だった。


「携帯電話の番号……」

「嫌なら無理しなくていいんだよ。ただ、これから夏休み入るし、補習一緒だし、だからー、すぐに連絡取れたら便利かなって。……どうかな?」

「…………」


 続けて沈黙だった。


「ああ、いいんだよ、気にしないで。自力で帰ってみるから。明日の朝、学校行く途中で迷子の僕を見かけたら、拾ってあげてね」

「……ふふ。今日の保志さんおかしいです。断る理由がありませんよ。はい、交換しましょう、番号。そんな発想なくてびっくりしちゃったんです」


 ショック死は免れたみたいだった。いや、本当に心の底から安心した。


「それで、番号ってどうやって交換するんですか?」


 ……盲点だった。


 携帯端末と数分間の葛藤を経て僕らは無事に互いの連絡先を入手することに成功した。


「じゃあ僕は帰るよ」

「はい、スパゲッティとっても美味しかったです。ご馳走様でした」


 その感想を聞けただけで、僕はまた何か作ってあげようと思った。


「お邪魔しました」

「本当にありがとうございました」


 手を振る水無瀬さんに僕も返しながら、初めての女の子の家を後にした。


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