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第九話 涙の理由

 やっとの思いで放課後だ。


 先程の一件で、僕とみずきさんに面識があるということが露見し、その上、僕とみずきさんは下の名前で呼び合う仲だというかなり盛られた噂が忽ち広まった。

 そのせいで、一日中同性からの視線に恐怖する破目になったのだ。

 いったいどれだけの人気を集めれば、こんなにも嫉妬で恐怖を感じるようになるのだろうか。もはやその人気の底知れなさが最大の恐怖だった。


「人気すぎるというのも考え物だ」


 それに、みずきさんもみずきさんだ。僕が男子から面白くないと思われていることを知っているくせに、いつも以上に突っかかってきた。それこそ単なる嫌がらせではないか。


「お疲れ様です」

「ありがとう、水無瀬さん。最近で一番疲労を覚えた一日だったよ」


 苦笑しながら愚痴にならない程度に文句じみた言葉を漏らす。


「肩でも揉みましょうか?」

「今日の水無瀬さんはやけに優しいな」

「私はいつでも優しいですよ」

「ああ、それもそうだね」

「そこ、何か突っ込んでくれなきゃ困ります」

「はは、ごめんごめん」


 ゆっくりと僕の背後に気配が近づく。


「なんだか今日は保志さんに優しくしたくなったんです」


 そう言うと水無瀬さんは僕の肩に両手を被せ、そのまま力を込めた。


「なんとなくです。他意はありません。ただの自己満足です」

「自己満足か、それでも嬉しいよ」

「だから、喜ばないでください。単なる自己満足ですから。変な勘違いしないでくださいね」

「しないしない。でも、本当に嬉しいんだよ」


 肩に一定のリズムで圧力の緩急がつけられていく。

 それは上手とは言えない肩揉みだったけれど、何よりも、僕の肩に触れる小さな手のぬくもりが僕の心を癒した。

 僕の心も彼女の手の暖かさに同調していくようだった。


「そろそろ美術室へ行きますか」


 いつの間にか手は離され、水無瀬さんは支度をしていた。

 この時間を惜しむ僕であったが、確かにもうそろそろ美術室に行かなければ先生が待ちくたびれていそうだ。


「そうだね」


 僕も荷物をバッグに詰める。今日の描画会はないようだ。


「それじゃあ行こうか」


 水無瀬さんにはしっかりと僕の隣を歩いてもらう。以前移動教室の授業があった際に、いつの間にか水無瀬さんがいなくなっていたのだ。学校内でも迷子になってしまうような極度の方向音痴なのである。最初こそ意地を張って方向音痴なんかではないと主張していたが、今では、


「いきなりどこか行かないでくださいよ?」


 こんな有様だった。見る影もない。いつもいきなりどこかに行ってしまうのは水無瀬さんの方なのだが。

 美術室に着いた僕らは他の教室と比べて少し古びたドアをノックする。しかし、僕らを呼び出した圧のある女性の返事は聞こえない。


「美術室の中で待とうか」

「そうですね」


 例のようにスペアキーを用いて鍵のかかったドアを開け教室に入る。

 嗅ぎ慣れた油絵の具の匂いはやはり僕の心を落ち着かせる。それは絵を描いて生きてきた水無瀬さんも同じようだった。


「美術室汚いですね」


 水無瀬さんの最初の感想はそれだった。相も変わらず散らかり放題の教室だった。


「水無瀬さん、美術室は初めて?」

「あ、はい。初めてです。気にはなっていたんですが使う機械がなかったので。それに、下手に行こうとして辿り着けなかったら大変ですし……」


 声量が小さくなっていた最後の言葉は聞かなかったことにしておこう。


「確かに利用することってないよね」

「それにしても保志さんがなんで美術室の鍵を持っているんですか?」

「ああ、これはよく美術室を使っている僕に向井先生がいちいち鍵を借りる必要がないようにとスペアキーを貸してくれたんだよ」

「なるほど。単に鍵を貸すのが面倒だったんですね」

「そういうことだろうね」


 向井先生、黙って動かなければ、綺麗な大人の女性って感じなのに……。


「先生、なかなか来ませんね」

「呼び出したのは先生なのにね。まさかもう帰ったとか」

「あの先生ですから、十分に有り得ますね。まあとりあえず待ちましょうか」


 十分後。


「来ませんね」

「ああ、来ないね」


 二十分後。


「呼び出されたのって本当に美術室だっけ?」

「そのはずですけど、自信がなくってきました」


 三十分後。


「…………」

「…………」


 一時間後。


「……そろそろ帰ろうか」


 窓の外は真っ暗だった。


「一時間も無駄にしちゃったね。せっかくなら絵でも描けばよかったな」


 美術室に立て掛けられた時計の短針は時計一周の後半部分に差し掛かっていた。

 そして、僕が帰ろうとバッグを持ち上げた時だった。


 ――ガチャ。

 何か不吉な音が聞こえたような気がした。


 音の聞こえたドアに手を掛けた水無瀬さんは、弾んだ声で言った。


「保志さん保志さん、ドアが開きません」

「そうか、ドアが開かないのか」


 本当だ。水無瀬さんの言うとおり、目の前の扉は固く閉ざされている。

いくら押しても引いても叩いてもドアはびくともしない。


 美術室のドアには内側から差し込む鍵穴が無かった。今の僕たちは、文字通り八方塞がりになってしまったようだった。

 事の重大さに気づいた僕は、この状況を打開すべく他の方法を模索するが、何も思いつかない。

 このままだと、水無瀬さんと密室で朝を待つことになる。それだけはまずい。

 健全な男子高校生である僕が最も危惧したことはそれだった。


 学校の教室に閉じ込められたことや、そのまま一夜を明かすことなど、騒ぎになりそうなことは幾つもあったが、その中でも僕が最大の焦りを見せた理由は、やはり異性とと朝を待つということだった。それが、学校というのだがら何というか更にまずい気がする。

 微かな希望を胸にドアを叩いて大きな音を出したり、声を出して助けを求めるが、しかしそんなことは石に灸だった。


「保志さんとても焦っていますけど、早く帰らなければいけない理由でもあるんですか?」

「いや、そういうのは特にないよ」


 帰れないことではなくて、今の状況に焦りを覚えているのだ。


「ならいいじゃないですか、このままで。私はむしろ帰らなくていい理由ができて喜びすら感じています」

「でも、僕と夜を明けるなんて嫌だろう。早く出る方法を探そう」

「いいんです。独りでいるよりずっといい」


 それでは僕がよろしくない。早急にここから脱出しないと。

 しかし、動き回る僕を、水無瀬さんは僕の制服の裾を引っ張ることで止めた。


「だから!何もしなくていいんです。……今はまだこのままでいさせてください、お願いです」


 水無瀬さんは僕の制服の裾を引っ張り俯いたままそう言った。

 途轍もなく不安そうにする彼女を前に、僕は触れることも立ち去ることもできずに、美術室の木製の長机に座り込むだけだった。

 水無瀬さんも僕に倣って腰を掛ける。隣に座る水無瀬さんは何をするでもなく、ただただ俯き、沈黙を決め込んだ。

 照明の一つも点いていない美術室に入り込む月明かり。その明りだけが僕ら二人の空間を淡く照らしていた。


「よし、帰らないなら、絵を描こう」

「いいんですか?」

「いいんだよ。どうせ帰ってもやることないし」

「……ありがとうございます」

「さあ、何を描こうか。せっかく夜なんだし、月でも描こうかな」

「月、ですか」

「それも二つの月を描こうと思うんだ」

「二つの月?月は一つしかないですよね?」

「いいや、あるよ。というかいるよ。僕の目の前に」

「ああ。変な言い回しされちゃわかりませんよ。読み方も違いますし」


 文句を言いながらも、水無瀬さんの表情はにこやかだった。


「では私はなにをしていればいいですか?」

「そうだな、じゃあ窓の縁に手をかけて、月を眺めるようにしていてくれる?」


 そう言うと、水無瀬さんは立ち上がり、僕の目の前まで移動する。

 窓を開けて、その縁に片手を添え、夜空を眺める。僕のイメージ通りのポーズだった。

 水無瀬さんは、何度か行われた描画会を経たおかげかモデルが様になっている。


「こんな感じでいいですか?」

「大丈夫だよ。ありがとう。立っているのに疲れたら言ってね」

「はい、わかりました」


 この返事が夜の描画会を開始する合図となった。

 絵を描き始めて訪れた再びの沈黙。度々聞こえる虫の音は、夏の訪れを感じさせた。

 開けた窓から入り込む夜風は心地よく、僕ら二人きりの教室は穏やかな空間に包まれる。


 しかし、まだ絵の下書きの段階で、そのあまりの心地よさに気持ちを緩めていた僕は、不意に目に飛び込んだ彼女の横顔を見て、胸が穿たれたかのような苦しみを覚えた。

 送られる視線の違いに気づいたのか、水無瀬さんは僕の方に振り返った。


「どうかしましたか?」

「い、いや、なんでもないよ」


 そうは言うものの、僕の胸の苦しみは増すばかりだった。

 理由はわかっている。

 穏やかな夜風に吹かれる凛とした彼女の横顔に、儚さを感じたからだ。


 それは僕がまだ誰とも関わっていなかった頃、水無瀬さんに初めて会った時に感じた感覚だった。

 思い出す。あの日のことを。


 六月の最終日。僕は水無瀬さんと出会った。涙を流す水無瀬さんと教室で偶然にも居合わせてしまった。

 そして、その時見た水無瀬さんの雰囲気と、今目の前で夜空を見つめている水無瀬さんの纏う雰囲気が酷似しているのだ。

 月光に照らされた水無瀬さんの髪は、あの日見た儚い少女の髪のように透き通っていて、その光を吸収したみたいに輝いている。目の前の水無瀬さんは茶髪のはずなのに、今だけは白く光って見えた。


 ――とても、美しかった。


 まるであの日に戻ったかのような錯覚に陥った。違いと言えば場所が美術室なことと、差し込んでいるのが西日の光ではなく月の光だということくらいだ。


「保志さん、本当に様子が変ですよ。具合でも悪いですか?」

「いいや、大丈夫だよ。何も心配はいらない」

「そうですか。保志さんこそ何かあれば言ってくださいね」

「うん、ありがとう」


 僕を心配してくれている水無瀬さんの表情が、涙を流すあの日の少女と重なる。

 ……今更気づいてしまった。

 最近は表情が柔らかくなってきた水無瀬さんだが、当時の無表情さからは考えられないことだ。水無瀬さんが泣くなんてことは。


 普段笑顔さえもなかなか見せない彼女がとめどなく涙を流すなんて、何か特別な理由があるはずだ。

 水無瀬さんは僕の絵を見ながら涙を流していた。

 では、なぜ僕の絵を見て涙したのか、それを考える必要があった。


 水無瀬さんと出会ってからまだあまり時間は経っていないが、おそらく誰よりも彼女と時間を共有した。お互いに独りぼっちということもあって、理解も深まり心を通わせることも多少はできたと思う。

 彼女の抱えていることを知るには共有した時間はまだまだ短い。しかし、それを知り水無瀬さんに近づかないと、僕の前から消えてしまうような不安があった。そんな儚さを纏っていた。


 だから僕は、自分が安堵するためだけに彼女の内を探る。

 だって僕はまだ、君と一緒にいたいから。

 鉛筆を走らせる手は止めずに、記憶の海に潜る。

 今まで一緒に過ごした時間の中に答えがあるはずだと信じて。




 水無瀬さんと初めて会った日、僕の絵を見て泣いていた水無瀬さんが残した書置きには『私、あなたの絵が好きです』そう書かれていた。それが彼女の最初の言葉だった。あの言葉から僕と水無瀬さんとの友達とも言い難い不思議な関係が始まった。


 やはりそこから推測するに、僕の絵に何らかの意味があるのは確かだろう。


 僕が水無瀬さんと今まで一緒にいた中で、絵に関して気にかかったこと、それはどんなことか。

 まず、水無瀬さんが僕の絵を初めて見た時の絵に対する感想を思い出す。水無瀬さんは当然のように僕の白黒の絵に色を見た。その時、彼女はこう言ったのだ


 ――この絵の中の女性は金髪で、雲ひとつない青空が背景になっていてその金の髪がキラキラ輝いて見えるんです。そう見えたことが嬉しくて。


 これが彼女の最初に言った感想だった。単に綺麗な絵だとか、同じ絵を描く人間として改善点を指摘するのだとか、そういうことではなかった。


 それからというもの、時折水無瀬さんには意味深な言動が見られた。その時の僕は深く追及しようとも、考えようともしなかった。しかし、それが水無瀬さんからの何らかのメッセージだったとすれば、考えない訳にはいかない。


 次に気にかかったことは、交換日記ならぬ交換絵画をした時のことだ。互いに大雨に曝される校庭を模写したのだったが、水無瀬さんから譲り受けた絵には、雨など降ってはいなかった。それはもう幻想的で芸術的な校庭が描かれていた。言葉を選ばずに言ってしまえば、美しくも不気味な絵だった。そんな絵を描いたことには理由があるはずだ。なぜなら、今日の美術の授業で描いた水無瀬さんの絵も、現実とは大きく離れた色使いの絵であったからだ。それはもう模写とは言い難い絵だった。さすがに授業の絵まで好き勝手描いているはずはないだろう。


 そういう絵しか描けない理由がきっとあるのだ。


 現在進行形で恙無く滞りなく行われている描画会だが、その描画会が初めて開かれ、彼女の姿をポートレートとして初めて収めた絵を見て、モデル本人である水無瀬さんが言ったことも気にかかった。


 ――自分の髪色はこの絵を見て初めて知りました。


 この言葉だ。初めて会った時は白い髪をしていた水無瀬さんだが、学校に通う為に校則に従い茶色に染めたようだった。そして、染めた後の髪色を水無瀬さんは僕の絵を介することで初めて見たと言ったのだ。当時の僕はその言葉の意味を妙に難しく考えていたが、実際にはそんなに深い意味はなく、むしろ言葉通りの意味合いだったのかもれない。


 そこまで考えると、僕の脳内では、彼女の涙の理由の答えが形になってきていた。

 そもそも、一度熟考しさえすれば、すぐにこの結論に辿り着いたのではないのだろうか。


 僕の絵を見て涙した理由。その理由の最大のヒントとは僕の絵を見て涙したことなのだから。

 絵を見て感動したことにより涙を流したのは、紛れもない事実なのだろうが、その感動とは、普通の感動とのベクトルとは違うものなのだ。


 水無瀬さんの技量をもってすれば僕程度の絵など容易に描けてしまう。ただ、水無瀬さんが見たのは僕の絵の技量ではなく、色だ。

 僕の絵には、白黒の絵であるのに、見る人によっては色が見える、という特徴があった。それだけは水無瀬さんでも再現できないのだろう。

 そして彼女は、モノトーンの絵の中に色が見えたから感動したのだ。泣くほどに感動したのだ。

 それほどまでに感動した理由というのが、



 ――彼女の視界には、世界には、色が無い。



 ということである。

 詳しくは、僕の絵を介してでしか色が見えないと言ったところだろうか。

 これは僕の予想でしかない。本人に聞かない限りその正誤はわからない。

 しかし、この予想を立てた上で再び記憶を掘り返して見ると、水無瀬さんの意味深な言動に説明がつくのだ。


 ――この絵の中の女性は金髪で、雲ひとつない青空が背景になっていてその金の髪がキラキラ輝いて見えるんです。そう見えたことが嬉しくて。


 この言葉にも確信的な説明がつく。

 水無瀬さんから貰った例の校庭の絵だって、描いた時が天候の悪い夕方頃で全体的に暗かったため、水無瀬さんからしたら、ほとんど真っ暗に見えたのだろう。そこで街灯などを頼りに、手本とした街並みの形を描き、後は気の向くまま、自分の描きたい世界を描いたのだろう。水無瀬さんの精一杯の模写だったのだ。


 ――自分の髪色はこの絵を見て初めて知りました。


 僕の絵を介してでしか色が見られないと言うのなら、この言葉もそのままの意味だと捉えて間違いないだろう。


 そして、水無瀬さんがライナスの毛布のように常に持ち歩く色鉛筆。その色鉛筆毎に貼られていた色名を記すシール。これは、単純に鉛筆毎の色を区別するために貼っているものだと推察できる。


 今日の美術の時間でも違和感を覚えたことがあった。尤もこれに関しては深く考えずとも疑問を持ったのだが。

 それは、学校から貸し出された絵の具の色が不足していた為、みずきさんが水無瀬さんに色を借りようとした時のことだ。

 みずきさんは緑色の絵の具を水無瀬さんに借りようとした。しかし、水無瀬さんが渡した色は赤色だったのだ。見間違うことのない緑色と赤色。しかし、水無瀬さんの視界には全く同じ色に見えていたはずだった。故に間違えた。寝ぼけていたわけではなかったのだ。


 この世のすべての色から全色同じように少しずつ色素を抜くとしよう。すると徐々に色は薄くなり、白色に近づいていく。そして全く同じタイミングで白色に染まった色は全く同じ色の濃さを持つとも言える。

 色の濃さだけを頼りにするモノトーンの世界でそれを見たとしたら、それらの同じ濃さの色は全く同じ色に見えてしまうのだ。


 そして、市販の絵の具などに入っている色は、色の濃さを一定にされている。さすがに黄色と青色であれば色の濃さ、明るさなどで一目瞭然だが、それを黄色と水色、赤色と青色と変えて注目してみると、どちらが濃いか薄いかなど一概には言えないのではないか。

 そういう似通った明るさ、濃さの色というのがすべて同じ色に見えてしまっているのだ。


 彼女はずっとそんな色の無い世界で生きてきたのだ。


 確かに、色が見えなくなったのに、偶然目にした絵には色があったとなると、感動して涙も流すだろうし、その絵を手離したくなくて持ち去ってしまうかもじれない。

 初めて水無瀬さんと出会ったあの日の彼女の行動に、全て理由がつく。

 これが、水無瀬さんの涙に対する僕の出した答えだった。




 僕が思考の海から上がった頃には、手元の月が描かれたポートレートは完成していた。

 絵を描き始めてから既に二時間が経過していた。その間、水無瀬さんはすっと同じ体勢で立っていてくれたことになる。


 僕は確信を胸に描き終えた絵を持ち、水無瀬さんのもとへ歩み寄る。

 ずっと夜の街を眺めている水無瀬さんは、僕が席を立ったことに気づき、こちらに振り向いた。


「今日の月は本当に綺麗だね」


 窓の外では満月が絢爛と夜の街に光を贈っていた。

 それは見事な満月だった。


「そうですね」


 しかし、水無瀬さんの返事は無気力でそっけないものだった。

 でも僕はそんな返事を予想していた。


「いいや、嘘だよ。その返事は」

「えっ……」


 水無瀬さんは虚をつかれたかのように、僕に視線を向け呆気にとられている。


「本当は満月なんか綺麗だと思っていないんだろう?そればかりか、この世界のどんな景色だって美しいと感じていないはずだよ。なぜなら、君の目には、月の輝きが――色が見えていないのだから」

「…………」


 僕はその無言を肯定と受け取り話を進める。


「僕には詳しいことは分からないし、僕から聞き出すつもりもない。だけど、気づいたんだ。水無瀬さんへ対する違和感に。君の描く絵に抱いた違和感の正体に」


 一拍置いて、言葉を重ねる。


「僕は水無瀬さんの描く絵に憧れた。僕とは違って色を使いこなして色鮮やかな絵に仕上げる。それが羨ましかった。でもそれは違った。水無瀬さんはちゃんと絵を描けていなかった。そして僕は、本当の水無瀬さんの絵が見たいんだ。僕は色が見えている状態の水無瀬さんの絵が見たい」


 自分勝手な言い分だということは理解している。しかし、これが僕の答えだったのだ。


 僕が水無瀬さんと一緒にいたいという気持ちの答え。


「そんなことできたら苦労しないと思うかもしれない。沢山の苦労を重ねても、それでもどうしようもなかったのかもしれない。誰に頼ることもできずに独りで悩んでいたのかもしれない」


 一呼吸を挟むことで落ち着きを得て、それから最も伝えたいことを慎重に、言の葉にのせる。


「ならさ、僕が水無瀬さんの世界に色をつけるよ。僕を頼りにしてよ」


 水無瀬さんが僕の空っぽの日常に色をくれたみたいに。

 それが僕にできることだから。僕にしかできないことだから。


「僕の絵なら、色が見えるんでしょう?」


 未だ呆然と僕を見上げている水無瀬さん。しかし、僕の言葉を聞き終えると、頬にスーッと一筋の光が流れ落ちた。


「水無瀬さん」


 僕は努めて優しい声音で目の前の少女の名を呼ぶ。

 水無瀬さんは名前を呼ばれたことで、我に返ったのか、ビクリと少し体を震わせて、僕に焦点を合わせる。


「絵、完成したよ。見てみる?」


 涙を流したまま水無瀬さんはコクッと頷き、僕から絵を受け取る。


「どう、かな?」


 水無瀬さんは何も言わない。

 ただ僕の絵を見つめる瞳からは涙が絶え間なく溢れ出している。

 その零れ落ちる一つ一つの涙が、夜空に流れる星のように、輝いて見えた。

 それからも、涙はとどまることを知らずに溢れ続けた。


「今日の月は綺麗だろう」



「…………はい、とっても」



 涙声で彼女はそう言った。


 そして、涙のとまらない顔を僕の方に向け、いつものように薄い表情で、でも誰よりも優しく、破顔した。

 その泣き顔は、あの日見た白い髪の少女の泣き顔とは違って、和やかに僕の心へと浸透していった。


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