心に太陽を。
昭和51年(1976年)の元日、お祭りを行う地域の神社へ、オレと飯島久仁子、そして知らない間に付き合いだしてたお互いの友人、井上隆と梶山夕子と一緒に初詣でに行った。
オレと井上との間では、前夜の大晦日に行われた”レコード大賞”の結果と”紅白歌合戦”が話題となった。
「大賞が布施明の”シクラメンのかほり”は順当だけどさあ、最優秀新人賞が細川たかし、って何となく納得出来ないよな。やっぱり、岩崎宏美じゃないかな?」と井上。
「それより、紅白のダウンタウンブギウギバンドだよ。衣装がツナギだったよな。」
それなりの時節に合った会話だと、オレたち2人は思っていたが、女子2人は違った。特に夕子だ。
「あんたたちさ、未だ小学生みたいな大晦日すごしているんだ。アタイも久仁子も、もう、歌謡曲なんて興味ないよ。時代はクールス!」
実は、久仁子と”虹橋デート”の際にも去年の秋以降、再三聞かされたことだが、元々、チョット”不良”の夕子が好きだった、ロックバンド”キャロル”が去年の4月に解散。その後、弟分的存在だったクールスが9月にデビューすると、夕子は久仁子に感化させ、2人でファンになっていた。だから、久仁子とのデート中には「ボスの舘ひろしの雰囲気が凄く素敵!」等々と熱く語られ、オレはその時、半分以上「そう・・・」と答えてまとも聞いてはいなかった。
ただ、2人の女子だけではなく、オレも井上も何となくだが、興味を途中から持ち出し、そうそう一般の歌番組には出てこなかったが、当時の中高生の必須番組、平日午後5時からやっている”ぎんざNOW!”のゲストコーナーにたまに出てくる、クールスを”ある意味”興味を持ってみていたことは確かであった。
また、4人にとって、この初詣は共通のテーマがあった。この年、4人は中学3年になる。要するに高校受験に対してだ。
この4人の中で、飛び抜けて勉強が出来たのは、なんと夕子である。彼女は自分で「センス」なんて言ってたが、見た目とは違い、かなりの努力家だったと思う。後の3人は、ほぼ、”中の中”をフラフラしてる感じだった。何れにしても、この初詣の時は未だ、高校受験というもの4人共全く直視してはいなかった。
そして桜咲く4月を迎え、当たり前だが、めでたく3年生になり、4人が同じクラスになったのであった。
この1976年という年だが世の中的には、7月のロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕されたことが代表的ニュースであろう。しかし、久仁子、夕子、井上はどうだったか分からないが、オレ自身にとって”ピンクレディー”のデビューが一番ショッキングだった思う。
受験勉強が大切になる2学期だが、オレたちは”虹橋デート”を続けており、良く久仁子の前で”ペッパー警部”を口ずさんでいた。
そして、受験の追い込みに当たる秋も深まる10月の末、事件が起きる。
久仁子が体育の授業中に骨折した。
持久走中、久仁子の前を走っていた女子が足を取られ倒れた際、避けようとした彼女の後ろから、スピード上げてきていた男子生徒に突き飛ばされ、コンクリートの側溝にぶつかった事が原因で、右足首を骨折、全治2か月だった。
10日間は入院が必要で、その後は様子を見てリハビリへ進むことになる。
入院当日、オレは放課後、学校から速攻で直接病院へ向かった。街で一番大きな総合病院だ。
彼女の病室に入った所、こちら側から見える所に小学校高学年位の少年が座って本を読んでいた。
「あの、飯島久仁子さんは?」とオレが少年に聞いたところ、
「お姉ちゃん、誰か来たよ」とそっけない感じで伝えられ、奥のベットから彼女の声が聞こえた。
「誰?ユウ君?」
「だよ。大丈夫かよ?」
「大丈夫、大丈夫。チョットね、ドジちゃったんで」と屈託なく笑う、久仁子。
「でも今大事な時期だからさあ。心配だよ」
「ありがとう、ユウちゃん。でもどうせ、学校行って勉強したところでさ、トップクラスの高校なんか行けないし」と、また笑う。
「あっそだ、その子ね弟だよ。健太郎、小学4年生だよ。ケン、お兄さんにチャンと挨拶した?」
「こんにちは」と無表情に健太郎はオレに挨拶してきた。
取り敢えず、「よろしくな!」と笑って答えていたオレだったが、久仁子に弟がいることを1年数か月付き合ってきて初めて知ったことに驚くしかなかった。
久仁子曰く、入院は10日間位で、その後は様子を見ながら治療をしリハビリを行うそうだ。
既に話はついているらしく、当面、夕子に放課後毎日病院に来て貰い、学校の勉強、宿題の面倒を見て貰うとも言っていた。
そして11月中旬、夕子から久仁子の退院の知らせを受ける。
暫く自宅療養になるようだ。松葉杖が使えるようになれば学校に来れるとのことだった。
「今日はバタバタしてるみたいだから、明日でも、久仁子の家に行ってやってよ。喜ぶよ。」と夕子。
「ああ、そうする・・・。ん・・・。チョット待て、オレ、彼女の家行ったことないよ。」
「商店街の”飯島硝子店”だって知ってるじゃない。あそこだから、別に簡単でしょ。」
「いや、そういう話じゃないよ、夕子。あのさ、オレさ、アイツの弟しかあったことないんだよ。で、急にオレが行ったりしたら、オヤジさんとかオフクロさんにマズいんじゃない?」
「だらしないね、ユウは。行って『こんにちは』位言えるでしょ」
「いや、出来れば、夕子も行ってくれないかな?」
「甘い!、アタイは自分の勉強で忙しいのです。じゃあね。」
考えてみた。1年以上付き合ってきたが、会うのはいつも”公園の虹橋の上”。それも日時を決めてたので、イレギュラーはなかった。だから、彼女の本当の家での私生活なんて知る由もなかった。
兎に角、こうなったら行かなければならない。翌日は土曜日、元々のデート日だ。
オレは覚悟を決めた。
大きな幹線道路に繋がる商店街、幹線道路から入ってくると、次の交差点の右側に「飯島硝子店」がある。
店の入り口に来たところで、オレは中を覗いた。店先は作業場なのか、ガラス材が雑然と置いてある。
そして奥の方で、中年の男性が何か作業をしているように見えた。
「こんにちは、あの、久仁子さんと同じクラスの水島です。久仁子さんいらっしゃいますか?」と、ドキドキする胸の気持ちを抑えつつ、それほど大きな声ではなく尋ねてみた。
その中年男性は鋭い目付きで、オレのところまできた瞬間、「ちょっと待ってろ」と一言だけいい、家の中に向かって「おい、久仁子の知り合いが来たぞ!」ッと大声で叫んだ。
その直後、家の中から今度は中年の女性が出てきて愛想よく「お友達ね。上がって」と誘われるまま、家の中に入り、其の儘、1階の角のドアのところまで連れてこられた。
「久仁子、お友達が来たわよ」と言った後、「えっと、お名前はなんでしたっけ?」と聞かれた。
その瞬間、ドアの向こうから「水島君だったらいいよ!どうぞ!」と声がした。
「あなた、水島君?」
「ええ、水島です」
と、よくわからない会話だったが、兎にも角にも、彼女の部屋に堂々と入ることが出来た。
「ゴメンね。ウチの両親気が利かなくて。何しろ2人でこのガラス屋やってるから、家事もそうだし他のことが全くダメなの。だからね、入院した時も弟が世話に来たりしてたでしょ」
「いや、そんなことないよ。でも一応聞くけど、オレこの部屋入っても問題ないよね」
「ゼンゼン!だって今、ユウ君、私に何か出来る?」
まあそうだ。彼女の足は、痛々しい程ギブスに覆われている。動かすのも難儀だ。
突然近づき、何かしようとしても(ま、絶対ないが)、痛みで騒がれて仕舞うだろう。
オレの心は、淫らものはなく、純粋に”お見舞い”に来たのだ。
久仁子の部屋は、ごく普通の6畳間で、ベッドと机、飾り棚、箪笥があり、見た感じ、15歳の女の子にしてはシンプルな部屋であった。ただ、彼女のベッドの上には大きなポスターがあり、クルースのメンバーが不良っぽいポーズでこっちを見ていた。
オレが”クールス”以上に気になったのは、そのポスターの横に貼ってあった、何かの人生訓、いや詩が書いてある紙である。近くに寄ってみる。
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ツエーザル・フライシュレン 原作
山本有三 訳詩
心に太陽を持て。
嵐が吹こうが、雪が降ろうが、
天には雲、
地には争いが絶えなかろうが!
心に太陽を持て。
(云々)
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「久仁子、これ何?」
久仁子は、チョット照れ笑いしながら答えた。
「ウチのお母さんね。栃木県の栃木市出身なの。で、その山本有三って人もそこの出身の作家なんだけど。その辺りの学校では、山本有三の作品を勉強するらしいんだ。で、前にね、栃木のおばあちゃんちに行った時にね、昔お母さんが使ってた部屋の本棚にこの紙があったの、で、なんか気に入ってね。」
「ふーん。そうなんだ。でも、前向きでいいね。」
「そう、これを見るとね。どんなことがあっても明るく生きようって思うだよね」
「『心に太陽を持て。』かあ。そうだよな。」
「そう、だから今、骨折になっても明るいの」と大きく笑う久仁子であった。
この”明るさ”と“気丈さ”なのか、久仁子の骨折は12月の初めには完治していた。
この骨折で、2学期の中間テストが受けられなかった久仁子とって、期末テストで成績を取り戻さないといけない為、かなり必死になっていた。
松葉杖でも放課後塾に通い、終わった後も、夕子やオレや井上(夕子はともかく、オレと井上は役に立ったか分からないが)も彼女の家に行き、出来る限りのフォローをした。
そんなこともあり、久仁子と付き合っての2年目のクリスマスは、只々、彼女の勉強だけに注がれ、何もできなかったが、彼女も無事成績を”中の中”まで取り戻すことが出来たので、それはそれでよい思い出としてオレの中で残っている。
ただ、3学期になっても慌ただしく、残り少ない中学時代、久仁子との”虹橋”でのデートは再び行うことは出来なかった。
昭和52年(1977年)3月、街はどこへ行ってもピンクレディーの曲がかかっている中、オレたちは中学を卒業した。そして高校は、4人それぞれが違う学校へ行くことになった。
一番凄かったのはヤハリ、夕子だった。彼女は、都立最高峰のH高校に決まった。クールスファンであったが、もう彼女からは”アノ”不良っぽさは無くなっており、将来の夢は”教師”になることとハッキリ言っていた。
夕子の彼氏となった井上も、彼女からのコンプレックスを出来るだけ無くすため、奴なりに頑張り、M大学の付属高校に進学した。井上は「仮に夕子が東大に行ったとしても、俺が行く高校であればエスカレーター式に”まあ”それなりに釣り合う大学だよ」と強がっていた。
骨折で苦労した久仁子は、都立の共学校で偏差値も”中の中”であるY高校に進学が決まった。オレとしては女子高に行って欲しかったとチョット思っていた。
そしてオレは、偏差値では中の上クラスの私立の男子校K高校に進学した。進学校で、又、大学受験勉強が大変かな?とは思ってはいたが、特に希望があったわけはなく、受けて受かった中で「一番良い高校」という理由だけで決めたのであった。
オレも、久仁子も、井上も、夕子も「一生、こんな絆でやっていきたいね」なんて約束し夢を語っていた。そして別々の高校へと進んだ。
高校のスタート時は、4人の思い通りに進んで行った。何も問題なく。