短い誕生日会。
昭和54年(1979年)の春先は、西城秀樹の”YOUNG MAN"が流行っていた。Y,M,C,Aの振り付けと共に老若男女全ての世代受け入れられたヒット曲だった。
4月、高校3年になったオレは3年C組に入った。3年は”完全成績順”でクラスが決まったいたので、宮下の居る3年A組やB組のような”特進クラス”ではなかったが、普通クラスの中では一番良いクラスだった。また、松田も頑張りD組に入る。8クラスある中ではギリギリではあるが上位だ。
当然ではあるが、オレは大学を目指す2人とは違い予備校や塾など行かず、この時代未だ日本では僅かしかないTOEFL対策を専門とする学校と、英会話学校を掛け持ちして通っていた。また、話は前後するが、オレの”アメリカ留学計画”をサポートしてくれたのは、金銭面以外の全て、”宮下とその一族”だった。元々、留学自体、大反対だった名古屋に住むオレの両親を、説得してくれたのも宮下自身だった。
「俺はただ、日本に帰って来て、初めて友達になってくれたお前への恩返しなんだよ。出来ることは何でもするさ」と、”一般人”ではとても言えないようなことサラッと言い、オレの両親が金銭面で折り合いが付く”2-3年の留学期間”と、オレの希望する『映画・映像の勉強』が出来るハリウッドの専門学校を、宮下一族が創業したM商事Los Angeles支店に駐在する”北村さん”と言う、宮下の母方の従兄が見つけ出し、オレがアメリカに行く時期から、専門学校入学までのカリキュラムまで作って貰った。
「分からない奴が自分だけの力でアメリカに留学をしようとしても中々難しい。金銭で騙されたりして『留学崩れ』になる奴も多い。だから、俺のルートに乗っておけよ。専門学校でて未だアメリカにいたいと思った時もオレに相談しろ、又、お前の名古屋の両親説得してやるから」と、言われれば一般人は「はい!」と答えるしかなく、オレは兎に角、夏のTOEFLで”ハリウッドの映画専門学校”に行けるだけのスコア出すことが絶対的だった。
因みにその頃、久仁子は順調にモデルの仕事を伸ばし、中ページだけだが、殆ど全ての”ローテイーン”,”ハイテイーン”誌に出ていた。そんなこともあり、3年になって、夏までの間で彼女と出会えたのはたった一度、久仁子の仕事が代々木上原のスタジオであった時だけであった。
「このまま行けば、そこそこ短大に推薦で行けるよ」と相変わらずの笑顔で言っていた。
夏、当時、数少ない日本の試験場でTOEFLを受けたオレ。TOEFLは”自分の英語レベル(スコア)”を示す試験で合否はない。だから、今回スコアが低くても、又、受けてスコアを上げればいいものだ。しかし、この時代、日本で受けるのは予備勉強からしても高額だった。だから、”宮下一族”が作ってくれたカリキュラム通りに進めないと、両親の負担が大きくなり留学出来なくなる。今後のスケジュールを考えると、”映画専門学校”に行けるスコアを一発で是が非でも出さないといけない状況であった。そして暫くして出た結果は、ギリギリだったが行けるスコアを確保した。
そしてオレは、英会話学校を継続し、空いてる時間に”自動車学校”にも通いだした。アメリカは自動車社会。向こうへ行ってもライセンスを取らなければいけないが、先ずは国際免許証を取る必要性を感じていたこと、そして、何れ日本に帰って来た時の事を考えると、9月に18歳になるオレは今しかないと考え”留学カリキュラム”に入れて貰った。
その忙しい9月、そろそろ秋風を感じるようになった曇り空の9月16日日曜日、久しぶりに虹橋で久仁子と会った。
10日が久仁子、14日がオレの誕生日。2年前までは、”お互いの誕生日に近い日曜日”に”虹橋デート”を何となくしてプレゼントを交換していたが、それが去年崩れた。もし今年も”誕生日虹橋デート”が出来ないと、来年以降、オレは間違いなく日本にはいないので、この先このデートは考えられない。それもあって、この日仕事だった久仁子も合間を見て、午後2時から1時間だけだったが虹橋に来た。
「お祭りの後に、初めて2人で来てからもう4年以上経つんだよね。早かったのかな?でも、色々あったし、お互い成長したよね?」
「成長?久仁子はそうかもな。オレはマダマダ。来年からが勝負だよ。」
「そっか、そうだよね。まあ、短大生になったら夏休みとかロスに遊びに行けるし、今より気を使わないできっと遊べるよ。」と久仁子は前向きだった。
「オレ、もうすぐ車の免許取れるよ。でさ、高校の”卒業旅行”ってことでさ。3月に2人で日帰りでも・・・まあ出来れば1泊でもさ、オレの運転でドライブ旅行しない?」
「ユウが運転するの?危なくない?」と笑いながら久仁子は言った。
「大丈夫。オレは結構慎重な性格です。知っているでしょ?」とオレ。
「まあね。いいよ!行こうよ。1泊でもいいよ。何とかするから」
「ありがとう!じゃあ計画して電話する。あ、オヤジさんやオフクロさんには勿論分からないようするから」
「いいよ。全てユウに任せる。その代わり必ずワタシを楽しませること!いいよね?」
「了解」
「じゃ、これあげる!」とプレゼント用の小さな紙袋をオレに渡してきた。
「これ久仁子が作ったの?」
「だよ。美術の授業の時、七宝焼きやったんで作ったよ。ゴメンお金かけないで」と軽く頭を下げる久仁子。それは、”ハートに矢が刺さった”絵柄のキーホルダーだった。
「どんな車なのか分からないけど。旅行へ行く時に車のキーに付けてね。」
「勿論!で、オレからはこれ、誕生日おめでとう!」と、発売されて半年ぐらい経つが、久仁子が欲しがっていた、クルースのアルバム「NEW YORK CITY N.Y.」をプレゼントした。
久仁子は喜んでくれた。「今のボーカルのピッピ。良いんだよね。」と、言ってから暫くクルースのコアな話を彼女から聞かされたが、その時のオレは全く分からない話だった。
でも、楽しかった。短い時間だったけど。
オレは10月末に自動車免許を取得した。
そして周りの連中は、進学に向けて猛チャージを掛けているところだった。
季節は冬になった。分かっていたが、クリスマスイブを久仁子と迎えることは出来なかった。久仁子は初めてのテレビ出演がその日決まっていた。特番のアシスタントでチョット出るだけ。言葉では分かったつもりだったが、オレ自身、本当の意味で久仁子が遠く感じた最初のエピソードだったと思う。
年は、いよいよ80年代に入った。
昭和55年(1980年)、オレは5月末にアメリカに向かう。